わんだふるはうす 本牧通りを行く

1950年代(フィフティーズ)後半、あるいはカレンダーはもう’60年代(シックスティーズ)に入っていたかもしれないある日、仮縫いをしながら、ファッションデザイナー・金子功が、モデル・立川ユリに聞いた。「いつも、どこで遊んでるの?」「イタリアン・ガーデン。今度来ない?」
…イタリアンガーデン…懐かしい。ワンダフルハウスが初めてイタリアンガーデンに行ったのは1981年、18歳の時。あの頃の横浜は「柳ジョージ&レイニーウッド」と「プロハンター」と「ヨコハマBJブルース」の時代だった。
かつて
本牧通り沿いにあった「イタリアンガーデン」。戦後、米軍によって接収された本牧は、アメリカの影響を受け、ベトナム戦争で賑わった1960年代は音楽もファッションも最先端の町でした。学生時代の4年間を横浜市内で過ごしたワンダフルハウスが本牧をご案内いたします。


小人(こびと)

横浜の港に、日本のおばあちゃんや親類の人たちがいっぱい迎えに来ていた。ユリとマリは小声でささやき合った。
「ね、この人たちどうしたんだろうね。大人なのに、小っちゃくて……小人かもしれないね。でもあたしたちのおばあちゃんだよ」
――どうしてか知らないけれど、パパとママはいつも喧嘩をしていた。ママはユリとマリを連れて日本へ帰ってくることになったのだ。
汽車で、アルプスを越えてイタリアのジェノバまで。そこから船に乗った。パパはジェノバまで送ってきた。汽笛が鳴ると、マリがわァわァ泣いた。岸壁に残ったパパも、泣いてるようだった。
ユリに残った思い出は――雪の朝、暗いうちに起きて、窓から外に出て、ドアの外に積もった雪を掘ってくれたパパ。
それから、”小人の国”に来たユリとマリ。
「日本のお家は靴を脱いではいるのね。ドアが紙でできてる!」
障子、ふすま、珍しいものばかり。よく、この紙のドアに穴をあけて、おばあちゃんに叱られた。


制服

横浜のサン・モール学園。ユリは2年生に、マリは1年生に通い始めた。
学校はあまり好きではなかった。グレーの制服を着なければならないし、髪にリボンをつけると叱られるから……。サン・モールにいたのは16歳、”9年生”のときまで。
大きくなるにつれて、おしゃれな少女に育っていったユリ。ときどきマスカラをつけて学校へ行った。逆毛をいっぱい立てて、ふくらんだ頭にして行ったら、
「いますぐお手洗いに行って、ちゃんとペシャンコにしてらっしゃいッ!!」
と叱られた。それでも、次の週にはまた逆毛を立てて行く。先生に見つかるまでの、ほんのわずかの時間でも、ふわっとした髪にしていたい。
家に帰ると、大急ぎで制服を脱ぎ捨てる。フーセンみたいに広がったスカートが流行(はや)っていて、それが大好きだった。お気に入りの服に着かえると、ユリはやっと自分がほんとうのユリになったような気がするのだ。


べラ

優等生は胸に花の形のバッジをつけるのだった。ユリは、そんなバッジをもらったことがない。数学がきらいで、あんまりわからないので、先生の隣に座らされたことはあるけれども……。
いつもバッジをつけていたのは2クラスほど上にいた入江美樹さん。勉強ができたって尊敬はしない。でも、ユリは彼女を尊敬していた。もちろん、”モデル”だからだ。ときどき、べラは学校を休む。
「あの人、お仕事なのね……」
うらやましいと思った。息がつまるくらい、うらやましかった。


