伊藤五郎

1941年11月7日、神奈川県生まれ。’61年山野美容学校卒業。
’64年からフリーランスのヘアデザイナーとして活躍。多くの女性誌も担当。
’71年アトリエGOROを設立し多くのアーチストを輩出、乃木坂、表参道にサロンを開設している。

金子さんの友人でもあり、「ジャンパー絵本」〜「ピンクハウス絵本2」でヘアメイクを担当、金子さんのショー、雑誌のタイアップ広告には、現在も携わっている。


革命的な造形美とピーコックとムゲン特別席のプリンス。

取材・文 森永博志氏

伊藤五郎、ヘアー・デザインの革命児にして背徳のヒップスター。’60年代の闇に悪の花を咲かせた男は、ムゲンでも何処(どこ)でも”時代の特別席”に座り、快楽の時間を貪(むさぼ)っていた。彼の’60年代の仕事は、いまなお風化しない見事な孤高の美しさと様式を誇っている。

「ぼくが仕事をはじめたのは23歳の時だったと思う。1964年か、65年。高橋睦郎(作家)さんが当時、デザイン・センターという会社につとめていて、広告の仕事をやりながら一方では詩を書いていたのね。ある日彼に呼ばれて、ギリシャ神話を読まされて、それを写真にするから手伝えっていわれた。
そこで、アート・ディレクターとして紹介されたのが、宇野(亜喜良)さんだった。詩集の仕事をきっかけに、ぼくはそれ以後、宇野さんと組んでマックスファクターとかのコマーシャルの仕事をやりはじめたわけ。
最初の頃は、ぼくはまだ美容院につとめていて、外の仕事はアルバイトという感じでやっていたんだけども、ギャラがすごくよくて、美容院の給料の2倍近く1回の仕事でもらえた。しかも、楽しい仕事だから、すっかり味しめちゃって、それで美容院やめちゃったのね。
宇野さんと組んだっていうせいもあるんだろうけど、ぼくのはヘアー・デザインはすごく造形的にやっていた。それまでのヘアー・デザインの世界っていうと、撮影の時、モデルが美容院に自分で行って髪をつくってくるとか、器用なカメラマンが適当にちょこちょこってやるとか、あまり重要視されてなかった。それが、ぼくはフェリーニの映画とか好きだったし、宇野さんの家に行って古い画集とかみているうちに、思い切って造形美をつくるっていうスタイルを打ちだしたのね。インパクトあったよね。いきなりヘアー・デザインが重要な位置を占めるようになった。
時々、やり過ぎて…宇野さんと組んだマックスファクターではレズっぽくやったので、ぼくら降ろされちゃった。
あの頃は、スタイリストもいなかったしカツラなんかもなかったから、ぼくがファッションからアクセサリーまで集め、カツラも人形のデザイナーからいろいろテクニックを教えてもらいつくっていたのね。金髪のセシル・カットとか。
その宇野さんとの仕事を通していろいろな遊び友だちと知り合っていき、そこでムゲンが登場し、ビブロスが登場し、昼も夜もない、寝てるんだか起きてるんだかわからない生活がはじまっていったのね。翌日の撮影のためのカツラをアシスタントにつくらせておいて、ぼくはムゲンで遊び、そのまま寝ないでカツラを持って仕事に行くっていうこともあった。湘南にパシフィック・ホテルができた頃だから、夜通し遊んで、そのままみんなで海に行っちゃったりね。
当時一緒にあそんでいたのは、宇野さん、ズズ(安井かずみ)、ジュンコ(コシノ・ジュンコ)とかね、時々、まりこ(加賀まりこ)が来て、説教するのね。「あんたたち、また遊んでるの」っていうんだけども、自分だって遊んでるんだよ。
菊池(武夫)さんもムゲンにはきていたけど、いつも、ぼくらとは離れていたし、ポツンとしていた。
かなり、派手な格好してあそんでいた。ピーコック革命っていうの。ようするにゴブラン織りのパンタロンだよね。ぼくはニューヨーク行って買ってきた。本当はいきたくなかったんだけど、まわりのカメラマンやデザイナーがニューヨークに行きはじめた頃で、向こうはサイケデリック全盛でしょ。それを、ひとかじりしてきて話題にするんだけど、ぼくは行ってないから話が通じない。
「ゴロー、行ったんだろ」って、みんながいうから、これは行かないとマズいなんて、いやいや行きましたよ。その時、ぼくはサイケデリックとか興味はなかったから、2ヶ月いても、そういう場所には行かなかったけど、洋服だけは買ってきた。
ぼくは、特別、’60年代の文化に、たとえば音楽とか興味はなかったのね。それでも、ぼくのまわりが、サイケな格好をしロングヘアーにしはじめたので、なんとなくヒッピー風になっていった。
ところが、笑い話があってさ、ケンゾー(高田賢三)がはじめてパリから帰ってきた時、みんなでパーティーやろうってことになり(金子さんも参加していた)、ぼくらサイケな格好して迎えに行ったわけ。当然、パリもそうだろうと思って、みんな、ケンゾーが来た時、ひっくりかえっちゃった。だって、レノマの杉綾(ヘリンボーン)のスーツ着てるの。で、「エーッ、パリじゃ流行ってないんだ!?」っていったら、「ロンドンでやっているみたいだよ」って。まいった。
ぼくら、派手だったせいもあるけど、ムゲンでもビブロスでも特別客扱いされていた。ティナ・ターナーがムゲンでやった時も、ビブロスで遊んでいてショウがはじまる時に、ムゲンに行って特別に用意された一番いい席に座り、終わると又、ビブロスの席に戻るっていう。(金子さんとライターの森永さんも行動を共にしていた)
・・・・・・中略・・・・・・
毎日が刺激的ではあったよね。仕事終わると、毎晩、ムゲンかビブロス行って、ぼくはビブロスの方がハイソサエティで好きだったけど、遊び疲れると赤坂東急ホテルの地下にあった24時間営業の留園っていう中華料理屋に行って食事してというパターン。で、酔っぱらってると壮介(小栗壮介)に車で送ってもらったりしていた。」
その当時の伊藤五郎は、宇野さんがある週刊誌に載せたコメントによれば――ゴローのヘアー・デザインの仕事といえば正確な現実認識の上に立った甘美なロマネスクの世界と、もうひとつのグロッタの世界ともいえる装飾情念とによって形成されている。華麗な狂気はその技術をほとんど天才的なまでにおしあげて、世紀末の天才ガウディの建築のように異様に美しい造形を可能にする。その造形は人間の意識を闇に向かって官能の蔓(つる)をのばし悪の花をひらかせる――というものだった。
このようなコトバで語られるヘアー・メイク・アーティストは伊藤五郎のあとに登場していない。その伊藤五郎の姿をぼくは’60年代ムゲンで見たが、それは「闇に棲む背徳のプリンス」のようだった。

流行通信1987年8月号「赤坂ムゲンをめぐるディスコ20年史 第8回」より

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