キリスト教入門講座・全16課
第12課 人生の意味(目的)

 「俺は河原の枯れすすき、同じお前も枯れすすき、どうせふたりはこの世では花の咲かない枯れすすき。」
 わびしい、むなしいと感じるのは私だけでしょうか。多くの演歌、歌謡曲に厭世的な否定的な歌詞がついています。まるで人生はゴミのようです。無用で目的もない人生なら、捨てられ、忘れられても仕方ないことです。
 でもたとえ百歩譲ってゴミだとしても、最初からゴミだったのではありません。親であり、所有者であり、製作者であるお方とつながりが切れた時からです。私たちは神さまによって造られたのですから、神さまから生きる目的を与えられて、ゴミのようでない、本来与えられている健康な人生を送るべきです。では私たちの生きる目的とはいったい何でしょうか。それは、「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい」 (第1コリント10:31)。
この課では、人生の目的、神さまの栄光を現わすことの意味を尋ねてみましょう。

第1に、互いに愛し合うことです。

 ひとりの律法学者がイエスさまに尋ねました。「先生。律法(人の守るべき基準)の中で、たいせつな戒めはどれですか」 (マタイ22:36)。イエスさまのお答えはこうでした。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第2の戒めも、それと同じようにたいせつです」 (マタイ22:37−39)。
 神さまと自分、自分と自分、自分と隣人との間に相思相愛の関係をイエスさまは求めていらっしゃいます。神さまは愛のお方です。子どもである私たちも、本来愛を持っていました。初めの人、アダムとエバは愛し合い、ともに神さまを愛していました。
 さてここで愛の持つ魅力について考えてみましょう。第1に心からあらゆる恐れを追放します。
死は万人にとつての恐怖ですが、愛はそれにもまさります。「愛は死のように強く・・・大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません」 (雅歌8:6、7)。
 ですから愛を持つ人は平安です。
  • 第2に過去にまでさかのぼって、すべての罪を赦し、心の傷をいやします。
    「愛はすべてのそむきの罪をおおう」 (箴言10:12)。罪が赦され、心の傷がいやされた人は幸福です。
  • 第3に心を肯定的積極的にします。
    「あなたの神、主は、あなたのただ中におられる・・・主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える」 (ゼパニヤ3:17)。
     私たちは、過去の経験、しかもたった一度のことで、「この人はこういう人だ」「私はやっぱりだめな人間だ」と結論づける傾向を持っています。でも愛は先入覿を捨てさせて視力を良くしてくれます。
  • 第4に人と人とを結びつけます。
    「愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです」 (コロサイ3:14)。
     家族はどうして家族なのでしょうか。愛があればこそです。でもいったい愛はどこにあるのでしょうか。かえって憎しみと争いばかりではないでしょうか。さあ、今こそ神さまから愛を与えていただきましょう。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。・・・ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです」 (第1ヨハネ4:9−11)。
 イエス・キリストは十字架のあがないによって、神さまと私たちの間を修復し、互いに愛し合えるようにし、創造の秩序に戻してくださる方です。こうして世界は健全さを取り戻され、世界の王、神さまのご栄光は現されます。

第2に、神さまを喜ぶことです。

 「しかし私にとつては、神の近くにいることが、しあわせなのです。私は、神なる主を私の避け所とし、あなたのすべてのみわざを語り告げましょう」 (詩篇73:28)。
 喜びのない生活はほんとうのものではありません。喜びの神さまの子が喜んでいないのはおかしなことです。
「いつも喜んでいなさい」 (第1テサロニケ5:16)。
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです」 (ヨハネ15:11)>
 ところが喜びは一時的で、持続しないのが難点です。長く続けばこんなによいことはありません。でも方法はあります。喜びの対象や原因を永続性のあるものにしたら解決します。
「私たちは実際に見聞きしたことを、伝えているのです。それは、あなたがたも私たち同様、父なる神やそのひとり息子イエス・キリストと交際できる者とされ、喜びにあふれるためです」 (第1ヨハネ1:3リビングバイブル)。
 確かに、恵みそのものよりも、恵みを下さる方、発生源に照準を合わせるべきでしょう。ではどうすべきでしょうか。
「もしこの手紙の忠告どおりに実行すれば、あなたがたは喜びに満たされ・・・るのです。神様は光であり、少しも暗い部分がありません。・・・私たちも光の中で生活すれば、互いにすばらしい交際と喜びとを味わうことができます」 (第2ヨハネ1:4ー5、7リビングバイブル)。
光の中で生活するとは自分の罪を言い表すことであり、罪の赦しを確信することです。
「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」 (第1ヨハネ1:9)。
 十字架の恵みを信じ、聖められた自分を受け入れるとき、喜ぶ生活が始まり、あなたは神さまのすばらしさをたたえるようになります。

第3に、イエスさまに似ることです。

「そしてついに、私たちはみな、・・・主にあって完全に成長した者となるのです。そうです、キリスト様に完全に満たされた状態にまで、成長するのです」 (エペソ4:13リビングバイブル)。
 神さまは宇宙創造の際、自己採点なさり、ご自分の作品に大変満足なさいました。整然とした秩序の中で営まれ、全く混乱はありません。中でも最高の傑作は人間です。しかし神さまから離れてしまいました。親に反抗する子は親以上に子自身が傷つくものです。以来、傷ものの、うその人間になってしまいます。
 イエス・キリストこそ天から下られた、まことの人間です。この方にあって私たちはまことの人間性を回復することができます。
 「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです」 (コロサイ3:3)。
 さてイエスさまのご人格、私たちが目標とする、本来の人間性とは何でしょうか。それは父なる神さまの召命に応える生き方です。父なる神さまはこの世界と人間社会の不幸をご覧になって大変心を痛められました。そこでひとり子キリストをお呼びになって、十字架ですべての人の罪を負い、身代わりに死ぬようご依頼されました。キリストはまことの人イエスとなり、使命を果たされ、天にお帰りになりました。こうして神さまを信じるすべての人から不幸は去り、世界中の人から神さまはたたえられ、ご栄光は現されました。
 私たちも神さまの召命に生きるなら、身近な人々に幸福を与えることができ、自らも誇りを持って生きることができ、神さまのご栄光は現されます。
「キリストは・・・従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは・・・父なる神がほめたたえられるためです」 (ピリピ2:8ー11)。
召命とは、 第1に、本能や欲望に支配された動物のように生きることではなく、人間としての尊厳を持って生きることです。
  • 第2に、与えられた性〈男・女)、
  • 第3に、家族の中での立場 (親・子・夫・妻など)、
  • 第4に、社会の中での立場(会社員・社長・先生・生徒など)
    を感謝の心で受け入れ、それぞれその務めを果たして生活することです。

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