わんだふるはうす リキシャルームに行く

1965年夏。横浜・本牧の実家に住んでいたハーフのモデルで19歳の立川ユリ(インゲボルグ・スタム)は、5月初旬にファッション・デザイナー金子功の下北沢のアパートに引っ越してしまった。ボロだけど本牧の米軍ハウスみたいなカッコいいアパートで、正式の結婚式は秋にする予定になっている。妹の立川マリ(ローズマリー・スタム)は18歳で、森英恵のアメリカでのショーに出演するほどの売れっ子だが、相変わらず本牧に住んでいる。在日韓国人の婚約者がいて、来春には結婚式をあげるつもりだ。モデルができなくなった日のことを考えて、若者のためのレストランを経営したいという夢も設計していた。1965年夏のリキシャルーム。そこに19歳のインゲと17歳のローズィーがいた。

リキシャルームは2009年7月現在閉店しています
ワンダフルハウスは、ゴールデンカップを出ました。本牧通りの向こう側の、明かりが点いてるビルを御覧下さい。 左端のビル…あそこに伝説のディスコ「リンディ」がありました! 右端がIGです。
YOKOHAMA LOVERS
2007年
LINDY
1977年
ファッション・ディスコ「リンディ」は懐かしいですね(^-^)\ 店内には1943年型のシトロエンが置かれ、運転席がDJブースになっていました。松田優作の映画「ヨコハマBJブルース」(1981年)で店内を見ることができます。
1970年代になると、ディスコサウンドがヒットチャートの常連になり、1973年にリンディがオープンすると、ゴールデンカップから客が流れ始め、1977年、ジョン・トラボルタ主演映画「サタデー・ナイト・フィーバー」の大ヒットでディスコブームは最高潮に達しました。フリチャチャ(東京ではハマチャチャと呼ばれた)というステップが流行り、リンディはその本場でしたが、ディスコブームの衰退と共に、’80年代後半に閉店しました。
2007年現在、1FはYOKOHAMA LOVERSというクラブ、B1Fはカラオケ屋になっています。
本牧町二丁目
本牧通りを小港方面に向かいます。
小港
小港の交差点に到着。左に山手警察署、右にジョナサン…  そして前方に、シゲ菅沼さんのお店「ムーンアイズ エリア1」が見えました!(^O^)\
山手警察署
2007年
1977年
ここから先は、戦後すぐに米軍に接収されて、1982年に返還されるまで、“フェンスの向こうのアメリカ”でした。山手警察署の隣の広大な空地は、その名残りでしたが、2008年に巨大なイトーヨーカドー本牧店がオープンして、この景色は失われました。
交差点を左に曲がると… リキシャルームのブルーのネオンが見えました。その先にアロハカフェの派手なネオンも見えています。
Ricksha Room
2006年
(2009年現在は閉店しています)
リキシャルームのあった場所には、新しいマンションが建っていて、新しいリキシャルームは、マンションの半地下の部分に入っていたのです。
Ricksha Room
1977年
金子功のワンピース絵本
1984年
リキシャルームを開いたのは、ジョージア州出身のイタリア系アメリカ人ハリー・コーベットさん。船乗りでした。ハリーさんは日本で恋に落ち、そして結婚。陸(おか)に上がり、1958(昭和33)年に仲間とレストランを本牧に作ります。それが、イタリアンガーデンでした。そして3年後の1961年にはリキシャルームもオープンさせます。イタリアンガーデンとリキシャルームには美空ひばり一家、力道山、勝新太郎、石原裕次郎など昭和の遊び人たちも訪れていました。三島由紀夫や石原慎太郎は、まずイタリアンガーデンに行き、血の気の多い若い米兵たちの乱痴気騒ぎに恐れをなして、リキシャルームに逃げてきたそうです。
リキシャルームの新店舗は、2003年に新しく建ったマンションの半地下に等価交換方式で再オープン。2006年8月31日にママが引退したために一旦閉店しましたが、3ヶ月間の休業の後、12月7日に娘さんが手伝う形で再オープンしました。しかし、2009年7月現在は再び閉店してしまったようです。
ピザとハンバーグステーキとBBQスペアリブと仔牛のカツレツ…全部いただきましょう(^Q^)
ワンダフルハウスは学生時代に来て以来(1981年頃)、四半世紀ぶりにリキシャルームの扉を開けました。
こんばんは!…おおっ!昔ほどではないが相変わらず暗いですね…
