99.霊とまことの礼拝

聖書箇所[ヨハネの福音書4章23、24節]

 今回は礼拝がなぜ多くの恵みを私たちに与えてくれるのかをご一緒に確認したいと思っております。霊とは被造物の中では人間だけが持つもので、これはいわば送信機兼受信機のようなものです。神さまの霊とあなたの霊が直接触れる、つまり本音と本音が触れる、これが礼拝です。ところである種の年令層が特別にこのようなことには敏感です。もってまわってような言い方をしてしまいました。答えは子どもです。こういう小咄があります。

 牧師が日曜学校で子どもたちにお祈りについてお話をしていました。「お祈りって、電話するようなものですよ。電話でお話をする時に、相手の顔が見えないでしょう。お祈りって神さまと電話でお話するようなものですよ。目には見えませんが、向こう側には神さまがいらっしゃるんですよ」。すると一人の子どもが立ち上がってこう言いました。「先生、神さまの電話番号は何番ですか?」。牧師「・・・」。

 礼拝のメッセージが始まりました。題名は『最後の審判』。「世の終わりには何が起きるのでしょうか?『太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき(マタイ24:29、30)・・・』」子どもがお父さんの耳にささやきました。「お父さん、その日は学校は休みになるよね」

 彼らはとても素直なのです。こうして礼拝に恵まれる条件は何であるのかがもう分かってしまいました。「幼子を私のところに来るのを止めてはいけない」(マタイ19:13-15、マルコ10:13-16)。そうです。私たちが幼子のようであるとき、たくさん恵まれるのです。霊とまことによって礼拝するとはこのような意味です。その恵みについて学びましょう。

罪の悔い改めをしたくなる

 人は自らの非を認めたがらないものです。実は一人の人の中に2人の自分がいて、互いに戦っています。一人は「確かに私には罪はあるなあー」と言います。でももう一人がいろいろと理屈をつけて(たとえば、自分だけではなく他の人たちだってしている、あの人の方が重いあるいは多いとか)臭いものには蓋をするようにして認めたがらないのです。神さまはそのような思いを礼拝しているときに砕いて、ついには罪の悔い改めへと導きます。
 クロード・イーザリーは広島に原爆を投下した爆撃機の操縦士であり、投下サインを出すことを任務としていました。彼は当時それを正しいことと考えていましたが、戦争後に別人のようになり、一人閉じこもる生活に入って行きました。彼は罪の意識に強く捕らわれていました。広島にお金を送ったり、職を転々とし、勲章も返上しようとし、ついには自殺未遂を引き起こしました。やがて犯罪に走り、有罪の判決を受けたりもしました。彼は罪の赦しを求めてさまよったのです。
 だれでも人は本音では自分の罪を認めています。でもすなおになれません。なぜ?誰が赦しの権威を持っているのかを知らないからです。礼拝がなぜ私たちに悔い改めをさせるのでしょうか。それは赦せるお方、神さまとの出会いを経験できるからです。イエス・キリストのあがないを通して。

夢、幻、目標が与えられる

 私たち人間の中には強力なエンジンが備わっています。欲望とか欲求とか呼ばれるものです。それらは食欲や性欲など数えればきりがありません。しかも実に強力です。その場合に重要なのはその人の人生において目指す目標は何なのかということです。これがもし間違っていたらたいへんなことになります。手に包丁を持っていることを想像してください。料理に使うこともできますし、人殺しにも使えます。切れ味が良いということだけでは困ったものです。信仰の父であるアブラハムは神さまからこう言われました。
  「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」(創世記13:14-18)。

 「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」(創世記15:5)

 当時は夫婦ともにすでに老体の身で子どものできる望みはありませんでした。でもそのとおりになりました。神さまのくださる夢、幻、目標は本物です。本当に価値あるものです。なぜならだれをも、あなたのみならず、あなたの周囲の人々をも喜ばせるものだからです。あなたは礼拝の中で聞くおことばを材料にすばらしい夢や幻や目標を得て、あなたのみならず周囲の人々をも含めて希望ある生活を確信します。実際アブラハムの夢を通して多くの人々が今日も祝福されています。

人生が正しい方向へ向かう

 パラグアイであったことです。女性判事が銃殺刑を宣告した相手はなんと26年もの間行方を探し続けていた実の息子でした。2歳の時に首都アスンシオンで麻薬組織に誘拐され、コロンビアで殺し屋の教育を受けてきました。息子と知らずに死刑判決を下した判事は毎日泣いて暮らしているそうです。
 これは不幸な例です。なぜかと言えば、子どもであったのですから。自分でこの環境を選んだのではなかったということです。でも少なくない人々が自ら悪い環境に身を置いています。ある人が出勤間際に青年がていねいに車を磨いているのを見ました。夕方彼は帰宅しようというときに再びその青年を見ました。まだ車を磨いていました。なんとボンネットの裏側にまでワックスを塗っていました。彼にとって車が神なのでしょうか。ある若い女性は朝から寝る寸前までアイドルの歌を聞いています。熱中することは美しいことではありますが、限度を越えた場合にはそれは礼拝となります。偶像礼拝です。お金を礼拝する人もいれば仕事を礼拝する人もいます。仕事で家に帰って来ない人もいます。仕事よりももっと大切なことがあります。それは家庭。適切なバランスと正しい優先順位を教えてくれるお方を礼拝するのが正しい礼拝です。正しい礼拝をすることができる者は正しい人生を生きて行きます。

神さまへ贈り物をしたくなる

 偉いお方を尋ねるときには菓子折りが必要ではないでしょうか。手ぶらでは何とも落ち着きがないでしょう。あなたは礼拝のときに何を用意しておられますか。実はあなたには本来何も持ってくこれるものはありません。というのはこの世界にあるすべてのものは神さまのものだからです。神さまにすべてのものの所有権があります、一時の使用権程度はあなたにはあるでしょうが。ではどうしたらいいのでしょうか。てぶらのままで、そういうことにはならないのです。ここに礼拝のすばらしさがあります。あなたは賛美、お金、感謝、そして祈りをささげることができます。これこそあなたによる神さまへのプレゼントです。真の謙虚さがなければこのようなものをささげることは実際不可能です。

 「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:16-17)

 ところであなたの、他の人のではありません、神さまの大きさを決めるのがこの菓子折りの量の多さであり質の良さです。あなたの神さまは大きいですか。大きい神さまであればあるほどあなたの生活に神さまの力は表わされます。

新しい行動を起こしたくなる

 礼拝の不思議さは何といってもここにあります。魅力的な愛の行為をしたくなります。
 ある金持ちの婦人が孤児院を訪ねました。2人の孤児を引き取るつもりでした。院長先生は「この子はかわいいですよ。いかがですか」とさかんに関心を引こうとしていました。でも彼女はこう言いました。「私が引き取りたいのはだれからも見向きもされないような子です」。
 私たちはいつも自分の気持ちを良くしてくれる者たちと一緒にいたいですね。でもイエス・キリストはこうおっしゃいました。

 「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。」(マタイ5:46-47)

 次のことばを聞きましょう。

 「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5:44-45)

 あなたの中のイエスさまが行動を起こしておられるのです。イエスさまは愛ですから愛の行動になるのです。あなたが礼拝するとき、あなたの中に新しい意味あることをしようという意志と力とが沸き上がって来るのです。
 あなたの礼拝がいつもこのようにして祝福されますように。


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