わんだふるはうす 森戸海岸線を行く

日影茶屋 PART2

横須賀から大磯まで、湘南の海岸沿いを東西に走る国道。それがルート134号線。葉山御用邸前交差点を左に折れると、逗子・渚橋まで曲がりくねった細い道が海岸沿いに続きます。それが県道207号・森戸海岸線。いかにも葉山らしい風光明媚なこの道路を、2005〜2009年にかけて、ワンダフルハウスが走破しました。このコーナーでは「日影茶屋」をご案内いたします。

2007年2月3日、ワンダフルハウスは節分の会席料理をいただくために、日影茶屋を訪れました。
江戸時代の初期、寛文元年(1661年)創業と伝えられる葉山の日本料理店「日影茶屋」の登場です。御用邸と明治大正時代の名士たちによって磨かれ、老舗としての風格を備えてきました。かつては宿泊もできたので、湘南を愛する多くの人たちが、ここに逗留しました。夏目漱石は毎年夏になると一家で滞在し、漱石の子供たちは他の客の子供と親しくなって兄弟のように一緒に遊びました。単に宿泊させ食事を出すというのではない、もっと密な客との繋がりがあったのです。
地元の郷土史家の中には、「もっと古い」と言う人もいて、正確な創業年度はわからないそうです。
バー久楽(くら)を覗いてみましょう。

18:00〜23:00
バー久楽(くら)

10:00〜16:00
菓子舗 日影茶屋
日影茶屋母屋隣りの本物の蔵は、昼は和菓子屋、夜はバーに変身します。
角田家の家紋が入って、いかにも蔵っぽい重厚な扉です。

18:00〜23:00
バー久楽(くら)

10:00〜16:00
菓子舗 日影茶屋
昼間はお菓子を置いてある台は、夜はバーカウンターになります
日影茶屋母屋隣りの、本物の蔵を改装した隠れ家Barは、その名も久楽(くら)。カウンターの中は和服姿の美女たち。鼻の下を伸ばしたチョイ悪おやじ達が常連のようです。ここでも日影茶屋の料理が味わえますが、座っただけで3000円つけられるそうです。
「おおっ!? 太鼓です!」
「前にお多福、後ろにひょっとこのお面をかぶった人が太鼓をたたいていますよ?」
今日は豆まきをやるみたいですね。
ガラガラッ…
明治の文人 川上眉山も、「日陰の茶屋といへる名の優しさに其処に宿からむ事を思ひ……(中略)……左に燈火を見る。これを日陰とす」という記述を残しています。白樺派や鎌倉文士たちの他、政財界の別荘族も出入りし、結婚式やパーティーの仕出しにもよく利用されたといいます。ちなみに、昔は「日陰」だったのが、今は「日影」で、いつからそうなったのかは定かではないとのことです。
「こんばんは!(^O^)/」「これはこれはワンダフルハウス様…」
この日影茶屋の名を一層有名にしたのが「日陰茶屋事件」。大正5年、アナーキストの大杉栄が、婦人記者をしていた神近市子に2階で刺さたのです。フリーラブを唱えた大杉と妻、神近市子、さらに伊藤野枝との入り組んだ関係から起こった事件でした。事件の舞台になった部屋があった建物は、昭和初期に建て替えられました。
「おっ、日影茶屋が旅館だった頃の看板が飾ってあります」
交通の発達によって、葉山の旅館の宿泊客が減り、「料理だけをいただきたい」という声も増えてきたため、1972(昭和47)年、日本料理店として新たなスタートを切りました。現在でも店内には旅館時代の看板が展示されています。逗子の自宅から近かった石原裕次郎は、若い頃からしばしば訪れ、カレーライスやエビフライなどの当時はまだ珍しかった洋食を好んで食べていたそうです。当時は旅館だったので、お好みで献立にない料理を出すこともあったのです。現在でも石原慎太郎氏や石原良純氏が来店しています。
庭に沢山の人が集まっています。お客さんだけでなく、地元の人も参加できるそうです。
節分
8400円+奉仕料10%
「料理は節分のコースを。飲み物は梅ソーダをいただきましょう」
サービスの麦茶が運ばれてきました。これは注文した飲み物が届くまでのつなぎです。冷たい飲み物を注文した客には冷たいお茶を出すのです。
先付
豆乳豆腐、白魚、菜花
先付が運ばれてきました。豆乳豆腐の上に白魚と菜の花が乗っています。
「豆乳を使ったのは、チャヤマクロビで培った技術を日本料理にも応用してきたのです」
「この豆腐は豆乳を葛で固めたものだそうです。もっちりした食感…ニガリで固めた普通の豆腐とは一味違います」
「梅ソーダの中に香りづけの花が入っていました。この花は庭で採ったものです」
豆まきがもうすぐ始まろうとしています。

