88.尊厳の回復

聖書箇所[マルコの福音書5章1−20節]

 私はゴールドカードを持っています(VIP用?クレジットカードです。自慢をするためではありません。まずはお読みください)。このカードを提示しますと、成田空港や羽田空港には専用の部屋が用意されており、自由に使用でき、飲み物やクッキーのたぐいは飲み放題、食べ放題。私は空腹でなくても喉が乾いていなくても使いたいのです。
 私は自分の心理を探って見ました。なぜ使用したがるのだろうか。私の解答はこうでした。「私は特別扱いされたい、尊重されたい、重要な人物であると思われたい」という意識ではないかと考えました。果して当たっているでしょうか。
 これは何の問題かと言えば、尊厳の問題です。私の父は57歳で定年を迎えました。彼は家においても職場においても非常に権威のある人でした。ところがその定年を境にすっかり変身してしまいました。足取りは弱々しく、目にもことばにも鋭さが失われて行きました。定年とは「もう来なくてもいいよ、あなたはもはや必要とされていないよ」ということなのでしょう。これも尊厳の問題です。
 私たちは尊厳が傷つけられた時に元気がなくなります。尊厳が保たれているとき、どんな問題にも立ち向かって行くことができるし、新しい希望を忘れないでいることができるのです。

 今回はどうしたら尊厳を回復することができるかをご一緒に考えましょう。回復と表現するのは、実際失っている、あるいは傷つけられている人々が多いのではないかと考えるからです。この聖書箇所では何が起きているのでしょうか。イエスさまがゲラサにお出かけになったとき、悪霊(汚れた霊)に憑かれた男と出会いました。彼は異常なふるまいをし、人々からも恐れられ、遠ざけられていました。でもイエスさまは彼から悪霊を追い出し、彼は正気に返ったのです。

自分の弱さを認識

 人は弱いもので外部の力によっていとも簡単に動かされてしまいます。彼の場合は悪霊でした。外から彼の中に入り込み、彼を思い通りに動かしています。悪霊に限りません。暑さや寒さや、朝出掛けに会いたくない人に会ってしまって、その日一日ずうーっと気が重いなどということさえあります。「私は強い」などと思っていると、事実とのギャップによって余計自分を苦しめることになります。
 神さまはあなたを愛していてくださる、それゆえにいろいろな弱さを自覚させる場面をあなたに用意して下さっています。すべては御手の中で起きています。ヨブ記を読みますと、サタンの告発に対して神さまがヨブを弁護しようと一生懸命であることがよく分かります。彼は受けた試練の中で自我が砕かれ、最終的に2倍の祝福を受けました。
 どうかあなたが自らの弱さを経験したときに、あなたがあなたを責めたり、まるでその弱さが存在しないかのごとく思い込もうとしないでください。むしろ神さまに愛されているあなたの存在証明なのですから。
 1997年に起きた「神戸小学生殺害事件」の犯人である中学生の少年は犯行声明文に「透明な存在であるボク」と自己紹介をしています。1997年7月23日の読売新聞には次のようにありました。
 「今の子は、自分自身を生きているという充実感に乏しい」・・・元中学教師で「『非行』と向き合う親たちの会」代表世話人、能重真作さん(によると)自分の存在を希薄に感じるという感覚はいじめで自殺した子供の遺書にも見られ、今の子供たちの状況を象徴している感覚だという。・・・「子供が弱音を吐けるお母さん、お父さんになってほしい」という専門家もいる。千葉県松戸市の不登校、ひきこもりの相談施設「フレンドスペース」顧問の富田富士也さんだ。「自己評価の低さが・・・相談に訪れる子供たちに共通している」という。受験やいじめなどで子供が挫折を体験した時、親が受け止めてやらないと、子供は自己肯定感の欠如に悩むことになる。「『弱音を吐くな』『頑張れ』などと言わず、子供の言葉を聴いてやるだけでいい」

 存在感の希薄さは他者から存在が希薄に思われていることであり、それが子供たちの世界だけで起きているのではないことを考えると以上の文章の中にある助言は大人である私たちにも必要ではないでしょうか。自らの弱さに悩むことは決して恥ずかしいことでもなく、ましてあなたの存在の無価値や低さを表しているなどといった馬鹿げた結論を導き出す根拠になるわけでもありません。むしろあなたは神さまに関心を持たれていることに思いを馳せるべきです。