仕事

学校から帰ると、おしゃれして元町のジャーマンベーカリーへ行って、アイスクリーム食べて。そんなユリに、ある日近所に住んでいたおばさんから、思いがけない話が――。
「わたしのところへきて、やってみない?」
その人は、ファッション・モデルのクラブの人だった。
ユリの初仕事は「週刊女性」。ギャラをもらってとても嬉しかった。たしか1,500円で、税金を引くから1,350円。
初めてのファッション・ショーはとてもこわかった。デパートの、小さなショーだったのだが、朝から心配で何も食べられない。時間が迫るとドキドキして「急に中止になればいいのに」と思った。
とうとうユリの番がきてしまった。ステージに出ると、客席にいるママとマリが見えた。それでやっと安心して、ちゃんと優雅に歩くことができた。小さいとき、クルムバックで見たショーのモデルより、もっと優雅に。


洋服

いろいろなデザイナーとも知り合いになった。ユリは自分の服をコシノさんに作ってもらっていた。マリは金子さんという若い男のデザイナーに。
「金子さんの方が安いわねェ」
洋服が1枚でもたくさんほしかったから、ユリも金子さんにした。
彼はそのころ、ユリとマリの姉妹を、「いいモデルだな」と思っていたそうだ。


イタリアン・ガーデン

ある日、仮縫いをしながら、金子さんがきいた。
――いつも、どこで遊んでるの?
「イタリアン・ガーデン。こんどこない?」
次の土曜日、彼が友だちといっしょにやってきた。なぜかユリはつまらなかった。金子さんがひとりで遊びに来ればいいのに、と思った。
次のときも、金子さんは友だちと来た。そして3回めのとき――縫いあがった洋服を届けにきた彼は、ひとりだった。
次の週から、ユリは金子さんといっしょに暮らすようになった。 「立川ユリ物語」より