みぞれ仕立 お多福麩 赤鬼麩
お碗が運ばれてきました。
おっ?
これは何でしょう?
「お多福と赤鬼です!\(^○^)/」
鬼はー外!福はー内!
「豆まきが始まっています!\(^○^)/」
「食べるのがもったいないくらいよく出来ていますね。ちくわ麩とか、すいとんの食感に似ています」
日影茶屋の当主は、代々「角田庄右衛門」を名乗ります。現在の当主 10代目角田庄右衛門こと角田彰氏は、アメリカ留学から帰国後、1972年、22歳という若さでフランス菓子店「フランス茶屋」を開店。1977年にフレンチレストラン「ラ・マーレ・ド・チャヤ」を開店させました。
日影茶屋物語−しづ女覚書−」の登場です。300年以上の歴史を誇る老舗「日影茶屋」に大正8年、13歳の時に奉公に来て以来、70年以上に渡って店に仕えた三角しづさんが語った話をまとめた本です。
明治、大正、昭和の文化人に愛用された店だけに、三角さんが接待した客の中には、今や歴史上の著名人が多くいます。大正5年、いわゆる日蔭茶屋事件で神近市子女史に刺されたアナーキスト大杉栄もその一人。
「あの事件の後も、大杉さんはよくいらっしゃったんです。薩摩絣の着流しでね。ツバの広い麦藁帽子をかぶって。『サイダー飲みに来たよ』って。おヒゲをはやしたハンサムなかたでした」。
毎年避暑に来た中には、夏目漱石夫人も。
「夏目先生の奥様は、お坊ちゃまお二人、お嬢ちゃまお二人お連れになって毎夏。それは体格のいい、立派なかたでしたよ」。
当時は、客についた仲居が、ご挨拶から食事のうかがい、料理のお運びから、布団あげ、掃除と、お帰りまでの一切をしました。
造里
季節の魚
「旦那さま、夏みかんでしめたヒラメ、メジマグロ、サヨリでございます」
「17歳で“お座敷”になったんです。今で言う“仲居”ね。それまでは下働き。“お座敷”になって気をつけたことは、お行儀ですね。言葉遣いに、立ち居振舞い…」
客を呼ぶ時は必ず「旦那さま、奥さま、お坊ちゃま、お嬢ちゃま。お年寄りは“ご隠居さま”ね。それはもうぜったい」
「『日蔭の茶屋事件』と申しますのは大正5年11月9日に起きました刃傷事件でございます。私が日蔭の茶屋に奉公に上る前の出来事でございますので、実際に目撃した訳ではございません。しかし当時の有名な社会主義者と、今で言う最高のインテリ婦人記者との間の刃傷事件でございますので、それはもう大層な評判になったそうでございます。
その日、神近市子さんは昼間一度日蔭の茶屋に来られ、直ぐお帰りになったと申します」
この建物は、旅館だった頃の名残りです。2階の右端の部屋で、大杉栄が神近市子に刺されました。この建物は、昭和初期に建て替えたものなので、日陰茶屋事件のあった部屋は現存していません。現在2階は物置になっているそうです。
「東京にお帰りになってしまったと思っておりますと、後でまた来られて、大杉さんと伊藤野枝さんの泊まっている二階のお部屋に乗り込んでゆかれたのでございます」
「大杉さんはこの頃、伊藤野枝さんと激しい恋愛の最中であったそうで、神近さんとの仲は少し冷めていたのかもしれません。ですから大杉さんと野枝さんが日蔭の茶屋に泊まっている事を知った神近さんは最初から血相が変わっていたとしても格別不思議はございません。むしろ不思議なことは何時も必ず付いている監視役の警官が、その夜に限っていなかったと申します」
「大杉さんが神近さんに短刀で刺されたお部屋は二階の一番奥まった二十番の部屋でございました」
「神近さんは大杉さんを刺すと、一番近くの階段を駆け下り、中庭に面した廊下を玄関まで走って、そのまま外に飛び出してゆきました」
