わんだふるはうすcuisine francaise JJに行く
伊丹十三 風

1961年10月、大阪読売新聞社会部記者を経て、料理学校経営者の娘との結婚により料理の世界へと進み、大阪・あべの・辻調理師学校副校長となった辻静雄氏が初めて渡仏します。3つ星レストラン「ラ・ピラミッド」を拠点にして、12月までの2ヶ月半で、10軒の3つ星レストランと65軒の2つ星レストラン全てを制覇。そしてその2年後の1963年、パリの3つ星レストランを制覇し、翌1964年にはピラミッドなど地方の3つ星レストランを制覇した日本人が現れます。その男の名は「伊丹一三」。商業デザイナーであり、ハリウッド俳優でもあったこのグルメな男は、後に伊丹十三と名を変えて、フランス料理の神様となった辻静雄氏に挑みかかります。それは、日本人が最もフランス料理の真髄に迫った瞬間でした。

「おおっ!? あれは?(^O^)\」
ピカソです! 彼は20世紀最高のレストラン「ラ・ピラミッド」の常連客でした。1955年に、オーナー・シェフ フェルナン・ポワンが亡くなった後も、1973年に死ぬまでピラミッドに通い続けました。

今秋、六本木にかつてない規模のピカソ作品が集結しています。パリの国立ピカソ美術館の大改修に伴って可能となった世界巡回展の一環として、マドリード、アブダビに続く東京での開催。12月14日(日)まで、サントリー美術館 国立新美術館の2館が会場となっています。

生涯を通じて内なる心に向き合い、常に自らの人生を創作に反映させた画家パブロ・ピカソ(1881〜1973)。激動の20世紀を生きた芸術家らしく、戦争や平和を巡って、人間性や芸術の意味を求めて、多様な展開を見せたピカソの芸術。同時に忘れることができないのは、画家の生涯を彩り、その芸術に霊感を与えた料理人フェルナン・ポワンの存在でした。

フェルナン・ポワンは、芸術家をとても尊敬していました。芸術家たちもまた、フェルナン・ポワンのところへやってきました。「僕は劇場なんて行く必要がないんだよ。役者の方がやって来るんだからね」と語っていたポワン。画家や俳優たちとは親しくつきあっていました。女流画家であるスザンヌ・ヴァランドン(ユトリロの母 1867〜1938)は、「美味しいものをたっぷり食べさせてもらったお礼に」絵を1枚贈り、ジャン・コクトーは来店の度に芳名録にデッサンを残していきました。
20世紀最高の料理人フェルナン・ポワンの最高の直弟子がポール・ボキューズ。そしてポール・ボキューズの最高の直弟子のレストランが、ここ東京ミッドタウンにあります。
ガーデンテラス2F…
“ジョエル”“ジャポン” フランス料理アカデミー日本支部 会長のジョエル・ブリュアン氏のレストラン…
cuisine francaise JJ(キュイジーヌ・フランセーズ・JJ) 
今から約30年前、フランス料理に革命が起こりました。伝統のルセットと味を見直そう。肉に頼り過ぎず、魚介や野菜をもっと使おう。ソースは小麦粉と脂肪を控えて軽やかにヘルシーに……等等。こうして生まれた新フランス料理(ヌーベル・キュイジーヌ)の旗手の一人がポール・ボキューズ氏。1960年代後半から70年代初頭にかけて、名声の頂点に達していた頃のリヨンの3つ星レストラン「ポール・ボキューズ」でスー・シェフ(料理長代理)を務めていたのがジョエルさんなのです。1972年に東京・銀座のフレンチ・レストラン「レンガ屋」がポール・ボキューズと提携し、11月18日に調理長としてジョエルさんが日本に派遣されました。2年したら帰国するつもりが、日本人女性と結婚したために、日本に腰を据えることになります。レンガ屋の総料理長を9年務め、1980年、南青山に自分のレストラン「ジョエル」を開店。2007年2月末に閉店して、3月30日に六本木の旧防衛庁跡地にできたばかりの「東京ミッドタウン」に「キュイジーヌ・フランセーズ・JJ」を移転オープンしました。友人のアンドレ・ルコント氏が1999年に亡くなった後は、フランス料理アカデミー日本支部長を務めています。
「ワンダフルハウス様、ランチタイムならピカソメニューを御用意できたのですが…」
「それでは今夜は伊丹メニューでお願いします!(^O^)/ オードブル、ポワソン、ヴィアンドゥ、それぞれ1つずつ、この本の中から作ってください」「かしこまりました。デセールはどうしましょうか?」「フェルナン・ポワンのルセットで○○○○を!」
伊丹十三氏の最高傑作「フランス料理を私と」が、日本のフレンチレストランで初めて再現されようとしています。その料理に見合うデセールとしてワンダフルハウスが選んだのは、ピカソがピラミッドで食べていた○○○○」
1982〜83年にかけて、文藝春秋の白黒のページに連載された作品が、1987年にオールカラー化されて単行本になりました。伊丹十三さんが対談相手の家を訪問し、辻調理師学校フランス料理主任教授 水野邦昭先生にサポートしてもらいながら3つ星レストランの本格的な料理を作ります。その調理過程が全篇通じてカラー写真で紹介され、出来た料理をゲストと対談しながら食べる、という写真レシピ付きグルメ対談集。ゲストも超豪華。玉村豊男さんをオープニングに、次に各分野の第一級の知識人たちを配置し、最後に辻静雄さんと対峙する、という極めて映画的な構成になっています。料理は1回の対談につきオードブル→ポワソン(魚料理)→ヴィアンドゥ(肉料理)の順にフルコースで出し、12回の対談で36種類製作しています。そのほとんどが、水野先生が修業したピラミッドやポール・ボキューズの料理でした。残念ながらデセールは省略されています。

