質入れ

原作 風野真知雄 『大江戸落語百景』より

脚本 里沙

 

質屋 孝蔵
辰/堂城幸四郎/親方
お亀

 

 

1 孝蔵 あああ、ちょっと!駄目だよ、辰(たつ)さん。狆(ちん)なんか持ってこられたって質草(しちぐさ)には出来ないよ。帰っておくれな。
  どうしてだよ。こんなに可愛い狆は滅多にいねぇだろ。
  孝蔵 いくらかわいくたって駄目。
  いいじゃねぇか。けちけちするねえ。
おいらはすぐに仕事の材料を仕入れるために二分(にぶ)ばかりいるんだよ。それをやれば、十倍二十倍になるんだから、返すにしたって貸す方も確実だろうが。
  孝蔵 いくら確実でも、質草に生き物は駄目だよ。ほら、帰った帰った。
  家の中にはもう、二分借りられそうなものはねぇんだよ。今までので全部質入れしちまったし。何だったら畳を六枚ほど持ってこようか?
  孝蔵 バカ言っちゃいけない。畳は家主のものだよ。
  だから、こいつしかないってえの。
  孝蔵 何と言われても、生き物は駄目。下(しも)の世話はあるし、餌もやらなきゃならないんだよ。
利子よりも餌代の方が掛かったりするんだから。だからといって餌を持ってくればいいって事じゃないからね。
10 そんなこと言って、この間は牛を預かってくれたじゃねえか。
  孝蔵 ああ、預かったね。けど、あんときも無理矢理だ。まったく、訳が分からなかったよ。
  こっちだってわからねえよ。
砂村の百姓が、牛を届けがてらおいらの櫛(くし)の代金を払いに来たら、途中で掏(す)られちまいやがって。そんで、もう一度、持って帰ってくるまでこの牛を預けるから待っててくれと言ったっきり、戻っちゃこねえ。
ま、それはあとで爺さまが死んだとかで理由は判ったけど、その間においらは急に金が入り用になって、仕方なく預けたんだっけ。
  孝蔵 牛の時は乳が取れたし、餌の草も持ってきてくれたから、特別に3日だけ預かったんだよ。
でも、狆は駄目。しかも、こんなかわいいのを預かった日には、情が移って別れの時に辛くなったりするからねえ。さ、早く、持って帰っておくれ。
  そう言わずに。ほら、ちょっとだけ抱いてみなよ。今まで大奥で飼われていたってやつを、おいらが知り合いからもらったんだ。こいつがまた人懐っこくておとなしいんだから。
夜なんか抱いて寝るとあんかみてえにあったけえんだぜ。ほら、ほら。
  孝蔵 こらこら、無理に押しつけるんじゃないよ。おっとと。ああ、ほんとに可愛いねえ。毛なんかもふさふさだ。あはは、こらこら、舐めるんじゃないよ。
おや、首輪も着けてもらって。良い音色の鈴を着けてるじゃないか。
  大奥のお女中が着けてくれたんだろうな。
  孝蔵 ほう、辰さん。これは良いものだよ。鈴は銀じゃないか。
  銀!?ほんとかい?
  孝蔵 ほんとだよ。銀なら、これを質草に預かれるよ。それで狆を預かったことにして、二分、貸してあげるよ。それなら良いだろ?そのかわり、3日だけだよ。
20 ありがてえ。おいらだって狆は可愛いんだ。女房もかわいがっていて、連れてくる時にゃあ、息子を取られるみたいだって泣きやがるし。けっ…息子なんていもしねえのによ。
ま、預けなくて済むならそれに越したことはねえやな。
  孝蔵 はい。じゃあ、二分だよ。
  どうもどうも。
  孝蔵 まったく辰さんときたら、弱ったもんだねえ。みんなお前さんのことは腕のいい櫛職人(くししょくにん)だって褒(ほ)めてるってのに。
  そんなこたぁ、あんたに言われなくても判ってるよ。俺ほどの櫛職人は江戸中見回しても、五人といないさね。
  孝蔵 いい腕だが、みんなが馬鹿だってさ。辰さんは客の注文を勝手に変えちまうから。
  勝手じゃねえよ。
この客の髪の質にはこうした方が良いと思ったところや、この模様は洒落(しゃれ)てねえってやつを直してやってるだけだ。
  孝蔵 この前は、富士山を掘ってくれって注文を、勝手に筑波山(つくばさん)にしちまったって?
