ハーパース・バザー

Harper's BAZAAR

1867年、「ハーパース・ウィークリー」のファッション版として創刊。1934年、カーメル・スノーが編集長に、アレクセイ・ブロドヴィッチがアメリカ雑誌史上初のアートディレクターに就任。1939年、ダイアナ・ヴリーランドがファッション・エディターに就任。1946年、リチャード・アヴェドンがスタッフカメラマンとして参加し、1950年代にかけてアメリカンファッション写真の黄金時代を築き上げた。現在もアメリカを代表するファッション・ライフスタイル・マガジンとして世界中の読者に愛されている。

アンアン1991年4月19日号から連載が始まった「金子功のいいものみつけた」は、このような書き出しから始まっている。
「18歳で、学生で、初めての大都会に興奮していた。デザイン学校の図書室に故郷では1〜2度しか見たこともないような、パリやNYのモード雑誌が無造作に積み上げてあったりするのが眩しかった。」
1958年、文化服装学院に入学した金子さんが、図書室で見たニューヨークのモード雑誌とは、当時、全盛期を誇っていた「ハーパース・バザー」のことなのである。
「ハーパース・バザー」を当時の「ヴォーグ」以上に洗練されたファッション誌に仕立てたアートディレクター、アレクセイ・ブロドヴィッチは1898年ロシアに生まれた。1920年にパリに亡命し、前衛芸術運動家たち(ディアギレフ、ピカソ、マチス、レジェ、マン・レイ、ル・コルビュジエ、ニジンスキー等)と交流を持った。1930年に渡米。’20年代に体験したアール・デコ、キュビズム、シュールレアリスムといった新興芸術運動の全てを、「ハーパース・バザー」に惜し気もなくばらまいた。

余計な物が排除された、白味が強調された、バランスの良い、スマートな誌面だ。写真・ロゴタイプ・テクストといった雑誌の極めて基本的な素材のみで構成される、シンプルな美学が表現されている。ファッション誌の写真やグラフィックに関わる者なら、一度は憧れるであろうAlexey Brodovitchのアートディレクションによって、1950年代のHARPER'S BAZAARは芸術の域まで高められたといわれる。Richard Avedonとのコンビによるファッション写真は、新しい時代を切り拓き、白地とタイプフェイスの絶妙な配置のデザインは、その後のファッション雑誌の方向を決定づけた。

FUNNY FACE(パリの恋人)

1950年代のHarper's BAZAARを舞台にした映画

1956年に公開された、オードリー・ヘップバーン主演による写真家とファッションモデルを題材にしたミュージカル映画「FUNNY FACE」(監督:スタンリー・ドーネン)は黄金期のHarper's BAZAARをリアルタイムで描いた貴重な作品だ。フレッド・アステア演じるカメラマン”ディック”はリチャード・アヴェドンがモデルであり、ケイ・トンプソン演じる編集長”マギー”はダイアナ・ヴリーランドがモデル、オードリー・ヘップバーン演じるNYの古本屋の店員からパリのファッションモデルに変貌した”ジョー”は、アヴェドンが発掘してスターモデルに育て上げ、後に結婚したイヴリン・フランクリンがモデルになっている。アヴェドン自身も、写真撮影と視覚コンサルタントとして製作に参加した。

