90.なぜ、こわがるのか

聖書箇所[マタイの福音書8章23−27節]

 1997年7月11日に伊良部秀輝投手が大リーグで初先発初勝利をし、マスコミを賑わしました。私も興味を持って見ていましたが、マウンド上においてたいへん堂々とした態度に感銘を受けました。入団までにさまざまなことがありましたし、5万2千人が見守る中、大きなプレッシャーがあったと思いますが、それをはねつけたのは見事でした。もちろん彼の中では大きな戦いや葛藤があったと思います。位負けということばがありますが、もし「きっと私は負ける」と恐れていたら、きっとこの勝利はなかったでしょう。彼は恐れに勝ったのです。神さまはあなたの前にたくさんの祝福を用意してくださっております。それを逃さないために必要なのが「恐れに負けない」ことです。
 今回は恐れに勝つ秘訣を学びましょう。イエス・キリストは弟子たちを連れて実地訓練をされました。自動車教習場の構内練習で上手に運転できても、路上に出て使いものにならなければ何にもなりません。イエス・キリストは弟子たちに実地訓練を施されました。場所はガリラヤでした。突然海が荒れて弟子たちはたいへん恐れています。

新しい発想

 恐れを追放するためには新しい発想や発想の転換が役に立ちます。
 さて大荒れの海のど真ん中でイエス・キリストは寝ておられました(24)。なんという豪傑さ!弟子たちはと言えば、恐れも極致に達して叫びます。イエス・キリストの答えは意外なものでした。「なぜ、こわがるのか」(26)。彼らの問題点がここで浮き彫りにされます。彼らは従来の考え方から抜け出ることができません。「私たちは漁師だ。長年このガリラヤ湖とは付き合っている。私たちはプロフェッショナルだ。その私たちのいままでの経験を総合すると非常に危険な状態だ!」と思い込んでいます。確かに一理ありますが、常に正しいとは限らないでしょう。私たちは先入観や伝統にしばられやすいものです。
 セーリックマンの理論をご存じでしょうか。部屋のまん中に仕切りを入れて2つに分け、行き来できなようにします。片方の部屋に犬を入れ、床には電流を流します。スイッチを入れるとその電流が流れて犬はショックで跳び上がります。何度も繰り返しますが、犬は宙に浮けない以上痛みに耐えなければなりません。しばらくして仕切りを外します。もう自由に電流の流れていないもう一つの部屋に逃げれば良いのですが、ただうずくまって痛みに耐える以外の行動をしません。
 この犬はいったい何をしたのでしょうか。絶望を学んでしまったのです。これを学習性無力感と呼びます。長年の経験の結果、無力感を学習してしまいました。ちょっと犬には気の毒な実験ですが、この学習性無力感を実に付けてしまった人間がいるならば、それも気の毒です。「ああ、もうだめだ!もう成功することはない!」と思い込んでしまっていると。
 ユダヤに伝わる話を一つしましょう。ある貴族が息子を陸軍士官学校に入れました。5年後、彼は成績最優秀を証明する賞状とメダルを手に家路に着きました。特に彼の射撃の腕は天下一品と評されました。
 さて途中、弾丸がいくつも撃ち込まれた壁が目に止まりました。驚きました。これだけの数、どれもチョークで書いた丸のど真ん中に当たっていたからです。彼はこの射撃の名人を探しました。ようやく見つけて聞きました。「君はいったい、どうやって、この技術を実に付けたのか?」。みすぼらしい身なりの少年は答えました。「まず壁に撃つのさ。そのあとでチョークで丸を書くのさ」。なんというすばらしい柔軟性さ!ではありませんか。
 朝鮮戦争で生き別れになった毋とその息子ダビデ・キムの話をしましょう。彼はアメリカに留学し、お母さんは北朝鮮に残りました。3日間だけ許され、26年ぶりに平壌で再開した母親に彼は尋ねました。「お母さん、ヨハネの福音書3章16節のことばを覚えていますか?」。読んであげましたが、記憶にないと応じました。それではと「何か、賛美歌を覚えていますか?」と質問を続けました。芳しくない反応に戸惑いながらも、「主、我を愛す。主は強ければ、我、弱くとも恐れはあらじ♪〜♪〜」と歌いました。お母さんの反応は鈍いものでした。でも彼は諦めないで歌いつづけたのです。ずうーっと、お母さんの前で。ついにお母さんは歌い始めました。記憶が戻ったのです。そして信仰が戻ったのです。
 一つのやり方で生まれた結果を最終的な結論としなかったことが良かったのです。先入観に捕らわれずに新しい発想をすることが現状を打破してくれもするし、恐れからあなたを解放してくれます。あなたのそばにはあらゆる問題からの「救い主」であられるイエスさまがいらっしゃいます。知性を働かせて、インスピレーションを働かせて、問題の解決だけでなく、自分に新しい発展を与えて下さい。