孤独な青年がいた。デザイナーの、まだ卵だった。山口県の家をあとに大都会東京に来て、絵の学校(セツモードセミナー)と文化服装学院(エコール・ド・クチュール)に通ったが、恋人はいなかった。ココ・シャネルに恋していたし、いつか自分が有名デザイナー(グラン・クチュリエ)になるという途方もない夢を描いていた。
孤独な少女がいた。透きとおる白い肌と不思議な瞳の色が、横浜に住んでいてさえも一際異国的で、心を開き合える相手はいなかった。この美しい少女はモデルだった。まだ雛だったけれど、もっと有名に、もっと美しくなりたいと熱望していた。
Boy meets girl物語の発端は、週刊誌の小さなファッションページの撮影だった。お互い別の雑誌で名前は見たことがある。卵と雛では、それほど華やかなページをあたえられるわけでもないが、以来何回か顔を合わせる機会があった。――ある日、少女が言う。
ね、洋服つくってくれない?(きっとコシノさんより安く縫ってくれるだろう。ELLEに出てたような可愛い服、いっぱい!)
うん、いいよ。(え、俺に注文してくれるの!? もちろん喜んで、とびきりのオリジナルデザイン。生地は下北沢で買おう。が、待てよ、財布はほとんど空っぽだ。しかしこの素敵なチャンスを逃せるか。友達に借金しても質屋に行ってでも、いちばんいい生地買わなくちゃ。)
立川ユリ。ほんもののモデル。だがそれ以上に彼女は、青年の魂を揺り動かす魅力を持っていた。彼女をイメージしながらデザインを考えると、次から次にVOGUEでもSeventeenでも見たことがないほどチャーミングな服が創れるのだった。
金子功サン。静かな男(ヒト)ね。少しおとなしすぎる。デートに誘ってくれればいいのに。――初めての服が出来上がった日に、金子サンと初めてふたりきりで会った。(わッ、ELLEより可愛い服だ!)
袖ぐりが小さくて腕が細ぉく見えるとてもスマートな、プリントのワンピース。仕事に着て行った。装苑の編集の女性やほかのモデルたちが「それどこの? ね、教えて、教えて」と騒いだ。 「金子功のプリント絵本」より
始めて知ったヨコハマは’50年代(フィフティーズ)で、ユリがいて、基地(キャンプ)があったりNY(ニューヨーク)風のバーがあったりした。ジュークボックスがブレンダ・リーやコニー・フランシスの歌を流した。ジャーマン・ベーカリーやイタリアン・ガーデンで待ち合わせるデートが最高のおしゃれ。 「金子功のブラウス絵本」より
国道16号線。左に桜木町駅が見えます。前方の首都高横羽線と、JR根岸線の陸橋左側に「みなとみらい21」が姿を現します。 よこはまコスモワールドの大観覧車「コスモクロック21」が見えました!\(^O^)/
おおっ! 綺麗です!(^O^)\ まるで花火です!\(^○^)/ 15分ごとに点灯されるイルミネーションで、花火のように輝くコスモクロック21。ベースの色は季節によって変化していて、春はグリーンイエロー、夏はブルー、秋はゴールド、冬はピンクレッドになります。
馬車道
右に見えます高層マンションは、2001年にできた「横浜シティタワー馬車道」。1980〜90年代は「丸井横浜関内店 馬車道館」があった場所です。カールヘルムのショップも入っていて、なじみの店員もいたので、ワンダフルハウスもよく通いました。
市庁舎前
このまま直進して、R16から尾上町通りに入り、突き当たると、右手に横浜市役所、目の前に「横浜スタジアム」が。ここを右折して日本大通りに入ります。 横浜スタジアムのある横浜公園から横浜港を結ぶ「日本大通り」。横浜港が開港 されたとき、通りを挟んで外国人居留地と日本人街に分けられたことから、名付けられました。 明治12年に設計された日本初の西洋式街路、贅沢に広い道の両側にはオープンカフェやギャラリー、横浜開港資料館などの歴史的建造物が建ち並んでいます。前方の関内駅南口交差点を左折して…
横浜スタジアム前
横浜スタジアム沿いに直進します。 左折すると「横浜赤レンガ倉庫」。本牧は真っ直ぐ。
中華街西門
左手に「中華街(公式ぐるなび)」の西門が見えました(^Q^) ここからが”本当の横浜”です。
西の橋
首都高速湾岸線の下をくぐります。左折すると山下公園
元町
元町交差点。前方に山手トンネルが見えてきました。左手には、ハマトラ発祥の地「元町ショッピングストリート」があります。
『学校から帰ると、おしゃれして元町のジャーマンベーカリーへ行って、アイスクリーム食べて。そんなユリに、ある日近所に住んでいたおばさんから、思いがけない話が…。「わたしのところへきて、やってみない?」 その人は、ファッション・モデルのクラブの人だった。』(立川ユリ物語より)
この門をくぐって、少し歩いて右側にあったパティスリー「ジャーマンベーカリー」は、もうありません。跡地は「エクセルシオールカフェ 横浜元町通り店」になっていました。
1970年代に入ると、立川ユリさんと立川マリさんの後輩である「サンモール インターナショナルスクール Saint Maur International School」の生徒達が「フクゾー FUKUZO」の服をカジュアルに着こなし始めます。地元・元町商店街で買った服をお洒落に着こなす感覚に、フェリス女学院の生徒達が注目し、彼女達も元町で買い物するように…フクゾーの服に、「ミハマ MIHAMA」のペタンコ靴と、「キタムラ Kitamura」のバッグを組合せて、お嬢様風ファッションを作り上げ…神戸発のニュートラに対して、こちらは横浜発のトラッド、ハマトラが誕生したのです。しかし、それ以前にも、この辺にはお洒落な人はいたようで、安井かずみさんなどは、フェリス女学院中・高等部在学中の1950年代に、後にハマトラと呼ばれるスタイルを確立していたのでした。
元町五丁目東
目の前に2つの山手トンネルが見えてきました。左は下りの「第一山手トンネル」。右は上りの「第二山手トンネル」。昔は山手トンネルは「山手隧道」と「本牧隧道」と別の名前が付いていました。明治44年に横浜電気鉄道(大正10年に市電になる)本牧線が開通した際に、右の「本牧隧道」ができて、昭和3年に左の「山手隧道」が完成。本牧隧道は路面電車(市電)専用に使っていましたが、昭和47年に市電が廃止されると、道路が一般車両に開放されて、トンネルの名前も「第二山手トンネル」と改称されたわけです。
山手トンネル入口
「本牧に行く途中の山手トンネルは、僕にとってあの頃に戻れるタイムトンネルみたいなものなんです」と語るのは、イタリアンガーデンが生んだ東洋一のサウンドマシーン、クレイジーケンバンドの横山剣さん。フェリス女学院は左側。立川ユリ・マリ姉妹が子供の頃に何度も通った、山手トンネル(通称「麦田トンネル」)に入ります。

