わんだふるはうす ゴールデンカップに行く

占領下のニッポン、ベトナム戦争、学生運動に象徴される反抗の時代、そして混血の文化。”全員ハーフ”で売り出した「ザ・ゴールデンカップス」は1966年12月、横浜・本牧のクラブ「ゴールデンカップ」で誕生した。当時の本牧は日本であって日本でなかった。第二次世界大戦後に造られたフェンスに囲まれた在日米軍キャンプ住宅地区があった。そのため本牧通り沿いにはアメリカ人向けの店が並び、独特のアメリカ文化が築かれていた。米軍の圧倒的支配下にあった本牧で、米兵相手にリズム&ブルースを歌っていた彼らの歌と演奏は、タフで強烈に激しかった。店内には、近所に住む19歳のロック好きのハーフのモデルがいた。名前は「ローズマリー・スタム」。2歳上の姉「インゲボルグ・スタム」は2年前にデザイナーと結婚して東京へ行ってしまった。

ワンダフルハウスは、IGを出ました。本牧通りの向こう側、小港交差点寄りに、華やかなネオンが見えます。
伝説の店「ゴールデンカップ」。2006年11月の姿です。
レストラン ゴールデンカップ。土日は不定期ですが、ジャズライブがあります。最新の営業時間は18:00〜5:00(火曜日のみ21:00〜5:00)。
店に入ります。
おっ! カラオケで盛り上がってますね(^O^)/ ワンダフルハウスは、入口の横にあるカウンターに座りました。ん? あの白黒の写真は?
左からエディ藩(G、VO)、ケネス伊東(G、VO)、デイヴ平尾(VO)、マモル・マヌー(DS、VO)、ルイズルイス加部(B)
’60年代後半、一世を風靡したGS(グループサウンズ)の人気グループ「ザ・ゴールデンカップス」です! 1966年、この店から日本のリズム&ブルースが始まりました。 
「ザ・ゴールデンカップス」の歴史は、11歳でハワイ・オアフ島から横浜にやってきた米国軍人の息子 ケネス伊東(愛称・ブッチ)から始まる。1961年当時、日本で唯一人フェンダーのギターを持っていたケネスは、16歳で日本におけるエレキギター編成の最初のバンドに参加。しかし、当時の日本人には、ポピュラー音楽に馴染みがなく、1年で解散。ビートルズの出現でポピュラー音楽が重視されてきた1964年、中国人と在日華僑のハーフであり、中華街の中華料理屋「鴻昌(2006年閉店)」の16歳の息子 藩広源は、プロでも買えないほど高かったフェンダーのギターを香港経由で手に入れ、ケネスと「ザ・ファナティックス」を結成。スパイダースがブレイクして、GSがブームになりつつあった1965年、本牧の外国人専門のクリーニング屋の息子であり、20歳の日大法学部の学生 平尾時宗が、ハワイ出身の米国軍人を叔父に持つ横浜鶴ヶ峰の16歳の武相高生・三枝守と共に「ザ・スフィンクス」を結成。そしてもう一つ、フランス系アメリカ人と日本人のハーフとして生まれた本牧の16歳の武相高生・加部正義(マー坊、マーちゃん)をリードギタリストとするバンド「ミッドナイト・エクスプレス・ブルースバンド」(ボーカルCHIBO、ギター陳信輝、ベース林恵文、ドラムス区伝栄)があった。この3つのバンドは、主にリズム&ブルースをレパートリーにするバンドで、パーティーや米軍キャンプ、イタリアンガーデンで演奏し、ライバル関係にあった。ビートルズ日本公演の興奮もさめやらぬ7月、リズム&ブルースに執りつかれた平尾は渡米し、藩も後を追うように渡米。ゼム、ヤードバーズ、タートルズ、テンプテーション、サム・クック、ジェリー・リー・ルイス、レスリー・ウェイトなど本場のライブを堪能しながらカリフォルニアと中西部で別々に旅を続けていた2人は、偶然サンフランシスコで出会う。11月に帰国した時、平尾はたくさんのレコードを、藩は当時の日本では知られていなかったファズボックスを手にしていた。平尾は、プロとしてやるためにメンバーを選定し、この5人で「平尾時宗とザ・グループ&アイ」を結成した。
GOLDEN CUPは、アメリカ軍人相手のクラブとして1964年12月7日にオープン。開店時から現在も現役のマスター上西さんが、専属バンドのオーディションで、平尾の声に惚れ込み、採用を即決。1966年12月3日、「平尾時宗とグループ&アイ」は、ゴールデンカップの専属バンドとして活動をスタートします。 〜♪(^O^)おや? この音楽は?
