平凡パンチ女性版

平凡パンチ女性版は、国立国会図書館など、国内の公的機関がどこも保存できなかった、戦後発行された雑誌では、最も閲覧が困難な雑誌。アンアンの創刊準備号という大きな役割を演じながら、出版史の表舞台から消えてしまった理由は、臨時増刊という発刊形態がネックになったからである。1号と2号は、平凡パンチと同じ大きさで、3号と4号は、平凡パンチより大きく、アンアンより小さい。月刊明星や月刊平凡と同じサイズの雑誌である。ワンダフルハウス図書館では、デジタル化が終了した後に貸出します。

「平凡パンチ」Men’s Modeのアートディレクターから手を引いて2年。堀内誠一さんはアドセンターを退職し、新しい女性誌創刊の準備にとりかかった。1969年のことである。伊勢丹以来の友人で当時マガジンハウス副社長だった清水達夫さんの強い要望であった。堀内は、新女性誌の開発の準備号として「平凡パンチ女性版」を2冊(3号と4号)つくり、市販して若い女性読者の反応をみた。当時の雑誌にはレイアウトマンはいても外国雑誌のように責任と権限を持ったアートディレクターは存在していなかった。またそれだけの能力を持ったデザイナーもいなかった。堀内さんのアート全般にわたる深い理解力と技量が、新女性誌の創造に絶対必要だった。堀内さんは、それまでの活字主体の女性誌から写真・イラストを中心としたヴィジュアル主体の新雑誌創刊を考えていた。その実験として「平凡パンチ女性版」では、新しい企画・記事の見せ方を試みた。この雑誌で堀内がためした新企画、新スタイルのレイアウトは、すぐに「anan」に引き継がれた。

1966(昭和41)年6月10日号(No.1) 1966(昭和41)年8月10日号(No.2)
1969年(昭和44)年12月24日号(No.3) 1970(昭和45)年2月20日号(No.4)

表紙を見ればわかるが、’66年に出た1号と2号は、「平凡パンチ」っぽく、’69年に出た3号と’70年に出た4号は、「anan」っぽい。
新雑誌「anan」の編集スタッフ募集記事が、「平凡パンチ女性版」の3、4号とも掲載された。応募した人の中には、糸井重里さんや松山猛さんなど、現在、クリエーターとして活躍している有名人が多数いる。

