大橋歩

イラストレーター エッセイスト

1940(昭和15)年、三重県生まれ。多摩美術大学油絵科を卒業。1964年、「平凡パンチ」創刊号から表紙のイラストレーションを担当。一躍、脚光を浴び、1971年まで続く。「みゆき族」の出現など、’60〜’70年代の若者の風俗に大きな影響を与えた。1972年よりフリーランス。1980年、「ピンクハウス」のファッション・イラストレーションを担当。コワイ顔にかわいい服のポスターが話題になり、1989年まで続く。1981年、青山に「スタジアム」を開店。4年間、洋服や文具など、数々の大橋グッズを世に送り出す。また、「クロワッサンの店」大橋歩オリジナル商品も手がける。以後も各種雑誌、広告等で幅広く活躍。衣食住全般にわたるエッセイにも定評がある。大橋歩はペンネームで、本名は石井久美子。夫は彫刻家の石井厚生氏。多数の著書あり。


ピンクハウスのイラストレーターを辞めた理由

つい最近、家中の端切れを集めてクマを作るのに熱中しました。私にとって、絵を描くことと布で形を作ることは同じでした。たまたま立体になったというだけのことでした。ところで、ものって作っていくうち、コツが分かってくるでしょ。絵もね、何年か仕事をするとやめてしまうのはコツが分かってしまうからだったと思うんです。上手になると、闘わなくなっちゃうじゃないですか。
例えば、10年描かせてもらった「ピンクハウス」の時代もそうなんですよ。最初は、洋服がうまく描けないから逃げてたの。あの服むずかしいんだもの。締め切りまであと何日ってギリギリのときまで描かないで。でも逃げてる間中しっかり考えているのです。本当にギリギリになって、必死に闘い始める。すると、できないと思っていたのに、ちゃんとできちゃう。そうやって描いてた。ところが、そのうちだんだんと、ヒョイヒョイ描けるようになってしまったんですね。ヒョイヒョイと描けるようになると、あの女の子の顔が、睨(にら)んだ怖い顔じゃなくなってしまった。やさしい顔になってしまったんです。そうしたら、もうだめでした。クマも10体目、いえ9体目くらいから上手に作れるようになってきました。それで、これ以上はだめ、できないって思った。
仕事だから、うまくなったほうがいいと人は思うでしょ。でも、人に魅力的だと思ってもらう仕事をするには、私自身が闘わねばならないのです。

「鳩よ!」1996年5月号より

大橋歩さんのホームページへ
(全著作リスト、ピンクハウスのイラストも見られます)

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