♪When a man loves a woman Can't keep his mind on nothing else He'll trade the world For the good thing he's found 〜♪ 本牧の重鎮を紹介いたします。こちらの御方は、ゴールデンカップのセカンドマスター中田さんでございます。GSがブームになる前からバンドをやっていた筋金入り。ワンダフルハウスのために、パーシー・スレッジの「男が女を愛する時」を演奏してくださいました 〜♪\(^O^)/Thanks!
ワンダフルハウスはグレープフルーツジュースを注文しました。 お通しの小魚とおでんが出てきました。
料理は洋食で、開店以来40年以上同じ味を守り、すべて手作りです。おっ、ピザがありますね。「ハンバーグピザをください!(^Q^)/」 果たして、ゴールデンカップのピザも四角いのでしょうか?
ピザが焼き上がるまで、店の中を見せてもらいましょう。 オリジナルのトレーナー(4200円)とTシャツ(3000円)がありました。カラーは白、赤、緑、紺の4色。サイズはS、M、L、XLの4サイズ。
右側には、ビデオプロジェクターがありますね。
反対側には、大人気のダーツマシン「D−1」があるコーナーが。大きなモニターと迫力あるサウンドで盛り上がります(^O^)/〜→ 「ワンダフルハウス君、ピザができたよ」  ゴールデンカップのピザは丸型でした。
こ…これは? ハンバーグがのってない(・Q・:)? 「中田さん、注文を間違えたんじゃないですか?」「まぁ、食べてごらんよ」 なんと!ハンバーグは中に入っていたのです!\)^Q^(/マイウ〜!
上段左から時坊、マモル
下段左からマー坊、ブッチ、コウちゃん
1966年12月3日、このメンバーで「平尾時宗とザ・グループ&アイ」は、ゴールデンカップのハウスバンドとしてスタート。演奏時間は毎日20:00〜23:00の3時間。40分プレイして20分休憩の3ステージ。ギャラは一人あたり月4万円。当時としては高かったが、遅刻・早退すると10分単位で罰金を引かれたので、かなり少ないメンバーもいた。当時はアメリカの新曲が日本に伝わるまでに半年ほどのタイムラグがあったが、彼らはベースから最新のレコードを仕入れ、耳だけで歌や楽器をマスターして演奏した。この時期、アメリカ軍は大量の兵隊をベトナム戦争に投入し始めた。兵隊たちの戦争休暇は2週間。アメリカは遠過ぎるということで、多数が横浜へ、ここ本牧へ流れて来た。ベトナム戦争へ向かうアメリカ兵は10代後半から20代前半。グループ&アイと同世代で若かった。「次はベトナムで死ぬかもしれない」「ベトナム人を殺さなければいけない」といった恐怖やストレスが渦巻いていたゴールデンカップやイタリアンガーデンの店内は荒れに荒れ、黒人兵と白人兵のケンカは毎日のように起きていた。銃や機関銃を持ってくることもあった米兵は、時には撃ち合ったりすることも。しかし、グループ&アイのメンバーには手を出さず、彼らは荒れる店内を尻目に、酒を飲み、煙草やボンドを吸い、女とチークを踊りながら、アンプの上に座りながら修羅場の中で平然と演奏を続けた。彼らも本物の不良だった。突然「海が見たいな〜(^O^)」などと言って、堂々とバックレるメンバーもいた。日本人は、地元の不良以外は怖がって店に入れず、店の外で野次馬として見てるだけだった。
1966年10月31日、TBSテレビで「ヤング720」(月〜土曜 7:20〜8:00)という若者番組が始まった。朝っぱらから「ヤングミュージック・コーナー」というGSが登場するコーナーがあった。放送開始から1ヶ月後、「平尾時宗とザ・グループ&アイ」が、ゴールデンカップのハウスバンドとしてスタートした、ちょうどその時だった。TBSの撮影スタッフが「ナポレオン党」を取材するために本牧にやって来た。