2号「NIGHTY MODE」 ananが創刊されても大人気だったモデル・立川ユリさん、ファッションディレクト・金子功さんも1号から登場。金子さんは堀内さんがアドセンターでADをやっていた時にファッションを担当していた。 4号「赤いカノコの思い出は チラチラ見えて」というタイトルはそれまでの女性誌の表現にはなかった。当時としてはきわめて大胆な写真だったが、堀内さんは美しいリリシズムとエロティシズムにまとめあげている。こういう品の良さが堀内さんの手にかかると、さりげなく表現される。エッセイは大橋歩さん。
1号「PUNCH GIRLS INTERIOR」 金子功&立川ユリ夫妻の六本木の自宅が雑誌に初登場。anan創刊後は、この部屋がファッション頁の撮影場所として度々使用されることになる。 3号「星占いによる貴女の来年の定められた運命」 現在、どの女性誌でも星占いの頁がある。しかし日本の雑誌で一番最初に星占いの頁を掲載したのは、この平凡パンチ女性版であった。この星占いの企画は、もちろんananにも引き継がれ、34年後の現在でも、anan最大の当たり企画として残っている。
3号「いま、ウルトラエルといわれているパンタロンスタイル」 フランスの女性週刊誌ELLEと提携したので、エルのファッション写真が躍動する。翻訳は原由美子さん。解説は川村都さんと堀切ミロさん。「カジュアルね!この白い方はニットなのネ。パンタロンのシルエットがあたらしいわヨ。デザイン的には、別にあたらしいってことないのヨ。どうってことないってのは、いつの時代でもイイわね。このあみかたはマーガイルっていうのヨ。古き良き時代のニオイってカンジ」
後にアンアン調と呼ばれることになる三宅菊子さんの文体もこの号から確立されている。「ファッション雑誌に書いてあるパンタロンの着こなし、なんてルールは、全部ポイ!しましヨ。太いは太い、細いは細い、オシリペチャンコ、オッパイプリプリ、全部ゴキゲン、ゼーンブあなたのミリョクチャン、です」
3号「この号に登場の人たちご紹介」 1969年当時の大橋歩さんと金子功さん。ピンクハウス設立は3年後、金子さんが大橋さんにピンクハウスのイラストを依頼することになる’79年の「one week one show」の個展は、10年後である
4号「レストラン〈カリカリ〉献立表」 この時代、既にダイエット特集が11頁にも渡り組まれているのは驚異的である。まさに、時代の最先端を走っている感じがする。カリカリ献立表は、朝食(142〜247i)を7種、夕食(446〜548i)を7種とりそろえてある。昼食は250〜300iの外食を、デザートに100iの果物とお菓子を紹介している。
NEW!
3号「新女性誌スタッフ募集」 新雑誌ananの編集スタッフ募集記事が平凡パンチ女性版の3、4号とも掲載された。この新女性誌編集スタッフ募集記事は、反響が大きかった。若い女性ばかりでなく、男性群にも興奮のウズがまきおこった。約5000人が応募してきた。応募した人のなかには、2003年現在、クリエーターとして活躍している有名人が多数いる。たとえばコピーライターの糸井重里さんも応募したと聞いているし、エッセイストの松山猛さん、ミュージシャンの近田春夫さんも応募した。募集職種はエディターから、ファッションディレクター、美容エディター、ホームエディター、料理エディター、イラストレーター、コピイライター、コラムニスト、グラフィックデザイナー、カメラマン、ファッションモデル、マンガ家などだが、お茶汲みなんかも職種に入っていて、当時はおおらかなものだった、という気がしてくる。 3号if’70 来年もし○○だったら?!」金子さんのイラストが雑誌に初登場した。
NEW!
4号「どのパンダちゃんがいちばんかわいい?」新女性誌アンアンのアイドルマークのパンダは、27匹のイラストの中から読者公募によって、右上の大橋歩さんの作品が選ばれた。当時、パンダは北京とモスクワとロンドンの動物園にしかおらず、日本では幻の動物だった。上野動物園にランランとカンカンがやって来たのは、2年後のことである。パンダを描いたイラストレーターは、大橋歩、川村都、水森亜土、中山千夏、東君平、長新太、園山俊二、秋竜山、山口はるみ、片山健、和歌山静子、馬場のぼる、赤瀬川原平、薮内正幸、原田治の15人。

参考資料
「雑誌づくりの決定的瞬間 堀内誠一の仕事」1998年9月 マガジンハウス発行


近田春夫さん、「平凡パンチ女性版」を語る。

新雑誌の現場に立ち会う

私は創刊当時のアンアンの編集室に、運よく出入りを許されていたことがある。それにはいきさつがあるのだが、今思えばそもそも堀内さんの仕事に魅せられたことが、その大きなきっかけとなっているのである。
アンアンが世に出る直前、臨時増刊の形で「平凡パンチ女性版」なるものが市場調査的に作られた。名前こそ平凡パンチだったが、それは全く別物の、何から何までかつて日本の出版物にはなかった新しさで埋め尽された雑誌だった。この「女性版」のアートディレクターが堀内さんだった。
高校3年生だった私に無論アートディレクターの存在も意味も判ろうハズはなかったが、雑誌そのものの持つ大きな美しさや、みなぎるスピード感には本当に衝撃を受けた。そこに「スタッフ急募」と書かれているのを見付け、矢も盾もたまらず、読んだ感想や略歴を書き込み、送ってしまった。何が何でも新雑誌(アンアン)の作られる現場に近付いてやろうと思ったのだ。後にも先にも自分を売り込んだのは、この1回限りである。それほどまでに「女性版」は、魅力的な画期的な雑誌だった。
何の音沙汰もないまま、アンアンは創刊され、あァやっぱりダメだったか、などと気持を切り替えようとしていた先に、アンアンから連絡があった。その時の喜びようはとても筆先に尽せぬものがある。私は天にものぼる気持で六本木の編集室へ駆けつけた。
・・・・・・後略・・・・・・

家庭画報1998年12月号より

近田春夫さんのプロフィール
1951(昭和26)年東京生まれ。ハルヲフォン、ビブラストーンなどいくつかのバンドを結成。ソロ活動、作詞作曲、プロデュースなど、幅広い音楽活動に取り組んでいる。

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