  だってよお、そのお内儀は富士額(ふじびたい)だったんだよ。富士額が富士山の櫛を差すってのは野暮ってもんじゃねえか。だから筑波山にしてやったんだよ。
  孝蔵 それが良くないんだよ。客がしたいと言うことをどうしてお前さんが変えるんだい。
30 俺がそうしてえからに決まってらあ。
  孝蔵 まったく。弱ったもんだよ。そう言うんだから、いつまでも質屋通いが止(や)まないんだよ。
  ああー。確かに俺ん家はよくここに来てるよな。今月はこれで3回目だっけ?
  孝蔵 素直に一生懸命働いていれば、今頃はゆうに一財産(ひとざいさん)出来てるに違いないのに。自分でしなくてもいいことをしちゃあ、腹立てて酒飲んで、しばらく仕事が嫌になる。その繰り返しだろ。
そろそろ子供だって作らないと駄目なんじゃないのかい?
  駄目だったって、出来ねえものは出来ねえでしかたがねえよ。
  孝蔵 ちゃんと作ろうとしてるのかい。酒飲んで、空(から)どっくりを何本立てたって子供は出来ないよ。
  大きなお世話だっての。だいたい、あんたに文句を言われるのは心外だ。おれは質草を流したことはないぞ。
  孝蔵 それはお前さんの女房のおきよさんがかわいそうだから、あたしがちっと待っててやってるからだよ。本当ならもう流れたっていいものが、四度か五度はあったんだよ。
うちは八ヶ月経ったら、質草は流れるんだからね。
本当に、おきよさんはよく働いてるよ。近所の一人もんの洗濯を一手に引き受けて、一日中洗濯しているようなものだから手はひびやあかぎれだらけじゃないか。かわいそうだと思わないのかい。
  わかってるよ!おきよにはすまねえと思ってるし。昔は十二ヶ月だったのが八ヶ月になったってのももうなんべんも聞いたよ!この説教質屋!
  孝蔵 説教質屋?
40 そう。みんな言ってるよ。孝蔵さんの質に入れると、利子と一緒に説教もついてくるってさ。
  孝蔵 ひどい言いぐさだね。あたしゃえらそうに説教しているつもりはないよ。
だいたい、どうにも上手くやれない連中を見ると、つい何か言ってやりたくなっちまうだけさ。あとちょっとどうにかしたら、暮らしだってずいぶん楽になるはずだよって。
辰さんに言ったみたいにね。
  いや、まあ、なんだ。ひどくもねえ、ありがたいって思ってるやつもいる見てえだし。
  孝蔵 おや、ほんとうかい。
  こちだって好きで質になんか入れやしねえんだし。
  孝蔵 まあ、そりゃそうだけどね。
  けどまあ、次は女房を質に入れるしか無くなっちまうなあ。女房を質に入れる訳にはいかねえし、しばらく必死で働くかあ。
  孝蔵 ああ、頑張んなよ。もうじき正月だし、おきよさんだって辰さんを頼りにしてるんだから!
  おお!あいよ!んじゃ、またくらあ!
