97.悪魔に立ち向かいなさい

聖書箇所 [ヤコブの手紙4章7-10節]

 7節の冒頭で「神に従いなさい」とあり、10節には「あなたがたを高めてくださいます」とあります。つまり私たちは「神さまに従うとき祝福される」ということを今回は学びたいと思います。
 さて、「神に従いなさい」には2つの側面があるでしょう。1つは、続けて表現されてあるように、「悪魔に立ち向か」うこと。2つ目はもしそうしないと「神さまの側にいないことであり、悪魔の陣営にいる」ことになる、ということ。実際の影響は不安定な心であったり、さまざまな汚い思いを制御できなかったりと、さまざまに現われます。
 しかし神さまの側にいなければ、即悪魔の側にいるという考えは日本文化の中にいる多くの人々にはなじまないかも知れません。たとえばアンケートにはたいがい「イエス(好き)」、「ノー(嫌い)」、のほかに「わからない」という選択肢も用意されていて、ここに丸を付ける人は非常に多いことからも分かります。一つには仏教の影響を考えることができます。灰色の領域が広く広がります。ですから黒白をはっきりさせない、ファジーな日本語表現も氾濫します。
 しかし聖書の主張は先のように非常に明瞭です。すなわちもし一方の足を岸壁に、もう一方の足をボートに乗せているなら不安定きわまりない、それが悪魔に立ち向かわないことです。悪魔に立ち向かうための学びをしましょう。悪魔について正しく理解するための書物は聖書しかありません。

悪魔の履歴書(出自と性格)

 ヘブル語でサタン(マタイ4:10-11、黙示録12:9)、ギリシャ語でサタナス。通常は悪魔、誘惑する者、悪い者などと訳されます。ユダの手紙6節とイザヤ書14章12節を見てください。彼は本来ガブリエルやミカエルなどと並んで天使の長でしたが、分を忘れ、高慢になり、天から落とされてしまいました。
 彼は被造物であり、しかし人格を持つ者です。彼を指す「明けの明星」Lucifer(英語)は語源であるラテン語で見ると想像できますが、前半部はよくルックスって言いますように明るさあるいは光のことです(lux=light)。後半部fereeは持って来る(tobring)です。今となっては皮肉のようなものです(ただしこのような説明は理解をしやすくするためにしたもので英語やラテン語などが聖書の説明に権威を与えるものではありません。それぞれ単なる一つの言語でしかありませんのでお間違えのないように)。
 「光のみ使いに変装する」(第2コリント11:14)サタンのように「私は偉い、私の言うことに従いなさい」と高慢になっている人は気を付けなければなりません。悪魔と波長が合ってしまいます。

悪魔の目的

 悪魔はエバを誘惑して罪を犯させたのを初め(創世記3:1-7)、ヨブに神を呪わせようとし(ヨブ1:6-19、2:1-7)、イエスを試みたのである(マタイ4:1-11)。そして今日まで、信仰者を堕落させようとして働いている(第1ペテロ5:8)。その性質は執念深く(ルカ4:13)、狡猾である(第2コリント11:3、14)。[『新聖書辞典』いのちのことば社]

 彼の目的は一人でも多くの人を自分と同じ運命へと導き入れることです。はたしてそんなことを考えるだろうかと疑問をお感じになるでしょうか。彼は罪の大親分、罪の塊といったらいいでしょうか。そして私たち人間にも罪があります。両者が共通して持つ罪の特徴について考えて見ましょうか。一つの重要な事実がそこには観察されるでしょう。ことわざ辞典を引いてみました。

 「隣の不幸は鴨の味」 人間は他人の、特に隣人を何かにつけてねたむ心を持っているという。これを利己本能の裏返しと見ると、他人、隣人の不幸、貧乏は口ではなんとか言いながら優越感を満足させる。