ブルーのバーカウンターは健在です!\(^○^)/
カウンターの中にママの飯田かよ子さんがいました。 飯田かよ子さんと左の人がダンナさんのハリー・コーベットさんです。
イタリアンガーデン
1960年代初頭
リキシャルーム
1961年
アーリー’60のVFWとイタリアンガーデン。道を歩いている女性は立川姉妹の可能性もあります。真ん中の黒っぽい平屋の建物は、この頃できたクラブ・イタリアン・ガーデンズの入口で、店は左端のVFWの地下にありました。右のレストランの方は後にベニスになります。 オープン当初のリキシャルーム。店頭に置かれた人力車は店の宣伝用に台湾から輸入したもの。話題をさらいましが、道交法違反でわずか数ヶ月で撤去されたそうです。
ワンダフルハウスと同世代のバーテンの奈須野さんが、グレープフルーツジュース(500円)と一緒に古いブルータスを持ってきてくれました。
おーっ!昔のリキシャルームをバックに柳ジョージとデイブ平尾が並んで立っています!
奈須野さんは、このブルータス1984年7月15日号「幻のヨコハマ」特集で本牧のことを知り、いつか住んでみたいという夢を2004年に実現。脱サラして宮城県から引っ越してきたそうです。
お客さんがピアノを弾き始めました。 ん? 向こうのテーブルでアロハシャツを着てるアメリカ人と談笑しているハーフの美人姉妹は?
リキシャルームの娘、エブリンさんとメリーさんです!
左 エブリンさん(妹)
右 メリーさん(姉)
2007年10月
左 立川マリ(妹)
右 立川ユリ(姉)
1965年夏
似ているっ!…ローズィーとインゲに!
1965年夏、ローズィーもインゲも金子さんもこのピザを食べていました。本牧名物の四角くて薄いピザをつまみながら、あの頃の3人のことでも語ってみましょう…
これはチーズ&トマトのプレーンピザ(1200円)に、2種類のトッピング(+350円)を乗せたものです。マッシュルームとサラミですね。

立川ユリ
インゲボルグ・スタム
愛称 インゲ
19歳

立川マリ
ローズマリー・スタム
愛称 ローズィー
18歳
「1945年、私は横浜の本牧にある母の家で生まれました。父はドイツ人で、軍の仕事でニッポンへ来て、戦争のさなかに年上の母と熱い恋愛結婚をしたのです。
戦争が終わると、父と母は、まだ1つの私を抱いて西ドイツに渡りました。
ババリア地方に住む家を構えて、父は外人相手のPXの仕事をするようになりましたけれど、私は幼い時から家の中では英語でばかりお話をしていました。
母は横浜のサン・モールという外人学校で勉強したため、日本人離れのした素晴らしい英語をしゃべれるのです」
「あれはもう4年前だから、私が14で彼は19。紺のセーラー服が制服のサン・モール中等部にいる頃、私は彼とお友達になりました。
横浜でもうちの近くの本牧町は外人の多いところで、おつきあいをするお友達も、ほとんどは外人でした。
彼の父も母も、もう40年も昔に韓国から日本へ来ている家族です。父の方は亡くなりましたが、慶応病院の外科のお医者をしている兄さんをはじめ、男ばかり5人兄弟。その4番目が彼で、横浜に生まれ、ここの中学を出て、日大の藤沢高校を終わると、桑沢デザイン研究所に入っていました」
昔懐かしいスパゲッティー・ミートソース(1100円)です。ソースが別添えというのが高級感を感じさせますね。美空ひばりさん一家も食べていたことを考えると、感慨深いものがあります。
「妹のマリも生まれ、私たち4人は初めは仲良く暮らしていたのですけれど、そのうちに父と母が、どうしたのか、いつもケンカばかりするようになってしまいました。
でも、いくら生活は困らなくとも、父と母が仲の良くない毎日を過ごすようになって、とうとう別れることにまで進みました。それは、言葉では言えないほど寂しいことでした。
8年間ドイツで過ごしましたけれど、私が9つ、マリが8つの時、母は二人の女の子を連れて、父と別れて、日本へ帰ってきてしまったのです。
それから、母が出たサン・モールへ入学して、英語、フランス語、ラテン語などを学びました。小学校も中学校も英語ばかりでした」
「はじめは、多くのお友達の中の一人でしかなかったし、いつもグループのおつきあいだったのに、いつのまにか、二人でこっそり伊勢佐木町の映画館に入ってしまいました。彼に言わせると、その頃の私は、セーラー服のとてもかわいい女学生だったそうです。