不良の歴史を振り返ると、必ず登場する、1965年頃から’70年代初めにかけて横浜を根城に、その名を轟かせた集団「ナポレオン党」。時代的には、カミナリ族と暴走族の中間に位置するが、いかなる意味でも”族”とは違った集団だった。不揃いな中の粒よりの良いものが「不良」であり、この時代の「不良」とは流行の最先端を行くもののこと、かっこいい者の代名詞だった。ファッション、音楽、ダンス、クルマ…その全てを先取りしたのがナポレオン党だった。遊ぶといっても何もない時代だったから、自分たちで探したり、作らなければならなかった。ロックやブルースのレコードを探し、ネイビー(米海軍)のコートを買うために横須賀のドブ板通りに行き、スウェードの靴をオーダーするために厚木へ行く…。完成して間もない富士スピードウェイの金網を破って忍び込み、予定通り30分間レースを楽しんだ後に逃亡。警察が駆けつけた時はもぬけの空だったというエピソードもある。
ナポレオン党と一緒に遊んでいた女の子の中には、後にタレントになるキャシー中島や、モデルとして世界で活躍する山口小夜子もいた。当時の彼女たちのファッションの基本はトラッド。フクゾーのタツノオトシゴの付いたシャツを着て…後に”ハマトラ”と呼ばれるスタイルを先取りしていた。しかし、スカート丈は膝上のミニだった。
ナポレオン党が出入りしていたゴールデンカップで、TBSの撮影クルーは、グループ&アイを”発掘”した。ナポレオン党のリーダー小金丸が、同じ年齢で友人同士だった平尾とTBSの縁を取り持ち、TBSのスタッフは、12月10日、ナポレオン党とグループ&アイをスタジオに連れて行く。グループ&アイの演奏が初めてテレビの電波に乗った瞬間だった。この日、共演したゲストは「ザ・スパイダース」とジェリー伊藤。グループ&アイの黒っぽい演奏にビビッたスパイダースは、直ちにメンバー全員でゴールデンカップを訪れ、ライブを見たムッシュかまやつは「俺達の時代は終わった」と呟いた。
左からマー坊、マモル、ブッチ、時坊、コウちゃん
スパイダースやタイガース、テンプターズなど制服(キャンティ、ベビードールの川添梶子がデザインしていた)を着た小綺麗なバンドを見慣れていた当時の若者にとって、「ヤング720」で見たグループ&アイの型破りのファッションと演奏は、あまりにも衝撃的だった。「横浜に兵隊相手のすごい洋楽バンドがいる」と口コミで話題になった。グループ&アイの名前と実力は、東京のレコード会社や芸能関係者にも伝わり、東芝レコードが契約。1967年6月シングル「いとしのジザベル」でデビューすることになる。この時に、レコード会社の意向でバンド名を「ゴールデンカップ」から借用して「ザ・ゴールデンカップス」に。レコード会社の戦略として”全員ハーフ”というキャッチフレーズで売り出すことになる。本物のハーフ 加部正義は父親の姓をとって「ルイズルイス加部」。三枝守は、叔父の米国軍人の姓をとって「マモル・マヌー」。ケネス伊藤は本物のハーフなのでそのまま。デヴィッド・ジャンセンに似てると言われた平尾時宗は「デイヴ平尾」。藩広源は洗礼名「エドワード」から取って「エディ…全員ハーフっぽい芸名をつけた。当時は、立川ユリ、立川マリなどハーフのモデルやタレント、歌手が人気者になっていて、戦後20年以上が経過して、それまでマイナス・イメージだった”ハーフ”は、かっこいい、お洒落なイメージに変わってきたのだ。ゴールデンカップスは当時流行していたGSの一つとして世間では捉えられるようになる。だがカップスは本牧スタイルを全く崩そうとしなかった。当時、新宿ACB(アシベ)や新宿ラ・セーヌなどのジャズ喫茶は、ナベプロ(渡辺プロダクション)の支配化にあり、制服での出演を義務づけられていた。にもかかわらず、カップスはバラバラの私服で出ようとした。「カップスといえども制服じゃなきゃ出さない」という店側に対して「じゃあ出ないです」。1週間後、店は「私服でかまわない」と折れた。そして上がったステージでは「いとしのジザベル」も、11月にリリースされたセカンドシングル「銀色のグラス」も日本語の歌はまったくやらなかった。洋服はメンバー同士で競い合っていた。ファッションだって音楽だって必死で、それこそ命かけるくらいのつもりで自己主張しなければ格好つかない街が本牧だった。東京は田舎者の街だったのだ。意外にも、レコード会社や事務所から日本語の曲をやれとか文句を言われることはなかった。ステージやアルバムでは洋楽に徹するという硬派な姿勢が洋楽のファンやバンドをやってる少年達のようなコアな音楽ファンを魅了し、当時は高かったLPがよく売れるバンドで、同じレコード会社のビートルズを抜いてチャート1位になったこともあった。
ビーフシチューをください!(^O^)/ ん? これは!?