Hors d'oeuvre

「ワンダフルハウス様、”サラッド・グルマーンド Salade gourmande”美食家のサラダでございます」
「美食家のサラダ?(゚O゚)\」 「おーっ!(^O^)\ 伊丹さんが作ったのと同じです!\(^○^)/」
Salade gourmande
特注品
13000円+サービス料10%
アリコヴェール(さやいんげん)とトマトとシャンピニオン(マッシュルーム)の上にフォアグラとトリュフを乗せたサラダ。これが本物のサラッド・グルマーンドです。
伊丹十三「どうです? フランス料理は?」
佐々木「うん。それがね、私なんかの場合、個人的に言いますとね、正直言ってフランス料理楽しむって段階まで行ってませんね。規則があまりにも我々のと違うんでね。たとえばフランス料理ってのはコースになってるでしょう?」
さやいんげんとフォアグラ&トリュフの組み合わせ…大胆に創造されたサラダが人々に受け入れられて、フランス料理の歴史が変わりました。1970年代初頭に登場した新しいスタイルのフランス料理「ヌーヴェル・キュイジーヌ」は、この一皿から始まったと言っても過言ではありません。1970年以降で最も重要な意味を持つフランス料理の登場です。
「何というダイナミックなサラダでしょう!(゚O゚)\ 家庭料理であるサヤインゲンのサラダの上に、高級レストランのフォアグラのテリーヌがドーン!と乗っかってます」 フォアグラの中にトリュフまで入ってますよ!
「アリコヴェールの上もトリュフで真っ黒!(゚O゚)\」
「アリコ・ヴェール Haricots Verts」というのは、サヤインゲンのことですが、ジョエルさんや水野先生の師匠であるポール・ボキューズさんは、このサラダに「食い道楽のサラダ」というかなりユニークな名前を付けてくれました。フォアグラもトリュフも高価で珍味といわれているものですから、ボキューズさんも食い道楽などという名前を付けたのでしょう。
「食い道楽のサラダ」の名に恥じない豪華さです。
伊丹さん「インゲンは塩茹でしておく。シャンピニオンは、傘の部分を輪切りにした上でマッチの軸の太さに刻んででおく。トマトは皮をむいて種をとり、賽の目に切る。ドレッシングはサフラワー・オイルとワイン・ヴィネガーを3対1の割合で混ぜ、胡桃油で風味をつけて塩胡椒する。以上の材料でサラダを作り、フォアグラの一切れを乗せて供す。賽の目に切ったフォアグラを混ぜ込んだりなどしてもさらに良し」
1970年代以前の伝統的フランス料理では、素材の味は必ずしも十分生かされていたとはいえませんでした。たとえば野菜なら、サヤインゲンもホウレン草も色が変わるぐらいグチャグチャに茹でて味付けされていました。ところが、このサラッド・グルマーンドでは、そのサヤインゲンが青々しているではありませんか! 
「歯当たりもサクサクしています!(^Q^) スパゲティのアルデンテのような感じです」
フランス人は伝統を重んじる一方で、新しがり屋でもあります。
サヤインゲンの上にフォアグラを乗せるなんてことは、それまでになかったことなのです。
「サヤインゲンの爽やかな味と、フォアグラのこってりした深みのある味とのなんと見事な合体でしょう!(^Q^)
伊丹十三「この料理をちょっと水野さんから説明していただきましょうか」
水野邦昭先生(辻調理師専門学校フランス料理主任教授)「はいはい。えーと、このフォアグラのサラダですね、今日はドレッシングに胡桃の油を入れて、ちょっと変わった風味をつけてもらいました」
