病気

こうして克服した! わたしの闘病記

耳の手術をして人生が変わった。悲しく恐しかった病院の日々。

発病…幼児の頃、お風呂で水が入ったことが原因で中耳炎に。戦争が目前に迫り、ゆっくりと子どもの耳を治療する時代ではなかった。
18歳で東京にきたとき、耳のうっとうしさはもう長い間背負い続けた「宿痾」(しゅくあ)となっていて、かすかに難聴ぎみの右耳を生涯いたわり続けていくものと思ってもいた。
病院…20歳のとき、初めて自分の意志で耳鼻科へ行った。耳は気になっていたけれど病院は大嫌い。でも、少しはうっとうしさを軽減する方法があるのか、という期待もあった。鼻から耳への管に空気を通す治療をされたが、足で踏んで空気を送り込む機械装置がやけに恐しく思えた

それから何年も過ぎて、もうデザイナーになっていたある年、友人の栗崎fさんの家で食事中、突然、足の先がズキズキ痛み出した。親指のあたりが腫れていて、足を引き摺り這うようにして帰宅。
その夜、あまりの痛さに「足が腐った」と思い、前世によほど罪を犯したのだろうか、と考えた。
順天堂病院に行った。痛風だった。長くかかる病気だ。半年くらいも順天堂に通っている間に、じつはもっと気になることがあった。
足の治療をする階のすぐ上が耳鼻科で、いつも耳鼻科の医師が行ったり来たりする。頭に丸い鏡を光らせているのですぐにわかる。
足は腐ってもいい。耳が聴こえなくなってしまったら? 耳病が原因でいつか頭が腐りはしないか? 行くべき場所は上の階だ。
ある日、意を決して耳鼻科に。恐怖の動悸を抑えつつ階段を上った。
手術…治療の方法はあるのだ、手術をしなさい、と診断され、それでも理由をつけて数ヶ月先に予約。
’80年の1月15日。2回に分けて行なわれる手術の第1回、4時間近くを要する大手術だった。切った箇所に脚の皮膚を移植するという手術もあって、耳と脚と両方にメスが入ったことになる。
手術の日は、ユリには病院へ絶対来ないで、と頼んだ。麻酔から覚めたときは、ひとりで病室にいた。
入院は40日の予定だったが2ヶ月半ほどになってしまった。薬の副作用で肝臓を悪くしたため。
耳は、2度めの手術も無事に済み、日に日に快適な状態に。いままでずっと、かすかな耳鳴りがあった、それもぴたりと止まっていた。手術をしたことがほんとうによかった、と予想した以上に嬉しさがこみあげた。
けれど病院では、毎日、悲しいできごとも見た。2歳の男の子が口蓋破裂の難しい手術を受けていた。耳の病気がガンになって、助からなかった人も……。
お金もいらない、贅沢も望まない、大好きなビールが飲めなくてもいい、ただ健康でいたい。強烈にそう思った。退院して、ビールを飲んだ。

アンアン+クロワッサン別冊「いま、病気!」(1983年7月5日発行)より

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