堀切ミロ

スタイリスト

1943(昭和18)年、静岡県生まれ。静岡県立伊東高校を卒業後、’61年から1年間、セツ・モードセミナーで学ぶ。卒業後、横浜高島屋宣伝部を経て、浜野商品研究所でサイケデリック・ファッションをデザイン。また、「平凡パンチ」創刊当初、ファッションリーダーとして誌面に登場していた。麻布霞町にあった伝説のクラブ「茶蘭花」のオーナーであり、その頃から、赤坂の「ムゲン」や「ビブロス」ではスターだった。工藤静香のスタイリングを10年以上手掛け、現在も東京のクラブ・シーンをリードし続けている。

三宅菊子著「セツ学校と不良少年少女たち」より

1969年の冬か’70年の初頭、いまのセツ・モードセミナーの建物の天辺(てっぺん)のほう、アトリエ兼私室のような、とにかくしゃれた部屋だなぁと思った。階段をいくつも上って、その部屋は陽がいっぱい当たって明るくて、敷物を敷きつめた床にじかに坐ったり転がったりしながらお喋りするのです。
そこには松田光弘さん、荒牧政美さん、金子功さんたちがいて、当時平凡出版といっていたマガジンハウスの、新雑誌編集部の偉い男の人と、フランス人留学生の女の子などもきていた。長沢先生はその中で最年長のはずなのに、いちばん若い感じなので吃驚(びっくり)してしまった。みんなはまるで椿姫のサロンに集まった人たちみたいに先生を大事に、尊敬している態度で、でもすごく楽しそうに喋る。ところが椿姫のほうは、ガキ大将か街のちょっとイカレた兄さんのようだった。
そして私は隅っこで、ノートをひろげてみんなの話をせっせとメモしている。この日は、フランスの雑誌ELLEについて、あるいは”エル調”ということについての座談会(ティーチ・イン)だったのだ。平凡出版からELLEと提携した新しいファッション誌が出る、その準備号というか宣伝版の企画。
――つまり、雑誌ananが創刊する直前の話です。”平凡パンチ女性版”の名前で出た臨時号に、「エル調ってナアニ?」というページとなって、長沢先生たちのお喋り会は掲載された、その原稿を私が書いたわけです。ピンクのザラ紙の折り込みで、さほど華やかなページではないのだけれど、私は緊張しきって必死に書いたのを憶えている。
だって私はその頃、かっこいいファッションなどとは無縁に暮らしていたし、当時最先端の”ニコル”の松田さんや”マドモアゼル・ノンノン”の荒牧さんは遠い別世界の人。金子さんのことも、この世の人とも思えぬあの妖精的モデル立川ユリさんのだんなさんで洋服作っているらしい、というくらいしか知らなかったし。……その日、べつの用事で川村都と堀切ミロもセツに来ていたような気がするのだが、ミロと金子さんがジプシーのアクセサリーのことか何か話していて「ファッショナブルなのよねェ」と言った、そのときに私はファッショナブルという言葉を初めてきいたのだった。
ふむ、なるほどそういう言い方があるのか……とひそかに感心したりして、だから松田さんや編集部の人の「すべてにかっこよく、イキがって暮したいですねェ」とか「ELLEの編集の人たちのおしゃれが最高!」といった話を、偉〜い御言葉のように汗かきながらきいていた。
・・・・・・後略・・・・・・

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