尊厳への正しい理解

 先に書きましたように、尊厳が傷つけられるのは「存在感が薄く」見られているからです。知り合いでありながら、隣の席に座り目も合わさない、ことばも交さない、とすれば存在感が薄いのです。非常に小さい存在、無視しても良いと思われている存在なのです。
 果してこういう状態が許されていいのでしょうか。聖書から人間とは何かを学ばなければなりません。詩篇8篇4−6節をお読みください。ヘブル人の表現ですが、文化的に翻訳(意訳)すれば神さまのご支配なさる世界では「人間が一番偉い!」と教えているのです。
 創世記1章26−28節もお読みください。「神のかたち」を持った存在がこの世界に他にいるでしょうか。新約聖書では「神の作品」(エペソ2:10)、「聖霊の宮」(第1コリント6:19、つまり神さまの住まい)と呼ばれています。これが人間です。いかに重要な存在かお分かりでしょう。「私はつまらない人間です」、「愚かな人間です」というせりふには注意しなければなりません。大きな、いや大きすぎる神さまと比較すればの話です。神さまとならつまらないどころではありません、愚かどころではありません。でも先の表現が多くの誤解を招いています。私たちは誇りを持つべきです。
 もしあなたがプライドを傷つけられそうな場面では、恥をかかされそうな場面ではそれを拒否してください。いかなる人といえども、他の人を傷つけてもいいという権利を持ってはいません。実はここが大事なところです。もし傷を受けると、あることが起きる可能性があります。悪霊が入り込む可能性があります。悪霊は心の傷から入り込みます。悪霊はイエスさまに質問されて自己紹介しています。「レギオン」とはローマの連隊(6000人)です。うようよ、すなわち数多くいることを教えています。兵隊たちは植民地のどこへ行っても乱暴で、横暴でした。この男はきっとかつて深く傷つけられた経験を持っていたことでしょう。悪霊はこの男を思い通りにしました。彼は自分の心でありながら彼の自由にはできませんでした。彼は自分の身体でありながら彼の自由にはできませんでした。自分でありながら自分ではありません。ここに問題は明らかです。彼の問題は人間としての尊厳の問題であったのです。

怒りから解放

 少なくない人から私は尋ねられます。「どうして私に人が近づいて来ないのでしょうか、相談をもちかけて来ないのでしょうか」。答えは「あなたは怒っているから」です。あなたは怒っていませんか。男の人には怒る場面がよく目撃されます。では女の人は怒らないのでしょうか。本当はだれでも怒ります。
 ではなぜ人は怒るのでしょうか。こう質問し直してみましょう。なぜ犬は吠えるのか。だれも正確な答えを知っています。内側に恐れを持っているからです。この男も叫んでいます(5、7)。では何を恐れているのでしょうか。尊厳を傷つけられる恐れです。そういう人たちはどのような症状を示すでしょうか。無力感、自己嫌悪感、劣等感、自責の念などです。つまり自分を責めるのです。この男もそうしています(5)。でもいつまでもそれを続けていたらやがて死んでしまいます。死にたくないから悩んでいる私たちはやがて自分を守るために他者を傷つけ始めます(3、4)。
 どうか気をつけてください。心が深く傷つけられている人は身近な人を攻撃します。もしあなたがそうされても「大丈夫、私は頑丈」と思うなら、近づいてください。そうでなければあなたはその人の餌食になります。しかしここがその人にとっては重要なところです。私たちは本能的に一つのことを知っています。それは人格を傷つけてこそ自分の人格は(傷つけられた尊厳は)いやされる、ということを。でも良い方法ではありません。新たな不幸者を生産するだけです。
 そこで神さまはあなたにイエスさまを用意して下さったのです。「彼を傷つけなさい」と。どうかイザヤ書53章5節をお読みください。イエスさまはあなたの罪と病と痛みを負うこと、すなわちあなたの代わりに打たれることを、刺されることを願われたのです。このような神さまのおこころを覚えて、あなたは他の人をではなく、イエスさまを攻撃するべきです。そうすることによってあなたはそのイエスさまの愛の中に自分を置くことができます。どうかこのようにしてあなたに近づくイエスさまを受け入れてください。

今、あなたに近付くイエスさま

 イエスさまがこの男の住んでいるところにやって来られたのは決して偶然ではないのです。イエスさまご自身近づいて行かれたのです。あなたにも今近づいておられます。大きな変化があなたにも起こります。
 ある病院の女性チャプレンが不幸な17才の精神分裂病の女性を取り扱いました。彼女に対してはできるだけ親しみを込めて、あたたかいまなざしで見つめ、からだを前向きにかがめ、近付くようにしました。しかしはじめのうちは拒絶されるばかり。「あっちへ行って!私のそばにこないで!」と言っては壁の方へくるっとからだの向きを変えてしまうのでした。でも彼女は根気強く、あきらめないで同じことを毎日続けました。ある日、もう今日は話しかけるのをやめようと立ち去ろうとした時、「行かないで、お願い、そばにいて!私を一人にしないで!」と叫び、彼女の上着のすそを放しませんでした。このときが回復へのスタートでした。悪霊に憑かれた男が7節で発したことばとよく似ているではありませんか。
 ついにこの悪霊に憑かれた男は長い間彼を抑圧していた感情から解放されたのです(18)。彼は彼の人間としての尊厳を回復したのです。
 最後にこの事件がどこで起きたかを確認しましょう。デカポリス地方とあります(20)。文字どおりには10の都市の意味であり、本質的にギリシア的でした。ユダヤ人たちもいたでしょう。でもギリシア人の世界でした。ユダヤ人の殻をやぶる福音の未来を予想させる記念碑的な出来事と見ることができるでしょう。すなわち世界中のどの人にも福音は必要であって、この福音によって自尊心は正しく回復されるのです。そして自尊心あるところ、希望があり、夢があり、愛があります。


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