単純な神さまへの信頼

 恐れの原因にはさらに無能力の意識や失敗の予想(マイナスの信仰)といったものがあります。「私にはできない」とか「どうせ失敗するだろう」といったものです。まして皆の前で恥をかかされたりした場合(や、過去にそのようにされて心の傷となっている場合)にはなお一層臆病にならざるを得ません。
 弟子たちの恐れにはこの種のものもありました。結局は無事に「ガダラ人の地に着いた」(28)のですが、「私にはできない」や「どうせ失敗するだろう」が実現したとすれば、すなわち彼らが死んでしまっていたら着けなかったはずです。このような手強い敵である無能力の意識や失敗の予想に対して信仰が役に立ちます(マイナスの信仰対プラスの信仰)。
 ところで信仰とは信じることですが、これは私たち人間ならだれもが持っている能力であり、常に使っているものです。あなたはレストランに行かれることがあるでしょう。まずテーブルの上にある調味料に対してきっと何の疑いもなく、したがって自由にお使いになるでしょう。毒は入ってないと信じ(信頼し)ているのです。もし信じることができないと日常生活は不可能になります。しかしこと信仰となると急に難しく感じたりするものです。あなた自身のために自らをよく訓練してその信仰を強く持つことをお勧めいたします。信仰とは決して気休めではありません。それは現実的な力です。実際的な力です。そして信じる分だけ恵まれます。本当です。完全な比例関係にあります。
 もう老人になった王様が国中から賢人を集めてこう言いました「賢人のことばを集めて後世に残したい」。賢人たちは時間をたっぷりかけて、ついに12巻の知恵集をまとめあげました。誇らし気に上程した賢人たちに王は言いました。「この本の中には確かに立派な知恵が盛り込まれている。でもこんなに分厚くては人々は読まないだろう。もっと薄くしてほしい」。長い時間をかけて賢人たちは一冊にまとめあげ、持ってきました」。しかしそれでも王は納得せず、ついにはたった一行にまとめさせてしまった。さあ、その一行にはなんと書いてあったでしょうか。「この世に『ただ飯』などあり得ない」でした。
 私がこの話をしたのは、ただ一言、「単純に、神さまを信頼すべきである」と言いたかったからです。イエスさまは朝の9時に十字架につけられました。十字架は罪を裁くために考案された、罪人に最も恐ろしい刑罰を与えるための方法でした。釘を打込む鈍い音が静まり返ったゴルゴタの丘にこだまします。
 「さて、12時から、全地が暗くなって、3時まで続いた。3時ごろ、イエスは大声で、『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と叫ばれた。これは、『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」(マタイ27:45、46)
 このような恐ろしい、絶望的な状況の中でも、イエスさまの父なる神さまへの信頼は揺らぎませんでした。揺らがなかった結果が私たちへの救い(永遠のいのち)の提供という、人類史上他に例を見ない出来ごとを招来させました。信頼とは信仰のこと。
 どうかあなた自身をしっかり訓練して信仰を強いものにしてください。まず信じること。恐れは遠くへ飛んでいってしまいます。