フォアグラのサラダ、ジャガイモのトリュフ和え、紅茶のソルべ…自由な感覚が非常にセンセーショナルに人々に受け入れられ、フランス料理界に活気がみなぎった時代が始まりました。ヌーヴェル・キュイジーヌの真髄は、従来の素材の持ち味を十分生かして、新しい味を引き出すことにあったといえそうです。料理自体も濃いソースを少なくして、全体的に太らない工夫がヌーヴェル・キュイジーヌにはなされていたのでした。
佐々木孝次教授(信州大学教養学部教授 心理学専攻)「フォアグラのサラダなんて初めてだなあ。フォアグラをサラダに使うことなんてあるんですか?」
水野先生「ええ。1970年代に、美食家風のサラダっていうのがフランスですごく流行ったんですね。今日伊丹さんに作ってもらったのと同じ、サヤインゲンとシャンピニオンとフォアグラのサラダで、これが一世を風靡した、というほどじゃないにしても、ずいぶんあちこちのレストランで流行ったんです」
伊丹十三「シャンピニオンなんか、気障にマッチ棒状に切ったりしてね」
「ワンダフルハウス様、あちらのテーブルにお移りください」 「おっ、チーズです(^‐^)\」
「こ…これは!?(゚O゚)\」
「ワンダフルハウス様、メーン産のオマールでございます」
カナダからアメリカ・メーン州にかけての大西洋沿岸と、フランス・ブルターニュ半島の限られた地域に生息するオマール(ロブスター)の登場です。このように生きたものは450g以上ある「MARKET-SIZE」(活出荷中心)で、450g以下の小さいオマールは「CANNER-SIZE」といって、加工向けにされます。水揚げ期間は、春(5月〜7月)から夏(8月〜10月)にかけて。
「目が動いた! うわーっ!(゚O゚:)\ 生きてます!」
「ワンダフルハウス様、伊丹さんと同じように、縦に半割りしてローストしますので、しばらくお待ちください」

ここで、しばらく待つ


「お待たせしました。“Le Homard du Maine sauce au beurre de fines herbes ル・オマール・デュ・メーン・ソース・オ・ブール・ドゥ・フィンヌ・エルブ” メーン産 活オマール海老のロースト 香草バターソースでございます」
Le Homard du Maine sauce au beurre de fines herbes
メーン産 活オマール海老のロースト 香草バターソース
特注品
9450円+サービス料10%
先ほどまで生きていたオマールが真っ二つになってしまいました(ToT)/~~~
Le Homard du Maine roti a notre facon,semoule de ble dure,basilic en feuille,sauce Amoureuse
メーン産 活オマール海老のロースト バジル風味のクスクス添え
9450円+サービス料10%
「ワンダフルハウス様、当店のアラカルト・メニューには活オマール海老の丸ごとロースト バジル風味のクスクス添えがございます。こちらはジョエルの好きなアメリケーヌ・ソースを使っております」
「本日は伊丹さんの本のルセット通りのソースを再現し、付け合わせのクスクスは省きました」「おーっ!(^O^)\ 本と同じです!\(^○^)/」「ワンダフルハウス様、身からハサミを外しますので、少々お待ちください」