麦田
トンネルを抜けると、麦田、もうすぐ本牧で、そこはアメリカでした…というのはワンダフルハウスが学生だった頃の話で、大学2年だった1982年に米軍接収地が返還されて以降は、そんな感じは薄くなってしまいました。ユリさんとマリさんが住んでいた1950年代から60年代は本牧の全盛期で、朝鮮戦争やベトナム戦争で米軍兵が街中に溢れ返り、大いに賑わっていたのです。当時は、本牧が日本で一番最初にアメリカ文化が入ってくるエリアでした。
山手公園入口
立川ユリさん、立川マリさん、そして”べラ”こと入江美樹さんが通ったサンモール インターナショナルスクール」は、山手公園の向こう側。入江美樹さんは、1944年8月14日、神奈川県横浜市生まれ。母親は料理研究家として活躍された入江麻木さん。ロシア人の血が混じったクオーターで、サンモール在学中に「装苑」のモデルに選ばれ、ファッションモデルとして活躍。1964年、日本・カナダ・イタリア・フランス合作のオムニバス映画「白い朝」の勅使河原宏監督が担当した部分に出演。ちょうどその年(1964年)、勅使河原宏監督「砂の女」がカンヌ映画祭に正式出品されてカンヌ入り。同行したメンバーは、「砂の女」の宣伝プロデューサーもしていた「レストラン キャンティ」のオーナー川添浩史氏と梶子夫人、 篠田正浩監督の非公式招待作品「乾いた花」に出演していた加賀まりこさんなど、今考えると超豪華。指揮者・小澤征爾氏と結婚後は家庭を守ってきたヴェラさんも、ユリさんと同じく、現在はファッションデザイナーとして活躍しています。
鷺山入口
昔の本牧っぽい店が見えてきました。
このロゴマークは懐かしい! 横浜フリーウェイ428のロゴ入りトレーナーやトートバッグは、’80年代前半、学生の間で流行りましたね(^‐^) この建物は、以前工房だった所みたいです。
山手駅入口
ここを右折(写真右)すれば、JR根岸線山手駅。
本牧一丁目 大鳥小学校入口
ここはもう本牧です! イタリアンガーデンは、次の信号過ぎて左側。  前方左側がイタリアンガーデンです…おやっ!?
イタリアンガーデンがあった場所には、マンションが建っていますね。店は無くなってしまったのでしょうか? ん? マンションの反対側にブルーのネオンが…
IG」…「Itarian Garden」の頭文字です! 暖簾は守られていました\(^○^)/ イタリアンガーデン最後のオーナー八木さんが、名を残すためにオープンさせたピザバー「IG」で、本牧名物の四角いピザをいただきましょう(^Q^)
IGの2階に見えるお店は、ロックバー「Shuffle シャッフル」。以前の店名は「Bebes べべス」。その前は「Bebe べべ」。「べべ」は、ブリジッド・バルドーが好きだった立川マリさんが名付けたお店であり、高橋咲さんの小説「本牧ドール」の舞台になったお店です。

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