「大杉さんは刺された首を押さえながら
『市子、待てっ』
と玄関まで追って来たのですが其処で倒れてしまいました。
日蔭の茶屋では最初何が起こったのか良く分かりませんでしたが、じいやの指図で徳さんが起きて廊下に出てみますと、お客様が血に染まって倒れています。慌てて手拭いで傷口を押さえたのでございますが、とても素人では手に負えそうもありません。そこで急いでリヤカーに乗せて逗子の千葉病院に運び込んだという次第でございます。
幸い、傷は急所を外れておりましたので、大杉さんは案外お元気で、神近さんが自殺をなさるのではないかと、とても心配していらっしゃったそうでございます。
神近さんは大杉さんを刺すと一度は海に入られたそうですが、今もその時の場所にある田越橋の手前の駐在所に自首をされたのでございます」
焼物
鰆うぐいす焼
「旦那さま、鰆のうぐいす焼でございます」
「サワラの上にグリンピースで作ったウグイス餡が乗っています。金柑の蜜煮と庭で折った梅の枝も飾られていて綺麗ですね(^-^)\」
八寸
赤矢柄椿寿司
車海老うに焼
身巻唐墨
黒豆みぞれ和え
「旦那さま、八寸でございます」
「これは豪華です!豆も散らばっています!(^O^)\」
身巻唐墨。カラスミとは鯔(ボラ)の卵巣を塩漬けにしたものです。その形が唐の時代の墨に似ていることからこう呼ばれてきました。卵がぎっしり詰まっているから、独特のモチッとした食感が楽しめます。カラスミの周りは白身魚をすりつぶしたものです。 赤矢柄椿寿司。椿を愛す日本人は、その花を模した菓子や寿司を楽しんできました。椿寿司は、一般的にはサーモンを使い、手毬寿司のように形作って、椿の葉を添えるもの。今日のは白身魚を使った白椿です。アカヤガラは身体の3分の1が口で、開くのは先っぽだけ。細長くてニョロニョロした変な魚ですが、上品な白身で美味しいのです。
車海老雲丹焼。イキのいい活車海老をウニと卵黄と日本酒のタレで焼いたものです。ウニの風味が素晴らしく、これは珍味です。 豆は食べないでキープしておきましょう。
黒豆みぞれ和え。かなり大きな黒豆です。大根おろしとの彩りも良く、サッパリとした逸品です。
煮物
鰤大根
「旦那さま、鰤大根でございます」
大根が飴色になるまで時間をかけてしっかり煮つけたブリ大根です。
ブリの旨みを十分に吸って柔らかく炊きあがった三浦大根はもちろん、ブリの身もホロホロになっていて、とても美味です(^Q^)
「大杉さんはそれを知ると、今度は毛布や歯ブラシを差し入れるようにと、ご自分の傷の痛みも忘れて気遣っていらっしゃった由にございます。
社会主義と申しましても、私共にはむずかしい事は分り兼ねます。兎に角、大杉さんはこのようにとても優しい面を持ったお人でございました。
後でこの事件に関しましていろいろのご本が出たようでございますが、男女の愛と憎しみは紙一重で仲々むずかしいものでございます。
事件の後は現場検証と申しますのでしょうか、お調べやら、事件のことを聞きにこられた新聞記者の方々の応接で、とても商売どころではございません。一週間余りは休業状態であったそうでございます」
揚物
蕗のとう
のびる
早掘筍
うす衣揚げ
「旦那さま、蕗の薹と野蒜と早掘筍の薄衣揚げでございます」
「おっ、天ぷらです!(^O^)\」
春の早掘筍(左上)は、秋の松茸にも劣らないと言われるほどの絶品です。タケノコは魚と同じく鮮度が命。朝霧のたつ、早朝5〜6時に地元葉山で採れた貴重なものです。