ここで、少し待つ


ハサミが身から外されて運ばれてきました。
「この黄色にグリーンのソースは何でしょう?(^‐^)\」
水野先生「じゃあ、バターソースを作りましょう。まずレモンを絞ってください」
伊丹十三さん「1個全部?」
水野先生「はい。そこへ水を大匙2杯ほど入れましょう。そして沸騰したら、バターを混ぜ込んでいきます。泡立器でかき混ぜながら、そこへバターを少しずつ、どんどん入れていきます」
「ブール・フォンデュ(バター・ソース)にセルフィーユとエストラゴンの微塵切りを入れました。シンプルなソースですが、とっても軽くて、白身魚や海老などにとっても良く合いますよ」
佐々木教授「真っ黄色になるのね。これレモンの色ですか?」
水野先生「いえいえ、これバターの色です。ブール・フォンデュっていいましてね」
伊丹十三「もうずいぶんバターが入りましたけど、まだ入れますか? もうハイライト2箱分くらい入ったと思いますけど…」
水野先生「はい、そのくらいでいいでしょう。だいぶトロミがついてきました。じゃあ、そこへ生のセルフィーユとエストラゴンの微塵切りを入れましょう」
佐々木教授「ああ、これは黄色に緑ですごく綺麗だ」

「ソースにはパスティスを入れました」「パスティス?」「昔、アブサンという名のリキュールがあったのですが、このお酒が健康上の問題から発売禁止になり、代わって風味を似せた味わいのパスティス(se pasti-ser 似せて作る)というお酒が作られるようになりました。現在、最も有名なパスティスがこの「ペルノ」です。主成分はスターアニスという薬草で、これが強烈な風味を作り出しているのです」

