わんだふるはうす 本牧通りを行く

IG

ベトナム戦争が激化する直前の1960年代初頭、米軍基地エリアを持つ横浜・本牧はアメリカ兵向けのクラブが建ち並び兵隊が街に溢れていた。戦争の狂乱とは裏腹に、サンモールインターナショナルスクール在学中にモデルデビューし、アメリカ文化を身近に感じながら育った立川ユリ・立川マリ姉妹は、中華街のジャーマンレストラン「ハンサ」、元町のパティスリー「ジャーマンベーカリー」、本牧のイタリアンレストラン「イタリアンガーデン」「リキシャルーム」、バー「べべ」で、店に流れるアメリカの最新の音楽や、先端のファッションに強い憧れを抱きながら、モデルとして徐々に売れていった。

イタリアンガーデンは、1997年に地上げによって撤去された後、マンションが建ち、本牧通りを挟んで真正面に、イタリアンガーデンのポリシーを継ぐ店としてIGができました。 おっ、ホットドッグもあるみたいですね/(^Q^) ワンダフルハウスはピザもホットドッグも両方いただくことにしました。
IGの2階は、ロックバー「Shuffle シャッフル」。左側の扉を開けて、細長い階段を上ると莫大なアナログレコードが…。シャッフルの以前の店名は「Bebe べべ」。「べべ」は、現在「ブギーカフェ」「ブラックマーケット」のオーナーであるCHIBO(チーボー)さんが経営していた店で、チーボーさんがやっていたバンド「べべス」は、店名に由来するものだそうです。店名は、ブリジッド・バルドーが好きだった立川マリさんが名付けました。CHIBOさんの元夫人・高橋咲さんの小説「本牧ドール」の舞台になったお店です。
店に入ります…「いらっしゃい!(^O^)」 おっ、いいキャラしたマスターが登場しました。やばい…アロハシャツが似合い過ぎ…「肌に馴染んでますね。ヴィンテージですか?」と聞いたら、「新品で買ってここまで(ヨレヨレに)なったの。ワンダフルハウス君が着てるスイカのアロハはカールヘルムなの? 俺もカールヘルムのアロハは20枚くらい持ってる。あそこはプリントシャツがいいよね」「キャンティ? バブル時代はよく行ったよ。ポワソンルージュ? (青山のフロムファーストにあったBIGIが経営していたフレンチレストラン・ル・ポワソンルージュですよ) ああ、あったねぇ。あそこもよく行った」と、のっけから金子系の話題に明るい、こちらの御方は、八木さんといって、’70〜80年代にかけて、ファッションやカフェバーなどの流行仕掛人でした。クレイジーケンバンドの横山剣さんがリスペクトしている本牧の3人の重鎮の中の1人です(他の2人はCHIBOさんとムーンアイズ社長の菅沼さん)。本牧で生まれ育ち、4〜5代位代わった(その中にはCHIBOさんも)イタリアンガーデン最後のオーナーで、店の名を残すために「IG」をオープンさせたのです。ワンダフルハウスが持ち込んだ雑誌(神奈川新聞社発行の季刊誌「横濱」2006年春号)を見て、「この剣さんの写真は、メリーさんとか撮ってる友達のカメラマン(森日出男さん)が撮ったんだよ」。
見た感じ、ただのバーですが、ここは本牧の情報発進基地なのです。
カウンターだけの細長いお店。昔のイタリアンガーデンとは随分違うな、と思いました。
ワンダフルハウスは、コーラ(500円)とホットドッグ(600円)を注文しました。
「扇風機の横に貼ってあるポスターは何ですか?」 「ああ、これね。一番右は俺のダチでmichiaki。今度ライブやるんだけど来ない?」
ミチアキさんの2004年1月24日のブログ「YOKOHAMA DEEP NIGHT TOUR!」に八木さんが登場しています。
「おっ、ミチアキさんはカップスの映画ワンモアタイムに出てたZokuZokuKazokuの人?」「そう。X JapanのPATAとかとRa:IN(ライン)ってバンドもやってる。その隣りはマーちゃん(加部正義)」「おおっ! ZokuZokuKazokuのリーダーであり、Ra:INの名付け親であり、本牧ドールに出てきたセイ坊のモデルになったマー坊…ゴールデンカップスの伝説のベーシスト ルイズルイス加部!\(^O^)/」「この人(左から2番目)は知ってる?」「ワンモアタイムのインタビューゲストに登場していた陳信輝(チェンシンキ)! 横浜を代表するギタリストでありながら、確か音楽シーンから見を引いていたはず…このメンバーは凄い!」「俺にもあの映画のインタビューゲストのオファーが来たんだけどね、俺なんか若過ぎるんじゃない?って断ったの」