イエス・キリストの愛の中にいること

 恐れの原因にはさらに反対者の存在があります。あなたは自分の意見に対して反対があったときに気持ちや決断が揺れたりしませんか。「ほんとうにこの決断は正しいのかな?」とか。ただし正常な恐れは神さまのくださったものでありがたいものです。また、もし恐れがないとすればそれは困ります。たとえばアクセルを恐れなく踏み続ければどうなってしまうでしょう。
 さて困った種類の恐れがあります。それは正しい決断、適切な決断を邪魔するものです。それはどこから来るのでしょうか。この段落にははっきりとは出て来てはいませんが、それはサタンです。イエス・キリストも弟子たちも神の国の建設のために、人々の幸福のために働いているのです。こういう正しいことに対して反対するのはサタン以外に考えられません。
 サタンはあるものをてこにいとも簡単に人を誘惑し、失敗させてしまいます。そのあるものとは何でしょうか。それは目先のもの。弟子たちの恐れは目の前の大きな波に注目したことにより生まれたものでした。私たちも目の前のもの、すなわち物、お金、プライド、そして他者が恵まれることといったものに弱いのです。サタンはこれらをてこにあなたの人生をひっくり返しにかかります。
 一人の学者の話をしましょう。彼は優秀な成績で一流大学を出て、理学博士になりました。やがてカリフォルニア大学で教鞭をとりました。その才能を生かすべく事業を始めましたが、巨大な借金とともに失敗、大学を追われました。帰国した後も種々の肩書き(プライド)が邪魔をして他の職業にはいっさい就くことができませんでした。学生時代の友人を頼っては借金を重ね、最後は無銭飲食で逮捕されてしまいました。そのとき、彼のポケットには「カリフォルニア大学教授」という肩書きの名刺が入っていました。過去の栄光が忘れられず、プライドや名誉に縛られ、現実を直視できなかった人の顛末でした。何に頼って生きるべきなのかを問わずにはいられない話ではないでしょうか。
 ロシアで47年間も不眠に悩んだ人がいます。彼女はこう言いました。「眠れないことは癌よりも恐ろしい。それは暗黒の世界にたった一人いるという経験であり、あらゆるものから切り離されているといった、恐ろしさの極致としての孤独感です」。再び眠りを取り戻すことができた彼女はこう言います。「神さまの愛に抱かれている感じを経験しています。今、とっても平安です」。神さまの御手の中に憩うとき、あなたは恐ろしさから解放されます。「あなたはあらゆる良いものから見放された」という無意識の声に、サタンから送られてくるその種の信号に勝利することができます。
 愛の中にいるようにしましょう。孤独を癒すことができるのは真の神であり、真の人であるイエス・キリストのみです。「わが神、わが神、ーーーーー」。真の孤独に勝たれたイエス・キリストはあなたの孤独を知り、癒し、さらに恵みを与えてくださいます。
 アンデルセンは有名なデンマークの童話作家です。200編近い作品を残しましたが、「私の作品はすべて私の人生から生まれた」と言っています。幼少期は貧しく、学校にも行けませんでした。当時は階級による差別もあり、14歳でコペンハーゲンに出ました。役者を目ざしましたが、不採用。大学時代に詩作を発表しましたが、新聞から攻撃され、挫折。彼の人生は他に失恋、友人による裏切りなど数えきれない試練に満ちています。でも彼はこう言っています。「私の人生は幸福です。暴雨にもまれても私の胸には神さまへの信頼がある。いつも私の中にいらっしゃる神さまが私の支えです」。47歳の時の告白です。「どんな逆境の時にも神さまは私に最善をなしてくださる」という信仰の結晶が作品「みにくいあひるの子」でした。あわれな、周りと異質であるというだけでいじめられるあひるの子が絶望し死を覚悟したときに美しい白鳥に変えられる、美しい喜びの声を発する、という話。

 あなたの中のイエス・キリストこそがあなたをいつも励まし、希望を与え、その希望を現実のものにしてくださいます。


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