映画館を出ると、二人でお茶を飲んだりしました。父のいない私は、どこかシッカリしたお兄さんみたいな彼といるのが、恥ずかしいような、頼もしいような、ヘンな気持ちでした。私たちは毎日会わないではいられなくなって、東京の学校から帰る彼を元町で待っていたり、彼がサン・モールの門のそばに立っていてくれたりしました。
私たちの幼い“恋”は、だんだんふくれあがっていて、1日も顔を見ないではいられなくなっていたのです」
BBQスペアリブ(1800円)。これは力道山が好みそうなメニューですね。開店当時は日本では珍しかったスペアリブをボリュームたっぷりにして出して、アメリカのバーを再現したのです。
「母は私たちの暮らしのために、東京の丸の内にあるエバレット汽船会社の秘書になって働き始めたのです。
日本で暮らしていても、私は外人のお友達ばかりで、お互いに行ったり来たりして遊んでいるうちに、すごくオシャレが好きになってしまいました。歌も大好きになりました。こんなことがファッションモデルになる“もと”になったのでしょう。
初めてモデルになったのは16の時ですけれど、うちの近くにいたモデルクラブの人から勧められたので、私は喜んで飛びついてしまいました。でも、そのクラブはお金のことでうまく約束ができないので3ヶ月で辞めてしまい、別のクラブに入りました」
「私は15になると、ファッションモデルクラブに誘われてモデルになりました。思いがけなく忙しくなって、うれしい悲鳴を上げ始めた私は、サンモールも辞めてしまいました。
彼も桑沢を辞めてPR雑誌の企画や編集の仕事をするようになって忙しくなりましたけれど、上手に誘い合って、デートの時間だけは作るように心がけました」
アイスクリームとコーヒーが運ばれてきた時…ピアノの弾き手がアロハシャツのアメリカ人に代わりました。
「彼(金子功さん)と初めて会ったのは1961年です。初めのクラブでお仕事をしていた頃です。女性週刊誌のために、冬のクリスマスパーティーのドレスを着て写真を撮る時でした。彼は、ようやくデザイナーとしてデビューしたばかりでした。二人はモデルの卵、デザイナーの卵だったのです。
その時、私はそんなに強い印象は受けなかったのですけど、彼は私の長い髪を見つめて、「君は(15なのに)25くらいの女に見えるね」と言いました。ショックでした。そしてそれきり、しばらく会うこともなかったのに、彼がいろいろなデザインの洋服を雑誌に発表しているのを見たり、仕事で彼の作った洋服を着ているうちに、彼の洋服がとても好きになり、自分の着る洋服も彼に作ってもらいたくて、たまらなくなりました」
「私の方は撮影だの仮縫いだので東京に出ていても、お仕事が終わると急いで横浜へ飛んで帰りました。
横浜での彼とのデートが私には大切だったからです。仕事が忙しい二人にとっての楽しみは休日のドライブです。彼が月賦で買った中古のトライアンフでハイウェイをすっ飛ばしたり、観音崎へ泳ぎに行ったりしました」
アロハシャツの似合うアメリカ人は学校の先生だそうです(サン・モールかもしれませんね)。オズの魔法使いのテーマソング「虹の彼方に」を弾いてくださいました。
「去年(1964年)の7月でした。彼の勤めるアドセンターでは、ある会社とタイアップの仕事を進めていたし、妹がちょうどそのモデルをしていましたから、これ幸いとマリに頼んで、彼に洋服を作ってもらうことにしました。袖無し、衿無しの、ピンタックのある白いブラウスと、ピンクのスカートができると、ピッタリなので、私は嬉しくてならなかったのです。次々と彼に洋服を頼み、服ばかりでなく、下着や靴までも彼のデザインにまかせるようになっていきました。モデルで働いたお金は、ほとんど私はオシャレに使ってしまいます。こんな素晴らしいことはないと思うのです。彼も私が美しくなることを、とても喜んでくれるようになり、しょっちゅう会っていました」 「お互いのうちも近かったので、招いたり、招かれたりするようになっていて、家族もみんな二人の仲を知っていました。彼はさっぱりしていてスマートだし、それにお仕事には誠実で、私にはなくてはならない人になっていました。あまりに若すぎるかもしれないけれど、私たちは、いつの間にか結婚を意識するようになっていて、早く私は18歳になるといいなあ…と、その日を待ち遠しく思いました」
次の曲は…おお!1964年12月12日付ビルボード全米チャート1位を獲得したボビー・ヴィントンの代表曲「Mr. Lonely」です!