  孝蔵 来ちゃ駄目だってのに…言った側からこれなんだから。
それより…聞いたかい、お亀さん。今のやりとり。
50 お亀 はい、聞こえてました。
  孝蔵 あんな馬鹿でも、女房を質に入れるわけにはいかねえ。しばらく必死で働くかと、そう言ってたんだよ。
  お亀 はい、おっしゃってましたね。
  孝蔵 これまでも女房を質に入れてもなどと、良く冗談でも言ったりするけど、あたしゃほんとに持って来るやつがいるとは思わなかったよ…。
  お亀 …………。
  孝蔵 だいたい、あたしだって、本当は入れたくなかったんだよ。
  お亀 ええ。
  孝蔵 それをあんたが、自分からお願いしますと頭を下げるんだもの。
  お亀 申し訳ありません。
  孝蔵 連れてきた亭主も亭主で呆れたもんだよ。
60 お亀 はい…。
  孝蔵 だけど、入(い)れる方も入れる方だけど、入(はい)る方も入る方だよ。あたしゃ、似たもの夫婦ってこう云うのかと思ったものだよ。
  お亀 ………。
  孝蔵 言っちゃ悪いが、あんな亭主と別れる気はないのかい。
  お亀 今のところは…。
  孝蔵 何してるって言ったんだっけ?あんたの亭主は。
  お亀 いちおう戯作者(げさくしゃ)なんです。   ※戯作=近世後期(18世紀後半頃)から江戸で興った通俗小説などの読み物の総称のこと。黄表紙, 洒落本,談義本,前期読本など,江戸後期前半の小説群をさす。
  孝蔵 あ、戯作者か。ろくでもない連中が多いとはよく聞くけど、ほんとうなんだねえ。
  お亀 あたしはろくでもないとは思わないんです。ちょっと変わっているかも知れないけど…。
  孝蔵 筆名はあるのかい?
70 お亀 はい。これまでにいくつか変えたりはしたのですが、今は堂城幸四郎(どうしろこうしろう)と名乗ってます。
  孝蔵 堂城幸四郎?なんだいそりゃ。
  お亀 どうしろ、こうしろの洒落(しゃれ)だそうです。
  孝蔵 ああ…。洒落ね。面白いかい、それ。
  お亀 戯作者の筆名なのでふざけているところもあるんだと思います。
  孝蔵 そうなの?どうせならもっと見栄えのいいどっしりしたものにしたらいいと思うんだがねえ。
それで、どんなものを書いてるんだい。
  お亀 えっと、今は犬の本を。
  孝蔵 犬の本?まさか犬が読む本かい?
  お亀 まさか。犬は本は読みませんから。人が読む犬の本です。
  孝蔵 犬は四本足の生き物で、わんと鳴くとか、片足上げて小便するとか、ここ掘れワンワンしたりとか、そういうことを書くのかい?
80 お亀 いえ、そういうことは書きません。なんていうか、人がするようなことを犬にさせて、おかしみのある話にするんです。
犬から見た人のばからしさが感じられたり、逆に人が哀れに見えてきたり…面白いんですよ。質屋さんもぜひ読んでみてくださいな。
  孝蔵 悪いけど、あたしゃ、商売一筋で戯作とか作り物の話は読まないんだよ。道学(みちがく)、心学(しんがく)、陽明学(ようめいがく)、そこらの本は読むけどね。
で、犬の本だけかい?
  お亀 ほかには猫の本も。
  孝蔵 猫は四本足でにゃあと鳴くとか、そこらの柱でぱりぱりと爪を研ぐとか、丸く(まあるく)なって眠ってばかりいるとか。
  お亀 そんなことも書きませんよ。まあ、さっきお話しした犬のと似たり寄ったりのお話ですね。
  孝蔵 犬と猫の本ねえ。生き物が主人公の話ばかりかい?
  お亀 あとは…そうですね。たまにお化けの本も書いているようです。
  孝蔵 お化け?ああ、怪談話かい。四谷怪談や牡丹灯籠みたいな。
  お亀 いえ、そっちの本は、このお化けは足が何本あって、こんなふうに泣いたり、どんなふうに動くとかを書いてますね。
  孝蔵 なんだい、そっちはそんなふうなのかい。
90 お亀 はい。
  孝蔵 うーむ…そりゃどれも売れないんじゃないのかい?
  お亀 いえ、そんなことも…。
  孝蔵 売れてるのかい!?そんな本が!
  お亀 いえ、売れる売れないというより、まず本になりませんから。
  孝蔵 ああ、なるほどね。するってえと、本にもならないものをせっせと書いているってわけかい?
