ビョルン・アンドレセンと金子功…全く無関係のように思える2人だが、過去に奇跡的な繋がりがあった。1970年3月〜1972年3月まで続いた金子さんのアンアンのコスチューム・デザイナー時代。1971年8月11日〜19日まで、わずか9日だけ来日して多忙なスケジュールをこなしたビョルン。2人のキャリアが1971年8月1?日の1日、わずか数時間だけクロスして、「ラブ時間は
もうすぐエンド」が誕生した。 私ワンダフルハウスが初めて「ベニスに死す」を見たのは1982年、TVの深夜番組でだった。この映画でルキノ・ビスコンティを知り、トーマス・マンの原作を読み、マーラーの音楽を聞くようになった。ヨーロッパの芸術に目覚めたのである。’82年といえばアンアンが全盛時代に入り、金子功やピンクハウスに興味を持ち始めた時期でもあった。富士通のFM7というパソコンを買ったのもこの年だ。服・本・パソコン…3つのうち1つでも知識が欠けていたらワンダフルハウス図書館は存在していなかった。現在では、映画も雑誌もパソコンで見れるようになった。金子功のファンなら、このDVDは買うべきだ。金子さんはピエロ・トージのデザインした衣裳に明らかに影響を受けていて、後のコレクションで似たような作品を発表している。 |
anan1971年11月5日号(No.40)
「ラブ時間は もうすぐエンド」
モデル ビョルン・アンドレセン&立川ユリ アートディレクター 堀内誠一 カメラ 沢渡朔 コスチューム 金子功 ヘアメイク 石田ヒロ 詩 白石かずこ |
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1999年、ホームページと電子図書館制作のため、初期のアンアンをまとめて入手した。この頁を初めて見た時は衝撃的だった…。当時のアンアンは異常なほど芸術性が高いので、ページをめくるたびに興奮の連続だったが、ビョルン・アンドレセンが不意をついて登場した時には、驚きを通り越して”無”になってしまった。当時のアンアンの質の高さをもってしても、彼の登場は異質だったのだ。それにしても「ベニスに死す」以外に当時の彼を残した作品が、この日本にあったとは…。そしてその作品に金子さんとユリさんが関わっていた…。果たしてビョルンのファン以外に、この作品の価値を理解できる人が何人いるのだろうか? |
映画のビョルン(15歳)とアンアンのビョルン(16歳)を比べてみると、撮影から1年以上の月日が経過しているので、大人っぽくなっている。金子さんはビョルンの服をデザインするのに迷いはなかったようだ。ユリさんに全ページ違う4パターンの服を着せているのに対して、ビョルンには「ベニス」そのままに近い紺のセーラー服1着で押しきっている。 |
ヴィスコンティ映画の楽しみのひとつは、ピエロ・トージの衣裳を見られること。きちんとした時代設定に基づいて衣裳がデザインされている。舞台は1911年。ポーランド貴族の少年が旅行先のベニスでセーラー服を着ている。金子さんは、ビョルンの衣裳を担当することが決まってから、「ベニス」を試写で見たのだろう。結局、映画のイメージを損なわないように、紺のセーラー服をデザインしたようだが、これは正解だった。写真は30数年が経過した今でも全然古くなく、「ベニスに死す」の番外編として、ビョルン・アンドレセンの全盛期の美しさの記録として、永遠に色褪せることはない。 |
1971年10月2日の「ベニスに死す」日本公開に先立ち、アンアン9月20日号でスチール写真を掲載している。また、新作映画を紹介しているページにも「ベニス」が登場した。なんと、隣にはヴィスコンティ映画の常連であり、監督の恋人でもあったヘルムート・バーガーの姿が…。(映画は「雨のエトランゼ」) |
明治チョコレート「エクセル」の広告もアンアンに登場。 |
「ベニスに死す」撮影中の1970年1月〜2月頃、アンアンの撮影で金子さんとユリさんもベニスを訪れていた。果たしてヴィスコンティ&ビョルンとの”世紀のニアミス”はあったのだろうか?写真左はアンアン創刊号に掲載された2号「ベネチアの花嫁」予告シーン。左からモデル・立川ユリ、カメラマン・吉田大朋、デザイナー・金子功。写真右は「ベニスに死す」を想わせるゴンドラのシーン。右が完成した作品。 |