上映開始と共に、見所が突然やって来る。オープニング・タイトルをアヴェドンが担当しているのだ。「ハーパース・バザー」の表紙に使用した写真を映画でも使用している。 最初のミュージカル・ナンバー「Think Pink!」アヴェドンが撮影監修したと思われるシーンが、繰り返し出てくる。極めて雑誌的な画面だ。
映画では架空の雑誌「QUALITY」誌となっている。ケイ・トンプソンが演じたパワー溢れる女性編集長のモデルとなったのが、20世紀のモ−ド界に最も影響力のある女性として君臨したダイアナ・ヴリーランドだ。ヴリーランドはフランス・パリ生まれ、ニューヨークに移住し、ロンドン在住を経て、1939年から「ハーパース・バザー」でファッションエディターとして活躍。1962年に「ヴォーグ」に移籍して編集長を務めた。多くのデザイナー、モデル、写真家の才能を見出し、ファッションの世界に多大な影響を与えた。1971年にメトロポリタン美術館の衣装部門のコンサルタントに就任し、ファッションに関わる各種展覧会を演出した。1975年に来日した際に、歌舞伎を見て、坂東玉三郎の美しさに震えるほど感動したという。日本のファッション雑誌において、1950年代のHarper's BAZAARのような天才トライアングル(ブロドヴィッチ・ヴリーランド・アヴェドン)に匹敵するのが、1970年の「anan」創刊時にアートディレクター・ファッションディレクター・モデルに就任して、1972年の49号を最後に3人揃って退任した堀内誠一・金子功・立川ユリである。最後号で、最も美しい瞬間の玉三郎を篠山紀信が捉えた。
この映画で最大の見所は、アステアがヘップバーンをモデルにして、ルーブル美術館、エッフェル塔、凱旋門などパリの主要な名所でプロモーション写真を撮るところ。撮影中のちょっとしたハプニングが偶然して傑作写真が次々に生まれるこのシーンは非常にテンポが良く、シャッターを押した瞬間の静止画像は、息をのむほど美しい。この静止画面による斬新なモンタージュ技法は、当時、写真の世界で大きな話題となった。映画に写真技術の応用を模索していたアヴェドンは、ドーネンと協力して新しい撮影技法を開発。カメラに両面ミラーをかぶせて、撮影と同時にアヴェドンがミラーにピントを合わせて写真を撮り、そのスチール写真を映画のフレームに合わせることによって静止画像の透明度の劣化を防ぎ、写真と同等の質の高い映像を維持することが可能となった。 ”日本のブロドヴィッチ”堀内誠一は、アンアン1971年7月20日号で高田賢三と立川ユリをモデルに「パリの恋人」風の誌面構成を試みている。高田賢三は衣裳デザインも担当。カメラマンは、”日本のアヴェドン”立木義浩だ。
プリンス・オブ・ウェールズと並んで、20世紀最高のウェル・ドレッサーと称されるフレッド・アステアの着こなしを見ることができるのもこの映画の大きな魅力だ。パリの街のあちこちでプロモーション写真を撮るシーンで、モデルであるへプバーンの衣裳が次々とチェンジされるのは、もちろんのことだが、カメラマンであるアステアの服も全て違っている。 黄色いカーディガンを、このように首に巻いて(しかもかなり手がこんでいる巻き方だ!)絵になる男は、今の世の中には、そういないだろう。「Bonjour,Paris!」のグレンチェックのスーツの着こなしはクラシックで正統的。靴やベルトにもこだわっており、本当に粋な人だ。 ミュージカル映画としてのハイライト・シーン「Let's Kiss and Make Up」。”ダンスの神様”アステアが、真っ赤な裏地のステンカラーコート・帽子・傘を小道具に使って、柔らかい華麗なステップを見せてくれる。とても当時57歳とは思えない。これは神業だ! ヘプバーンは、アステアの水準に少しでも近づくために、撮影開始の2ヶ月前からパリ・オペラ座のダンス教師からレッスンを受けた。
オードリーの衣装は、前半のニューヨークのシーンはハリウッドで最も優れた衣裳デザイナー イディス・ヘッドが担当し、後半のパリのシーンでは、ユベール・ド・ジヴァンシーが担当した。ロバート・フレミングが演じた”ポール・デュバル”はジヴァンシーがモデルである。ジヴァンシーはオードリーの存在そのものをモードにしたといっていい。映画の原題である「ファニー・フェイス」は流行語になり、美人ではないが、個性的でチャーミングな女性の誉め言葉として使われた。

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