陳信輝は、1960年代当時、日本で最新の音楽情報発信地であった横浜が生んだ日本ロック黎明期の伝説的ギタリスト。加部正義(G)、CHIBOこと竹村栄司(Vo、B)と3人によるバンド「ミッドナイト・エキスプレス」のドラマーとしてキャリアをスタート。加部が「ザ・ゴールデンカップス」の前身である「平尾時宗とグループ&アイ」に移籍したため、陳は途中でギタリストに転向し、バンド名も「ベベス」に変えている。このバンド名「べべス」はIGの2階にあるシャッフルの前身の店である「べべ」から取った。この店名「べべ」は客であり、当時の人気モデルであった立川マリが憧れていた女優ブリジッド・バルドーから取って名付けた。「べべ」のオーナーは何代か変わっていて、最後のオーナーがCHIBOこと竹村である。やがて、陳(G)、竹村(Vo)に、柳ジョージ(B)、野木信一(D)のメンバーが揃い、バンド名を「パワーハウス」に改め、1969年3月に「バック・イン・ザ・USSR」でデビューし、同年4月にアルバム「ブルースの新星〜パワーハウス登場」(写真のCDはワンダフルハウスの私物)を発表する。パワーハウス解散後、1970年4月には加部正義(B)、柳田ヒロ(Key)、つのだひろ(D)と4人で「フードブレイン」を結成。9月にアルバム「晩餐」を残し、間もなく解散。その後、1971年1月に柳ジョージ、加部正義などをゲストに、ソロアルバム「SINKI CHEN」を発表。同年、加部(B)とジョーイ・スミス(D)と「スピード・グルー&シンキ」を結成し、6月にアルバム「EVE 前夜」でデビュー。翌72年3月にセカンドアルバム「スピード・グルー&シンキ」を発表するが、間もなく解散。解散後しばらく「陳信輝グループ」としてセッション活動を続けたが、最近まで音楽シーンから離れていた。
この時、突然、背が高くて綺麗な女性がホットドッグを運んで来て、颯爽と去って行きました。
「おや? 今の女性は?(^‐^)\」「2階のシャッフルのママでジュンちゃん。IGでホットドッグの注文が入るとシャッフルで作ってもらって、逆にシャッフルでピザの注文が入ると、こっちで作って2階に運ぶの。ここは(厨房が)狭いからね」
「この額の中の絵は何ですか?」 「それは、サンキストレモンとサンキストオレンジの木箱に貼ってあったやつ。この絵をモチーフにしたTシャツを作ってたんだ」
八木さんは「アロハカフェ」を手がけた植竹さんの片腕として活躍していた人でした。1970年代の初めにアメリカから古いデニムの布をウェスとして仕入れて、パッチワークのつぎはぎジーンズを作って売ったら大ヒット。
そして、古着の仕入れのために行ったハワイや沖縄で身に付けたセンスはトロピカルブームを先取りし、日本初のカフェバー「アロハカフェ」を本牧にオープン。 1980年代に入ると、元町に「コパルーム」。
そして、本牧通り沿いに自分の店「ハビットハウス」をオープン。
イタリアンガーデンの最後のオーナーを経て、IGのオーナー兼マスターとして、火曜〜土曜まで店にいます。日曜はジミー、月曜は寅さんがマスターを務めています。あのアナログレコード盤の時計はカッコイイですね! 次は甘いものを…ここは酒飲みの店なのでデザートは少ないですね(^‐^:)
コーヒー(500円)とアップルパイ・ア・ラ・モード(600円)。このアップルパイは美味い! シナモンシュガーがかかった冷たいバニラアイスと、温めたアップルパイの組合せが絶妙でした(^Q^)
八木さんが昔のイタリアンガーデンの写真を見せてくれました。プロが撮影したものだそうで、撮影の際に、店の前にあるガードレールを撤去したほどの本格的な作品です。1990年代前半に撮られたものだと思います。左から、1984年に出版された「金子功のワンピース絵本」のロケ地となった「V.F.W(The Veterans of Foreign Wars)」。米軍の退役軍人クラブでしたが、1982年にベースが返還されて数年後の1980年代半ばから日本人も入店できるようになりました。真ん中がイタリアンガーデン。右はレストラン「VENICE」。ベニスも四角いピザを出していました。横山剣さんの話によると、ベニスの右隣りは「こうさいどう」という夜中の2時〜3時過ぎまでやってる瀬戸物屋さんで、瀬戸物屋なのに、なぜかスカジャンも売っていたそうです(^O^) それでは、クレイジーケンバンドの前身「ZAZOU」「CK'S」がライブをやっていた、この当時のイタリアンガーデンの店内、剣さん曰く”伝説の地下室”にご案内いたします。そして、その場所こそ、時を遡ること30年以上前に金子さんとユリさんが初めてデートした場所でもあるのです。
続く

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