ジュークボックスです!\(^O^)/ ’60年代の店内(右)にあったものとは違いますが、現役で活躍中。50円で2曲、100円で4曲聞けます。ディスコができるのはもっと後の’70年代の話。’60年代はジュークボックスの時代。喫茶店でもどこでも、ジュークボックスがあれば、コインを入れて好きな曲をかけて、たちまちダンスが始まったのです。
どんな曲が入ってるのでしょうか?(^O^)\ おっ! カップスの「長い髪の少女」と「愛する君に」があります!
ワンダフルハウスは、50円入れてボタンを押しました。 
♪〜長い髪の少女 孤独な瞳
後姿悲し 恋の終わり
どうぞ僕だけに 心をうち明けて
どうぞ聞かせてね 愛の物語

雨によごれた街で 貴女は一人
なくした恋なのに 影を探す
きっとあの人は 忘れたいのさ
甘い口づけと やさしい言葉

長い髪の少女 涙にぬれた
黄昏の中で 誰かを探す
つらい恋だから 貴女は祈る
つらい恋だから 愛の物語〜♪
1968年4月サードシングル「長い髪の少女」がリリースされる。東芝の担当者からカップスの曲の依頼を受けた作詞家の橋本淳は、本牧に下見に来て、日本であって日本でない雰囲気にショックを受けた。ゴールデンカップの店内で黒人の腕に抱かれて踊っている、道を踏み外したアブナイ女の子たちを見て、日本人の男として複雑な心境になった。この曲は、そんな不健全さや危なさを持った女の子の心の中を歌にしてみたくて作った歌だった。「長い髪の少女」は35万枚の大ヒットを記録し、ゴールデンカップスは全国的な人気GSとなる。またGSブームも絶頂期で300グループ近くが乱立。しかし、カップスにとって大ヒットもGSブームも関係なかった。ステージでは「長い髪の少女」をリクエストされても演奏しなかった。それだけではない。メンバーの遅刻、すっぽかし、行方不明は日常茶飯事。ステージでボンドを吸ったり、メンバー同士が演奏の途中で殴り合う、九州から羽田に向かう最終便の機内で、あるメンバーがシンナーを吸い始め…注意のアナウンスが流れたが…誰かが煙草に火を点けたらボッと燃え出した…などの”事件”も起こしていた。メンバー達には「芸能人だから」とか「有名になりたい」といった意識はまるでなかった。いつまでも横浜の不良少年そのものだった。
オレンジジュースでも飲みながらビーフシチューが出来上がるのを待ちましょう。 ここで、カップスの映画「ワンモアタイム」のDVDを紹介いたします。ミッキー吉野が写ってますね。1968年7月8日、ケネス伊東がビザの関係で一時帰国した代わりとして、16歳のミッキー吉野が加入しました。
ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム パーフェクト・エディション
(2005年 アルタミラ・ピクチャーズ 7140円)
椅子に座ってるのがマモル・マヌー。左からルイズルイス加部、ミッキー吉野(kbd)、デイヴ平尾、エディ藩。
1966年、フェンス越しのアメリカ”横浜・本牧”で誕生した日本で最初のR&Bバンド「ザ・ゴールデンカップス」の軌跡を、著名人によるインタビュー、当時の貴重な映像、そして解散から31年を経て実現した本牧での迫力ライブ映像で描く音楽ドキュメンタリー。ナポレオン党が当時の武勇伝を披露したり、北野武が「ゴールデンカップは憧れていたけど、雰囲気が怖くて入れなかった」と証言したり、メンバーの遅刻&すっぽかしが日常茶飯事だったと当時のマネージャーが嘆いたり、不良エピソードが満載。この映画は、バンドのドキュメンタリーとしては、日本初の作品であり、ザ・バンドの「ラストワルツ」に並ぶ傑作です。監督の「サン・マー・メン」は実在しない架空の人物で、アルタミラピクチャーズのスタッフが共同で演出しました。