  お亀 ウンウンうなっていることの方が多いですね。
  孝蔵 唸ってるねえ…。犬もよく唸っているがね。
  お亀 そうですね。
  孝蔵 お亀さんはいくつだい。
100 お亀 あたしは二十五になります。
  孝蔵 ご亭主は?
  お亀 三十になりました。
  孝蔵 三十でまだそんな按配(あんばい)かい?
  お亀 この世界の人たちは一人前になるまでが長いんですよ。
売れっ子絵師の歌川国芳(うたがわくによし)さんなんかも三十いくつかまで鳴かず飛ばずでしたし、あの葛飾北斎さんですら売れたのは四十過ぎてからですから。
  孝蔵 ふうむ。
しかしねえ、もっとちゃんとしたお店(たな)ものとか、腕のいい大工とか、辰さんみたいな櫛職人だっていいから、そういう男を好きになれば幸せなのに、何でまたそんなはっきりしないやつを好きになっちまったんだか。
見たところ、器量も悪くないし、頭はかなり良さそうなのに…。
それで、あんたはいま幸せなのかい?
  お亀 幸せ?
  孝蔵 女は幸せになるために、嫁になるんじゃないのかい?
  お亀 そんなこと、考えもしませんでした(笑)
  孝蔵 やれやれ、ほんとに人がよすぎるというか暢気(のんき)というか…。
110   《数日後》
  堂城幸四郎 あのう…お亀はいますよね…。
  孝蔵 ああ、あんた…お亀さんの亭主の…。(名前忘れて)あー…。もちろんいますよ。お金は出来たのかい?
  堂城幸四郎 えーと、それがですね、どうもはっきりしないことになってまして…。
  孝蔵 なにがだい?
  堂城幸四郎 いえね、書き上げたものを版元に持っていったんですよ。本当ならそのまま買い取ってもらえる話になっていたんですが、なんせいま、不景気でしょ。しばらく考えさせてくれって話になっちまって。
それで、書き上げたものを預けることになっちゃいました。
  孝蔵 なっちゃいましたって…。それじゃ、お金は?
  堂城幸四郎 ええ、そんな訳でないんです。てへへ…。
  孝蔵 てへへじゃないよ。はぁ。3日だけという約束でお亀さんは蔵に入ったんだけどねえ。
  堂城幸四郎 わかってますよぉ。
120 孝蔵 あのね、お亀さん、律儀(りちぎ)に蔵で寝てるんだよ。そんなところに寝ないで、いま、女中部屋が空いているからそっちで寝たらどうかって言ったんだけど、聞かないんだよ。
質草の桐のタンスと火鉢の間で、小さくなって寝てるんだよ?
  堂城幸四郎 結構律儀なんですよね、あいつ。もうちっと融通無碍(ゆうずうむげ)にならないもんかなと思ったりするんですがねえ。
  孝蔵 あのね、お前さんは、犬だの猫だのの話を書くよりは、自分の話を書いた方が良いんじゃないのかい!?
  堂城幸四郎 自分の話?
  孝蔵 そう。売れもしない戯作を書くので、自分の女房を質に入れる話だよ。こんな面白い話はないだろう?
  堂城幸四郎 うーん…面白いですかね?
  孝蔵 面白いさ。ここらの連中のみんなは大笑いしているよ。毎日お亀さんを見に、何人も見物に来るくらいだ。
いっとくけど、あたしが言いふらしたわけじゃないよ。お亀さんがここに来る前に、自分から質屋に入ると、挨拶して回ってきたからだよ。
  堂城幸四郎 それでお亀を見せてんのですか。
  孝蔵 見せるわけが無いだろう。お亀さんがかわいそうじゃないか。
まったく、お亀さんもどうしてお前さんのような男と一緒になったんだろうねえ。
  堂城幸四郎 ほっといてくださいよ。
130 孝蔵 うまいこといって口説いたんだろ?