ワンダフルハウス私物 P0381KAL06 価格不明 (カールヘルム1988年春物) |
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ビョルンが着ているボーダーのニットの肩を見てほしい。4つのボタンで留めるデザインになっている。これと同じ物を金子さんは1987年春夏コレクションで発表した。写真(金子功のプリント絵本)は紺の無地であるが、白地に紺のストライプの商品も存在していた。つまりビョルンが着ているものと全く同じ服をデザインしていたのだ。 | こちらは、左のニットの翌年に発売された商品で、胸に錨のマークが入っている。飾りボタンではなく、ボタンを外すと肩が全開になる。つまり本切羽なのだ。 |
ビョルンが着ているスタンドカラージャケットの袖の金ボタンに注目してほしい。普通のジャケットの袖ボタンは縦に並んでいるが、これは横、しかも間隔をあけてボタンが配置されている。そして金子功のファッション絵本(装苑1988年12月号)でマーク・パンサー氏が着ているカールヘルムのジャケットの袖の金ボタンに注目してほしい。金子さんが真似したのは一目瞭然である。金モールの衿章は、ヨーロッパのホテルのコンシェルジュの制服によく見られるデザインだ。 |
ビョルンの妹役の女の子3人が着ているセーラー服はピンクハウス1991年春夏コレクションに、家庭教師の女性が着ている服はピンクハウス1988年秋冬コレクションのリセの制服シリーズへと発展した。帽子とネクタイ使いがスクールガール風でありながら大人なのである。 |
この映画では、音楽家グスタフ・アッシェンバッハ役を演じた英国の名優ダーク・ボガートの存在も忘れてはならない。旅先でのコーディネートの見本になるような見事な着こなしを見せてくれる。白麻・ベージュの麻・黒のサマーウール、それぞれを3ピースで揃えて、ジャケット・ベスト・パンツの組合せで6〜7通りぐらい、そのへんが画面を見ていて気付く組合せだろうか。「ベニス」でのダーク・ボガートの麻の3ピーススーツの着こなしは、カールヘルム1987年春夏コレクションに反映された。写真は奥田瑛二さんをモデルに起用したメンズクラブ1987年3月号の広告。奥田さんはこの時、大正時代のアナーキスト大杉栄をイメージして撮影に望んだそうだ。しかし、スタイリングした金子さんは、「ベニスに死す」のダーク・ボカートの着こなしを意識していたに違いない。このようにファッション・デザイナーというのは、1本の映画から数多くのインスパイアを受けて、新たに作品を生み出すものなのである。 |
1962年のオムニバス映画「ボッカチオ’70」で、私は「前金」という話を担当したが、ロミー・シュナイダーのコスチュームをシャネルに作ってもらった。彼女の演じるミラノの伯爵夫人は、プぺと呼ばれるが、それは、私が結婚しようと思ったオーストリアのプリンセスの思い出の名であった。
復帰したシャネルは、エネルギッシュにドレスを作り続けていた。パリに行った時、私はいつも彼女を訪れた。80歳を過ぎても仕事を離れない彼女に私はうたれた。しかし会うたびに孤独の影が濃くなっていくのが感じられた。同時代の人々はほとんどいなくなっていた。シャネルは一人取り残されていた。
「ルキノ、私は仕事が終ってしまうのが怖いのよ。だから日曜日が嫌なの。なにもすることがなくて、もう二度と仕事に戻れないんじゃないかって思うの。そして友達に会うと、話が終って、帰ってしまうのが怖いの。そして一番恐ろしいのは、誰も愛せなくなったことよ」
ココ・シャネルは、1971年1月10日に息をひきとった。勤勉な彼女らしく、働き続け、日曜日の朝にこの世を去っていった。葬式の時、私は赤いバラを贈った。私は白いバラは贈りたくはなかったのだ。そしてその時に作っていた映画「ベニスに死す」を彼女に捧げた。
海野弘著「ココ・シャネルの星座」(中央公論社 1989年1月発行)より
そう、この映画の制作中にシャネルは没し、シャネルの庇護のもとで大芸術家となったヴィスコンティは「ベニスに死す」をシャネルに捧げたのだ。シャネルを師と仰ぎ、慕い敬った金子さんも「ラブ時間は もうすぐエンド」をシャネルに捧げたのだろうか?