「ワンモアタイム」に挿入された超貴重なVTRを紹介いたします。東京12チャンネル(現在のテレビ東京)で1968年5月5日から12月29日まで毎週日曜日に放送された30分の公開番組「R&B天国」で、カップスは9月からレギュラーバンドをつとめました。当時は、ビデオテープが大変高価で、前回放送分のテープに重ね録りしていたため、最終回の12月29日の放送分だけ奇跡的に残っていたのです。「ワンモアタイム」には、CREAMの「I'm so glad」だけ挿入されましたが、もう1曲BRENTON WOODの「Whole lotta woman」も演奏しています。 司会は尾藤イサオ。スポンサーは参天製薬。おっ! これは…(^O^)\ 何十人もの若者がスタジオでゴーゴーを踊っています! ’68年という時代の雰囲気が漂っていますね。その中に、芸能界にデビューする前のキャシー中島とピーターの姿が…
キャシー中島(16歳)。翌1969年、レナウンイエイエガールとしてCFデビューすることになります。 ”ピーター”こと池畑慎之介(16歳)。翌1969年ATG映画「薔薇の葬列」でデビュー。同年「夜と朝のあいだに」でレコードデビュー。日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞する前年の素人時代の貴重な映像です。
東京12チャンネルで1967年10月2日〜68年12月30日まで毎週月曜日に放送されたGS番組「ジャポップス・トップ10」。テレビ東京に1本だけ現存していたビデオテープが68年9月23日に放送された分で、運良くカップスが出演していたのでした。演奏曲は「愛する君に」。司会は郷田哲也と葉村エツ子。オックス、ヴィレッジ・シンガース、パープル・シャドウズなども出演しています。 「ワンモアタイム」映画化で実現した31年ぶりの再結成ライブ。2003年5月4日&6日、本牧のクラブMATRIXでのライブ。
2005年1月29日、ゴールデンカップ40周年記念イベントとして行なわれたデイヴ平尾のライブ。カップスのメンバー全員が集まりました。 カップスをリスペクトする100人以上のお客さんが、この狭い店内に押し寄せたのか…ワンダフルハウスが感慨に耽っているその時…「ワンダフルハウス君、ビーフシチューができたよ」
たっぷりと時間をかけて煮込んだ本格的なビーフシチュー(1300円)。美味です!(^Q^)

「中田さん、このチラシは?」「デイヴの廃盤になったレコードやアルバム未収録の曲を、熱狂的なファンが全ての曲の権利を買い取って、個人でCD化したんだよ」「凄〜!」
デイヴ平尾の「一人 コンプリート・ソロ・コレクション1972〜1987」。デイヴ平尾が’70〜’80年代に残した珠玉のソロ作品集。タイトル曲「一人」は大変貴重な音源です。「傷だらけの天使」の最終回「祭りの後にさすらいの日々を」で流れたファン感涙の挿入歌が、この平尾ヴォーカル・ヴァージョンなのです。「傷だらけの天使」のサウンドトラック盤に「一人」が収録されたことはありますが、それは井上堯之ヴォーカル版でした。
デイブ平尾は現在、六本木のライブハウス「ボールド」で毎晩8時から午前3時半まで歌っています。ただし、歌っているより飲んでる時間の方が長いです。
左からマモル・マヌー、ミッキー吉野、ケネス伊東、エディ、デイヴ平尾、ルイズルイス加部
中田さんが写真を見せてくれました。ミッキー吉野とケネス伊東が並んでいますね。1968年7月8日にハワイに戻ったケネス伊東は、10月21日に復帰して、カップスは6人編成になります。