  堂城幸四郎 冗談言っちゃいけねえ。お亀が女房になりたいって言ったんだぜ。苦労するぞって言ったら、かまわないってな。
  孝蔵 それで本当に苦労させるやつは大馬鹿野郎だよ!
その心意気を汲み取って、ありがたいと思ったら適当なところで諦めるか、あるいは飯を食う道を確保しながら戯作を続けるかするんじゃないのかい!?
  堂城幸四郎 諦めきれねえんですよ…。
オレだってそれはしょっちゅう考えるさ。才能がねえなら諦めるしかねえって…。
  孝蔵 才能があるとでも思ってるんだ。
  堂城幸四郎 あるはずなんだよ!
  孝蔵 他に仕事をやりながらは?
  堂城幸四郎 オレはそんなに器用じゃねえんで…。
  孝蔵 そこまでしてやるような仕事なのかい、戯作作りなんて。仕事とも言えないようなものじゃないか。
  堂城幸四郎 仕事だよ!ちゃんとした仕事なんだ!
140 孝蔵 あんなもの無くたって誰も困らないだろ。家だとか、鍋釜(なべかま)なんかはないと困るが、戯作なんざ無くたって毎日生きていけるじゃないか。
  堂城幸四郎 ないと困るんだよ。雨露しのいで飯さえ食っていければそれでいいのかい!?人生、ちょっとした楽しみってえのがいるだろうが。
見たこともないような光景を想像したり、違う人生を味わってみたり、そういうことも必要だろうが。
家にいて、鍋釜(なべかま)洗ってて笑えるかい?人間、たまには笑いてえだろうが。
しかも、オレはそういうものをどうしても作りてえんだ。大工が立派な家を建ててえように、鋳物屋(いものや)が丈夫な鍋釜を作りたいように、オレは面白い戯作を作りてえんだ。作らずにはいられねえのさ!
  孝蔵 ふうむ…。
  堂城幸四郎 あと3日、あと3日置いといてくれよ。半ばまで出来てる戯作があるんだ。
それを3日で書き上げて、別の版元に持っていくよ。そっちは前からぜひ書いてくれって言ったところだから、きっと買い取ってくれる。それまで何とか頼みます!
(走り去る)
  孝蔵 ちょ!ちょっとちょっと!あんた!
ああ…行っちまいやがった…。
  お亀 お金、出来なかったみたいですね。
  孝蔵 お亀さん。
あと3日だと。まったくもう、しょうがないねえ。
  お亀 申し訳ありません。
  孝蔵 3日で別の戯作を書き上げ、別の版元に持っていくと言ってたけど、売れるかね?それより、本になるのかね?
  お亀 どうでしょう?版元さんに気に入ってもらえるといいんですが…。
150 孝蔵 戯作者なんてえ人間はもっとちゃらちゃらしているのかと思ってたけど、あんたの亭主は意外と頑固なんだねえ。
  お亀 ええ。夢中になるとご飯も食べずに仕事をしています。
  孝蔵 八犬伝みたいにどーんと売れるといいねえ、お亀さん。
  お亀 はい。それでお金が入るとか言うんじゃなく、あの人が書いたものをたくさんの人に読んでもらえたらなあって思います。
  孝蔵 お亀さんにそういわれると、あたしはなんだかあの男が見どころがあるような気もしてきたよ。
  お亀 (嬉しそうに)そうなんですよ。
  孝蔵 あんた、あいつの所に嫁にくるまで、何やってたんだい?