「土曜の夜、私は妹と、横浜のうちの近くのイタリアンガーデンという外人客の多いレストランバーへ遊びに行くことが多かったので、今年(1965年)の4月、彼を誘ってみました。もう結婚の約束をした人を持っている妹に刺激されたみたいに、黒のドレッシーなスーツでやって来た彼と、私は初めて踊りました。スローバラード風な音楽や、「ミスター・ロンリー」などの曲が大好きな私。とても楽しいウキウキする夜でした」 「母も私たちが仲のいいのを認めてくれて、『マリが18になったら結婚していいわよ』と言っていたからです。その日のことを考えて、私は毎月貯金をするし、洋服も姉のユリがいらなくなったり、あきてしまったものをもらって、なるべく無駄なお金は使わないように覚悟していました。結婚資金ばかりではなく、モデルのできなくなった日のことも考えて、若い人たちのためのレストランを経営するような夢も設計している私でした」
オレンジジュースとコーラ。ピザにハンバーグに仔牛のカツレツ…全て1965年にイタリアンガーデンで出していた料理と同じです。
「それから2週間ほどして、また一緒に行きたくなって電話をしました。
『今日も行くけど、後から来る?』
『うん、行く。先に行っててよ』
そうしてイタリアンガーデンで待っていると、彼は綿のスラックスにチェックのシャツという軽い服装でやってきてくれたのです。コーラを飲んでバンドに合わせて踊っている時、急に彼は愛を打ち明けました。
私はもうすっかり好きになっていましたから、素直にうなずきました。やさしく、何でもいうことを聞いてくれる彼。好きな服を作ってくれる彼。山口県生まれで、7人兄弟の末っ子で、高校を出るとデザイナーになりたくて東京へ来たという彼。どこか頼もしい彼。そういう彼も、私を美しく飾るために、次々と洋服を作っているうちに、いつの間にか私を愛してくれるようになってしまったらしいのです」
「去年のクリスマスに、彼は月給3万円そこそこなのに、私にダイヤの指輪をプレゼントしてくれました。すごく高いダイヤを、知っている宝石商に8万円におまけしてもらい、それも月賦だという涙ぐましいほどの愛のプレゼントなのです。本当はクリスマスの日にプレゼントしてもらうことになっていたのですが、私は待ちきれなくなくなって、23日に彼がダイヤの指輪を買ってきた日に、おねだりしていただいてしまいました」
左 立川マリ(妹)
右 立川ユリ(姉)
1965年5月頃
左 金子功
右 立川ユリ
1965年夏
下北沢に引っ越して来た頃のユリさん。この時は髪は長いですが… 夏にはショートカットになっています。結婚する直前の2人。下北沢のアパートで。
「私は彼の下北沢のアパートまでおしかけていって、洋服を作ってもらいながら遊んでくるようになりました。古い時計、クラシックな椅子、ステレオとレコードの棚。この居間が大好きになりました。4月末のある日、仮縫いが終わって、ソファーにかけてコーラを飲んでいると、
『ユリ、一緒に暮らそう』
彼は静かにプロポーズしたのです。私は待っていたように答えました。
『うん、早く結婚しましょう』
そして、彼のやさしいベーゼが私をバラ色の世界に連れていってくれたのです。彼の胸に顔をうずめて、私はうれしさと悲しさが混じり合った気持ちで、心をふるわせました。
『もう、この人と離れられない。結婚して一生楽しく生きていくんだわ』と心の中でつぶやき、女としての幸せをかみしめたのでした」
「今年の1月、私は森英恵さんのアメリカでのショーに出るため、日本を離れました。ニューヨーク、サンフランシスコと旅をしましたが、彼のことばかり思い出していて、会えない2週間がこんなに長く、こんなにつらいのか…と、私はしみじみした寂しさを味わいました。
