キリスト教入門講座・全16課
第8課 人生の意味(愛)


 愛が叫ばれる時代です。そして悩みます。「どうしたら真実に愛することができるか。」というのは、愛こそが自分自身を高め、環境を変えることを人々は知っているからです。聖書は、愛は外部から与えられて、初めて人の心に存在し、訓練されて、ものになると教えています。すなわち、愛は学校で学ぶようにして得られるものです。私たちの神さまは、「愛の学校」で学んでほしいと願っておられます。校舎は教会であり、この世です。先生は神さまで、もちろん教科書は聖書です。それでは愛の人になるためのカリキュラムに従って学んでまいりましょう。

第一に、愛を求めましよう。

「だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」(マタイ7:8)。これは愛の学校の入学試験です。生まれながらの私たちには真実の愛があるでしょうか。友人、夫、妻、子どもに精いっぱい尽くしますが、最後のところでエゴが見えてしまうのではないでしょうか。実は最初から動機が純粋ではなかったとはよくあることです。聖書はこう言っています。「人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ」(創世8:21)。しかしそうは言っても、正直に認めることが簡単であるとは言えません。もしも認めるとなると、今まで自分の愛を信じてきた人は絶望せざるを得なくなります。
 今日、病死の原因の第一位はガンです。ガンであることがわかったときに、はたして事実を本人に告げるべきでしょうか。風邪程度では決して悩む問題ではありません。治療できますから。でも不治の病とされている、少なくともそのようなイメージのあるガンの場合は違います。事実は人を絶望のどん底に突き落としかねません。
 さて「愛なし病」はどうでしょうか。幸いなことに神さまが治療法を持っていらっしゃいます。今、「私はほんとうの愛がほしいのです!どうしてもほしいのです!」と言いましょう。神さまは誠実な方です。あなたの訴えを聞いていてくださいます。どんな名医も病気にかかっていることを認めない者をいやすことはできません。神さまも求めてこない者には何もおできになりません。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です」(マタイ9:12)
 今こそ人間性のいやしが必要です。もともと私たちは愛を持って生きるように造られたのですから。さあ今こそ、全能の神さまに「本来の私を回復してください。」と祈りましょう。「あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう」(マタイ7:11)。

第二に、神さまから愛を受け取りましよう。

 そうすればあなたに愛が宿ります。「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」(第1ヨハネ4:19)。子どもを育てるときの愛は、以前学んだものです。親から受け継いだものです。したがって失敗も当然含まれています。もし真実の愛がどうして自分の中にないのだろうか、と問うなら、今までの人生で本物に出会ってこなかったから、と言うことができます。私たちは、知らないものについては説明することも、実行することもできないからです。
 しかし、イエス・キリストの十字架による神さまの本物の愛、完全な愛をあなたが体験なさるとき、愛について真実を知ることができます。父なる神さまは、天にあって、この世で愛せないまま深い悲しみの中にある人間をご覧になって、その罪の深さと重さとに同情なさり、最愛のひとり子にその罪と罰を負わせなさいました。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(第1ヨハネ4:9−10)。「愛は神から出ているのです」(第1ヨハネ4:7)。罪を悔い改めて、イエスさまを心の中に受け入れましょう。神さまの愛が確かに流れ込んできます。信じましょう。

第三に、受け取った後は、実践により育んでいきましょう。

 「行いのない信仰は、死んでいるのです」(ヤコブ2:26)。理論と実践とは車の両輪です。運転を学ぶときに、必ず自動車の各部の名称、構造、メカニズムなどを教えられますが、同時に、あるいは少し遅れて、教習所内で運転実習があり、やがて路上実習があります。この路上実習こそ最も重要です。実際に道路で運転できてこそ意味がありますから。この実践によって、自分の持っている力を確認することができ、そればかりでなく、今までできなかったことができるようにさえなります。
 ところで、神さまは、愛を受け取った私たちに実習生が路上実習中に出会うような数々の体験をさせてくださいます。たとえば最も嫌いな人に会わなければならないとか、こればかりはしたくなかったが、どうしてもしなければならないとか。これは愛の神さまによるお取り扱いです。「進んで神様の訓練を受けなさい。神様は、父親として当然のことを、子供のあなたがたに、しておられるのです」(ヘブル12:7リビングバイブル)。
 信仰上のペーパードライバーも、資格があり、力もあるのに使わないことから生まれます。神さまを信頼しましょう。信仰とは信頼です。失敗を恐れず、というのはそれさえも十字架の上であがなわれているからです。その愛は実践できると信じて、先に感謝しましょう。信じる者には神さまの力が働きます。ですから行動できます。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです」(第1ヨハネ5:14−15)。

第四に、熱心に祈りましよう。

 愛の生活を継続的なものにするには愛を実践しているあなた自身を常に思い描く必要があります。信仰とは現在ないものを、あるものにしていくことです。「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです」(ヘブル11:1)。
 信仰の父と言われるアブラハムは、「死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方・・・には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました」(ローマ4:17、21)と言われています。
 ではどうしたらいいでしょうか。その思い描いたものを口で告白しましょう。もしあなたがことばを制御するなら、心を制御することもできるのです。いやそればかりでなく、人生全体をも制御することさえできるのです。「もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっばに制御できる完全な人です。馬を御するために、くつわをそのロにかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。同様に、舌も小さな器官ですが・・・」(ヤコブ3:2−5)。
 失言とは、ほんとうのところ、心の中にある考えを言ってしまうことであって、決して心にもないことを言うわけではありません。舌と心が互いに見張り、良いもので満たすようにしていくとき、神さまはあなたを愛の人にしてくださいます。
 さあ、今日から「私は愛の人だ!」と口で言い、心の中で愛を行っている自分を見てまいりましょう。祈るとは口で告白すること、心に見ること。そして、「信じる者には、どんなことでもできるのです」(マルコ9:23)。

 最後に一言。教会の集会に参加してみてください。教会とは「愛することを練習する場」です。自動車教習所の構内練習のようなものです。教会の中では全員が練習しています。失敗があってもお互い赦し合います。あなたは教会で愛する実力を身につけることができます。そしていよいよ路上実習です。あなたの家庭で、学校で、職場で、どうぞ試してみてください。神さまの祝福をお祈りいたします。アーメン。




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