 他の人の不幸を望み、喜ぶとはなんといやらしい心でしょうか。でも現実ではないでしょうか。人の失敗や不幸を願い喜ぶ気持ち、逆に成功や祝福をねたみ、失うことを願う気持ち。サタンにはこのような気持ちがあって、これをして私たちを誘惑しようとします。
 さてややこしいのは彼は正論をもって誘惑してくることです。イエスさまとペテロとの間にくさびを打ち込もうとしたのはサタンでした。ルカの福音書22章31節をご覧ください。なんとすばらしい、模範的な告白でしょうか。でも隠れた動機がありました。仲間を出し抜く思い、目立とうとする思いです。
 ヨハネの福音書12章1節以下をご覧ください。あの裏切りのイスカリオテのユダが登場します。彼はマリアのしたことをとがめました。なんと立派な理屈でしょうか。でもここにも隠れた真の動機があります。彼は弟子団の会計係であってくすねていました。それができないので文句を言ったのです。
 結局何が問題でしょうか。愛がありません。これです。正しいことを主張しているけれども、愛がありません。ところがこの正義を振りかざすやり方はなかなか強力で、指摘された者たちはたじたじとなりやすいのです。こうして悪魔は正論を使ってあなたの、罪を含んだ現在の生活を不安定にさせて行きます。もし赦しをすでに得ていたとしても、そのことについて、そして天国が待っていることについての確信を失わせて、彼はあなたを永遠の不幸へ、地獄へと誘います。

悪魔の戦術

 実際の所、彼はどのようにしてあなたを誘惑するでしょうか。彼の子分である悪霊たちは生き物のからだや目に見えない部分に入って物理的に強制力をもってコントロールしようとしますが、悪魔はそうはしません。彼はあなたの心の中に働きかけます。
 その心はどのようなものでしょうか。マルコの福音書7章17−23節までをお読みください。それで「清くしなさい」と言われています。悪魔はこう言います。「もうひとつ加える程度ならいいじゃないか、小さなことだからいいじゃないか」。これはフットインザドア法と言います。初めに小さなことを提案します。抵抗は少ないのでつい私たちはうなずいてしまいます。これはイエス・キリストに対して悪魔が使いました。マタイの福音書4章1節以下をご覧ください。イエス・キリストは神としては石をパンに変えることくらい朝飯前です。悪魔の最終目標は6節にある最後の誘惑事項、すなわち「イエス・キリストが悪魔を拝む」こと。どうか気をつけてください。「この程度ならいいじゃないか、小さなことだ」と賛成するとき、悪魔はあなたに勝っています。少なくとも先手をとっています。

悪魔への対抗手段

 最後にどのようにしたら悪魔に勝つことができるかを考えましょう。それは勝ちモードに入ること。何でも物事を成功させている人がいます。本当のところ100パーセント成功させているわけではありませんが、そう見えます。正しくは結果的に全体的に成功させているといったらいいでしょうか。このような人は勝ちモードに入ることが上手です。反対に負けモードに入りやすい人は何をしても成功しない(多くの場合にそのように見える)と言えます。したがってどうしたら勝ちモードに入れるか、です。第1に、自分の弱点を浮き彫りにするような環境に身を置かないこと。男性でしたらわざわざネオン街へ行かないことです。自分の土俵で勝負すること。あなたの得意とする、誇れるものは何でしょうか。長所を生かすような生活をすべきです。

  • 第2に、孤独を避けること。人は弱いもので孤独が過ぎると精神的にも身体的にもバランスをくずします。建設的に多くの人と交わりをしましょう。特に前向きな信仰者や思考の持ち主と。
  • 第3に、みことばに従いましょう。あたりまえのようですが、みことばの強力なライバルが出現しています。「私の気持ちを分かって!」という叫び。これは偶像になります。偶像の怖さはあなたをコントロールすることです。あなたの気持ちではなく、みことばが大切です。イエス・キリストも荒野の誘惑(マタイの福音書4章)でたいへんな空腹の中で悪魔から「石をパンに変えてみたら」と言われました。彼は「天のお父様、パンを作ってみてもいいでしょう!だって空腹なんですものー。この気持ち分かって!」とはおっしゃらなかった。
 イエス・キリストがこの世に来られた目的は「悪魔のしわざを打ちこわすため」(第1ヨハネ3:8、ヘブル2:14)です。あなたが内にある罪を真に悔い改め、イエス・キリストを心からお迎えした時、あなたは勝ちモードに入ったと言えます。

 あなたの人生に神さまの豊かな祝福をお祈りいたします。


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