この寂しさは、私が本当に彼を愛しているからなのだということを自分自身に言い聞かせて我慢しました。けれど、お仕事も終わって、ハワイで最後の日を過ごし、日本へ帰る時になって、私はとうとう我慢できなくなってしまい、彼の会社へ長距離電話をかけました。
「今日帰るから迎えに来てね!」
あまり長くしゃべると料金がすごく高くなるから、お互いに再会を楽しみにして、あわてて受話器を置きました。その時の彼の声の懐かしさ、うれしさは忘れられません」
デラックスピザ(1550円)。ピーマン、オニオン、ベーコンが乗った、いわゆるミックスピザです。
「彼のプロポーズを母に話しましたが、
『二人が好きなら結婚しなさい』
きっぱりとした理解を示してくれたので、5月の初めに、私は待ちきれずに、自分の洋服とレコードだけを持って、彼の部屋に引っ越してしまったのです。思い立ったら、もう我慢のできない私なのです」
「私は彼のために、前にホンコンでローレックスの時計を買ったことがありますけれど、今度はシャツなど着るものをいくつかオミヤゲにしました。
『君はホントに日本的だよ。日本の昔の女の人みたいなところがあるよ。ヘンな外人だね』
彼はそう言ってくれます」
イタリアンガーデンとリキシャルーム伝統の四角くて薄いピザ。何故四角いのかは諸説あります。1958(昭和33)年イタリアンガーデン開店当時のイタリア人料理人が元潜水艦乗りで、艦内で作っていたピザが四角形だったから(丸型より四角い方が潜水艦の厨房という極端に狭いスペースでは沢山並べられる)。開店当時のオーブン型が四角かったからなど。いずれにしても、このピザは、まだ日本にイタリア料理の萌芽さえなかった時代に現われた、国内で最古のピザの一つです。
オリジナルミートソースピザ(1400円)。
時間をかけてじっくり煮込んだリキシャ自慢のミートソースがチーズとからみあっています。
ハンバーグステーキ(1600円)。ハンバーグがでかい!アメリカンサイズです。
「正式の結婚式は秋にしたいと思っていますけれど、私はモデルは続けるつもりです。彼も自由にしていい、と言ってくれますから。
今の毎日の暮らしは、どっちかお金を持っている方が出すようなやり方です。私は窮屈なことが嫌いなので、これでいいと思うのです。
でも、まだ赤ちゃんが欲しいとは思いません。彼もしばらくは子供のことなど考えないことにしています。
『ヌカミソ臭くならないでくれよ』
『ならないわ。絶対に…』」
「来年の春には結婚式をあげたいと二人で相談していますけれど、ひょっとしたら秋までのびてしまうかもしれません。なぜなら、私たちは無理をしたくないからです」
仔牛のカツレツ(1800円)。キャンティの「仔牛のカツレツ ミラノ風」に匹敵するお味が3分の1以下の値段で味わえます。
「私は私のためにも、彼のためにも、いつまでも若く、美しく、オシャレを楽しもうと、ひそかに心を決めています。それが私の生きていく義務みたい‥。
彼は今、結婚式の時に私が着るウエディングドレスをデザインしてくれています。彼の作ったウエディングドレスを着る日も、もうじきです」
「彼は結婚したら、私にモデルを辞めさせて、家庭の人にしたいらしいのですけれど、私はしばらくは続けたいと思っています。
でも、私も早く赤ちゃんが欲しいし、彼も強く望んでいるから、モデルの方はどうなってしまうか、その時にならなければわかりません」
柔らかくてジューシー!衣もサクサクで美味です!(^Q^)
続く

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