1970年9月、アメリカ国籍のケネス伊東は兵役のためメンバーに何も告げずに突然グループを脱退。物資輸送船の乗組員としてベトナム戦争に参戦。1年後に日本に帰国。再びビザ問題が発生し、就労ビザを取るため奔走しますが、結局取ることができず、1971年9月25日、無念の思いでハワイに帰国します。この写真は、サインには2001・12・29の日付が…ケネス伊東のサインだけありません…彼は1997年にハワイで51歳の若さで他界しました。
その後、カップスはメンバーの脱退&新加入&復帰を繰り返す。GSブームも下火になり、解散を考えていた矢先の1970年10月30日、デイヴ平尾とミッキー吉野が大麻不法所持で逮捕される。ミッキー吉野は未成年(19歳)だったため、芸能活動ができなくなり、1971年、ボストンのバークレー音楽院に留学。この経験が後のゴダイゴへとつながっていく。デイヴ平尾は、単なるマリファナバンドで終わらせないため、あと1年続け、1971年12月「新宿ニューACB(アシベ)」でのステージで解散を宣言。年末からスタートした沖縄ツアーの最終日である1972年1月3日、演奏中に火災に遭い、楽器が丸焼けになるという劇的な幕切れでカップスは解散した。
「中田さん(61)は、立川マリさん(60)とユリさん(62)を知ってますか?」「その2人なら知ってるよ。俺は’70年頃からこの店にいるんだけど、その頃は彼女たち売れてたから店には来なかったねぇ」
1970年といえば、2人とも創刊されたばかりのアンアンでモデルとして活躍していた時期です。この写真は1970年、東京・青山にあったクラブ「ジャッド」で。この通路を通り、
真っ暗闇の階段を下りていくと、その先にガラスが真っ白く光って見えるステージがある、そんな感じのダンスクラブでした。マリさん(左・当時24歳 本名ローズマリー・スタム)はアフリカ風、ユリさん(右・当時26歳 本名インゲボルグ・スタム)はジプシー風の私服でキメています。
「ワンダフルハウス君、この本は持ってる?」「おおっ! この本は初めて見ました(^O^)\」
ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム 写真集+映画ブックレット(2000円) これは凄い! 全盛期のGOLDEN CUPの店内の写真です。ワンダフルハウスは、’60年代を熱く生きた若者たちの姿に感動しました。「この写真集をください!(^O^)/」
本牧ゴールデンカップのレギュラーバンドとして活躍したザ・ゴールデン・カップス。抜群の音楽センスで最新のR&Bを演奏する彼等は、瞬く間に世間の注目を浴び、店内は連日のように満員、入りきれない客が店先に膨れ上がった。この様子が1967年に発行されたアサヒグラフの巻頭特集「箱詰めの若い野生――ハマ・ビートの群れ」に掲載された。カメラマンの名は倉持承功。当時24歳。取材期間は1966年11月から4ヶ月間。カップスが初ステージを踏んだのが12月3日であり、奇跡的なタイミングで取材は行われた。今回、その写真の中から十数点が、この写真集に掲載され、38年の歳月を経て陽の目を見ることになった。
「彼女たちが”長い髪の少女”のモデルになったのか」 ワンダフルハウスは写真集を見ながら、GOLDEN CUPを出ました。 GOLDEN CUPの店先。左の2人はアメリカ兵っぽいですね。中央から右に、デイヴ平尾、エディ、マモル・マヌー。
1967年頃 2006年
1967年頃のゴールデンカップ。本牧通りの中央に線路が見えます。この頃はまだ市電が走っていました。ユリさんとマリさんも市電に乗ってサンモール学園や元町のジャーマンベーカリーへ移動していました。 2006年現在のゴールデンカップ。市電はとっくの昔(1972年)に廃止されました。次はリキシャルームに行って四角いピザをいただきましょう(^Q^)

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