  お亀 女だてらに職人みたいな仕事です。羽子板の後ろに押し絵がついてますでしょ。あれを作ってたんです。
  孝蔵 立派な仕事じゃないか。
  お亀 その仕事を続けていられたら、あたしもこんな事にはならなかったはずなんですが、うちの人が親方のことを馬鹿にしたものですから…。
160 孝蔵 馬鹿にした?まったく、どうしようもないね。自分のことを棚上げにして。
  お亀 いえ、当人にはそんなつもりはないんです。ただ、親方を猫に見立てて戯作に登場させたのですが、たまたまそれを読んだ親方がひどく怒りましてね、あたしのところから材料一切を全部引き上げちまったんですよ。
  孝蔵 ありゃまあ。
  お亀 間に立ってなだめてくれる人もいて、親方の怒りもそのうち修まるからと言ってくれてるんですが、うちのがまた、ちゃんと詫びたりしないものですから、弱ったなあと思って…。
  孝蔵 頑固だっていうしねえ。
どうするの?もうじき正月だよ。
  お亀 どうしましょうかねえ。
  孝蔵 餅だって買わなきゃならないだろ。
  お亀 でも、お餅食べなくても死ぬ訳じゃないですし。
  孝蔵 あんたも暢気(のんき)だね。その年で諦観(ていかん)したようなものだ。たいしたもんだよ。
まあとにかく、もうしばらく待つしかないかねえ。
    《その日の夕方》
170 親方 あのう。
  孝蔵 はい、何でしょうか?
  親方 こちらにお亀さんが質草になっているって聞いたのですが。
  孝蔵 誰に聞いたんだい、そんなこと。まさか亭主が言いふらしているんじゃないだろうね。
  親方 いえ、お亀さんの長屋で…。
  孝蔵 ああ…噂になっているからね。いるよ。ちゃんと蔵におさまってるよ。
  親方 お亀さんを請(う)け出したいのですが。
  孝蔵 請け出したいって、お亀さんは花魁(おいらん)や女郎(じょろう)じゃないんだ。そんなこと駄目だよ。あたしがお亀さんを引き渡すのは、亭主だけだよ。
  親方 あっしはお亀さんに仕事をしてもらっていた羽子板職人の長次ってえものなんですがね。
  孝蔵 ああ、あんたが。話は聞いてるよ。
180 親方 ちょっとだけでも会わせちゃくれねえですかね。
  孝蔵 うーん。じゃあ、会わせるだけだよ?いま呼んでやるから。
おーい、お亀さんや。
  お亀 はい、何でしょうか?
まあ、親方!
  親方 よう。久し振りだな。
あんたも大変だ。こんなところに入っちまって。
  孝蔵 こんなところとはなんだい。
  親方 あ、いやいや、これは失礼。
いや、お亀さん、実は日本橋のさくら屋さん、お得意さまの。
  お亀 はい。品川、新宿、板橋、千住、浅草にお店を持っている大きな和菓子屋さんですよね。桜餅は江戸名物と言われてる。
  親方 そのさくら屋さんの主(あるじ)がわざわざ来てくれて、来年の正月に本店と出店五つの店頭に飾る大きな羽子板を、お前さんに頼みたいと言ってきたんだよ。
  お亀 ええっ、ほんとうに!?
  親方 ちょっとしたところに滲み出るとぼけた味わいは、お前さんにしか出せないものだとおっしゃってね。ぜひにとのことなんだよ。
190 お亀 ああ、ありがとうございます。そんなふうにおっしゃっていただけるなんて、ありがたいことですわ。
  親方 じゃあ、機嫌を直して、仕事をしてもらえないだろうかね?
  お亀 機嫌を直してって、それはこっちが言う台詞ですよ、親方。
  親方 そういってくれると助かるよ。さくら屋さんの大きな注文だ。きっと代金もはずんでくれるよ。
  お亀 まあ。それだったら本当、助かります。
  親方 じゃあ、さっそく仕事をしてもらわなくちゃ。あと10日ほどしかないんだ。うちに来ている道具や材料はすぐに持ってくるよ。
  お亀 はい。お願いします。
  親方 はっ。(孝蔵に向かって)ああ、どうしましょう?お亀さんに仕事をしてもらうとなると、代金は出来た羽子板と引き換えなので、質草がなくなってしまいますね?
  孝蔵 あっはっは…。そりゃあ、簡単なことだよ。
なあ、お亀さん?
199 お亀 (笑いながら)はい。うちの人を質草に入れときます。
書くだけなら質草の机1つお借りすればすむことですから。

背景色 江戸茶