ふきのとう(左下)は、春先に蕗の地下茎から出る花茎。独特の苦味が口の中で春の訪れを告げているようです(^Q^)
野蒜(のびる)は野に生える蒜(ひる)という意味で、蒜はネギ属の総称です。テンプラにするとほっこりとしていて、百合根のような食感です。
「しかもこの大杉さんも野枝さんも大正12年9月1日の大震災のどさくさに、甘粕憲兵大尉によって虐殺されたのはご承知のとおりでございます」「神近市子は、これほどの刃傷事件を起こしながら、後に国会議員にまでなったのは凄いですね。日蔭茶屋事件は『エロス+虐殺』という映画にもなっています(^-^)」
蟹雑炊
香の物
「旦那さま、蟹雑炊でございます」
ほうじ茶も運ばれてきました。
卵の黄色と三葉の緑と蟹の紅白が美しいですね…おおっ、これは鍋物の残ったスープで作るのとは違うプロの味です(^Q^)
香の物は、赤カブ、山芋、昆布でした。
「神近市子様は確か昭和56年の夏、93歳のご高齢でお亡くなりになりました。お亡くなりになると生前のお仕事や功績があらためて新聞や雑誌に載りましたが、この『日蔭の茶屋事件』も再び評判になったようでございます。そのせいでございましょうか、その年でしたか次の年でしたか忘れてしまいましたが、ご年配のご婦人がお二人、この事件のあった部屋を見たいとおっしゃって日影茶屋においでになったことがございました。古い出来事をいくらかでも知っておりますのは今では私だけでございますので、私がご案内をいたしました。既に当時の建物は建て替っておりましたが、二十番のお部屋のあった場所をご覧に入れていろいろ当時のお話を申し上げたことがございます。
『時に、どちら様でございましょうか』
『大杉の身内でございます』
お一人の方は大杉さんがとても可愛がっていらっしゃいまして、日蔭にも良くお連れになったあの魔子様に違いございません。
それは鐙摺の海に真赤な夕日が沈む日でございました」
水菓子
「旦那さま、水菓子でございます」
伊予柑と苺のゼリー寄せです(^Q^)
一緒に出された煎茶も濃いめに淹れてあり、さすがに美味しいお茶でした。
「大杉さんのことをいろいろお書きになっていらっしゃる瀬戸内寂聴さまも昭和58年でございましたか、現場をご調査のためおいでになったことがございます。この時も私がご案内申し上げましたが、その後『諧調は偽りなり』というご本で詳しく事の顛末をおしるしになられたのでございます。その中で私のことも書いて戴きましたが、本当に一生の良い思い出と嬉しく存じております」
「大変だったのはお掃除。電気掃除機なんてありませんでしたからね。今の茶屋は昭和10年に建て替えたんですけど、その時は床はもちろん、柱から床の間から戸から、全部“おからがげ”したんです。おからを小袋に入れてね、ギュッとするとおつゆが出るでしょ。そのおつゆで拭くんです。いったん拭き込んだ家はね、今でもツルツルしてますよ。
1980年、今の社長のご婚儀の時、75畳のお座敷に60人くらいのお客さまをして、お懐石をお出しして、お冷酒をおつぎしたのが、私の最後の“お座敷”でした」。
花嫁はマリ・クリスティーヌさんでした。
「社長は何にもしなくていいから、っておっしゃってくださるんですけど、この店で育ちましたからね。今でもお客のことをしてる時が、一番楽しいです」
見送ってくださった。小さな肩が一層すぼまって、老舗を支えたお辞儀は、愛らしかった。
その三角さんも今では亡くなっています。

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