修験者ウォークで知る

『ハトムネ』検証

11月27日(木)、愛川町教育委員会主催の『愛川の歴史教室』に参加した。上はその際に頂いた寶暦六年に書かれた古文書のコピーである。

古文書内容については夢が無くなるので細かく書かないが、今も昔も変わらない組織維持のルール事を主体に書かれたものである。またこの八菅山の修験者の棟梁と言うべき役は”年番”と呼ばれ順番で、外交・財政、祭礼の運営にあたっていた。しかし、その際の費用負担が大変で病気と言って逃れる人が出ていたらしい。何故修験に興味をもったのかは、2つ 理由がある。山に生きていた人たちの知恵・工夫を知りたかった事。

総門の跡と形(イメージ右)

そして、それにも増して興味があったのは廃仏希釈、その時の事実を知りたかったからである。幕末の歴史が大好きな私は、特に歴史を動かすキッカケを作った高杉晋作、坂本龍馬を司馬遼太郎の小説を読んでから尊敬した。

駐車場にある光勝寺の礎石

しかし、彼らが作った明治政府が出した『神仏分離』の影響は山歩きを始めた僕にとっては驚愕の出来事だった。相模大山で見た首の飛んだ石仏、伯耆大仙で見た廃寺の跡は歴史の裏を見たような衝撃があった。 廃仏毀釈の目的は、そしてその結果は今の生活にどのように影響していたのだろうか?作成中

墓の後ろにある町で一番古い石碑