水野先生「じゃあ、塩胡椒して、そこへ…これは好みなんですが、パスティスを入れるという手があるわけです」
伊丹十三「パスティス!」
水野先生「あくまでも好みですから、入れなくても結構ですが…」
伊丹十三「うーん、これは疑問の一手だね。じゃあ、ほんのちょっぴり入れてみますか…」
水野先生「どうです?」
伊丹十三「うん…ほほう(^Q^)…なるほど、なるほど。いや、いいです。非常にいいです(笑) なにか、このウイキョウの歯の浮くようないやらしい感じが、逆にバターの味を引き立てますね」
水野先生「これ南仏の味なんですね。南フランスでは、スズキとか海老とか焼く時には、ウイキョウの枯れた枝を敷いて、そこに火を点けていきますよね。で、上からこのパスティスをかけて出してくれるんですけれども…」
伊丹十三「うん、そういう田舎風の味にバッチリ決まったみたいです」
伊丹十三「オマールは殻の中央に包丁を突き立て、手前に包丁を押し下げて、まず手前半分を縦二つ割りにし、ついでオマールを逆さにして同様に残り半分を断ち割る。要するに全体が縦に二つ割りになったわけだ」
辻静雄さんは1961年の最初のフランス旅行の際に、これと同じ料理を食べています。ピラミッドでのトレーニング期間を終えた辻静雄夫妻は、マダム・ポワンの勧めに従って、コート・ドール、ピック、ポール・ボキューズ、トロワグロなどのリヨン近郊のレストランを巡った後にパリへ出ます。わずか2週間の滞在でグラン・ヴェフール、トゥール・ダルジャン、ラペルーズ、マキシム、ラセール、リュキャ・カールトン…パリの4軒の3ツ星レストランと20軒の2ツ星レストランの全てを制覇。その後、地方のレストランを巡る旅に出ます。イギリス海峡に面したノルマンディーとブルターニュ、ドイツ国境のアルザス、南仏のコートダジュールへ…
水野先生「中に緑色のミソがあるでしょ。これコライユっていって、焼くと真っ赤になります」
――海老沢泰久著「美味礼讃」より――
そしてそういう地方のレストランでも、しばしば信じられないような料理にぶつかった。なかでも辻静雄が驚いたのが、ノルマンディーのモンサン・ミッシェルの近くの小さな村にあるローラン・バールというレストランに行った時だった。彼は最初、その店がフランス全土で65軒しかない2ツ星レストランのうちの1軒だとはとても思えなかった。外見は強い風が吹いたら今にも倒れてしまいそうな、くたびれた居酒屋のようだったし、客は彼らの他に1人もいなかった。店の中に入ると、年をとったコックと同じくらいの年の婦人が何をするでもなくぼんやりと椅子に座っていた。老夫婦が二人だけでやっているらしかった。辻静雄は来たことを後悔しながらメニューを見せてくれと言った。
「ないよ」
老コックは、味も素っ気もない口ぶりで言った。
「じゃあ、何を食べさせてくれるんですか?」
「オマールの美味しいのがあるんだが、焼くかね?」
「いいでしょう」
何も期待しないで待っていると、やがて40cmはあろうかと思われる巨大なオマール海老が出てきた。ただ二つ割りにして焼き、上から溶かしバターをかけただけのものだった。
「おーっ!(^O^)\ 確かに真っ赤になってる部分があります!」
コライユは、もともとはトロリとした緑色をしていますが、これを火にかけると…水分が抜けて鮮やかな赤い色に変身するのです。これは、加熱によって「カロチノイド」という色素が変化して、赤く染まるの現象なのです。
佐々木教授「コライユってのは珊瑚のことね」
水野先生「ええ。珊瑚みたいに赤くなるんですね」
水野先生「二つになったオマールは、塩胡椒し、オリーブ・オイルをかけて炭火焼きにする(JJの場合はオーブンに入れる)」
水野先生「火が通ってきたら、コライユをこぼさぬため、クッキング・ホイルで包んで全体をひっくり返し、反対側を焼き、バター・ソースをかけて供す」
見ただけで、新鮮な身肉の弾力を感じさせます。
それでは、身肉をいただきましょう。
身がしまっていて、歯ごたえと甘みを楽しめます(^Q^) オマールは、勇猛なその姿からは想像できないほど繊細な甘みを持っていますね。
「何よ、これ」
(夫人の)明子が一口食べたところで言った。
「すげえな」
と辻静雄も言った。
彼らはオマールは、ピラミッドでスフレやクリームソースをかけたパイヤール風という料理を何回も食べていたが、この単純なオマールの方がずっと良かった。固くも軟らかくもない焼き加減が何ともいえなかった。
きっとオマールとバターがいいのだろうと辻静雄は思った。材料とコックの腕さえ良ければ、そんなに大袈裟なことをしなくても素晴らしい料理ができるのである。この店の料理は、その好例だった。
伊丹十三「じゃあ、このコライユの一番多いやつを佐々木さんに」
佐々木教授「あ、これ私に? 大変なことになったね、こりゃ(笑) じゃあ、まずこのコライユあたりからいただきましょうか…」
「ワンダフルハウス様、コライユは一番右側の小さなスプーンでお召し上がりください」
濃厚な旨みがあります!(^Q^) 殻に残ったブール・フォンデュも飲み干しました(^Q^) レモンの量は、本に載ってるルセットの半分で作ってあるので酸っぱくはありません。
佐々木教授「うん…いやあ、これは相当なもんだ。いいですよ伊丹さん…ただ、このソースはちょっとレモンが効き過ぎたかな」
伊丹十三「レモンは半分でよかったかもしれませんねえ」
佐々木教授「いやあ、しかし美味しい(^Q^) こんな美味しいものを食べるのは本当に久しぶりだ。ずっとこの(信州の)山荘で一人住まいですからね」
オマールは、左右非対称の大きな爪が特徴。オマールの最後のお楽しみは、このツメの部分なのです。
爪の中にも身がギッシリ詰まっています。水野先生のアドバイスによると、爪の部分を包丁の背で叩いて殻にヒビを入れておくと、殻がむきやすくなるそうです。
「簡単に殻がむけました!\(^O^)/」 「こ…これは不思議です!?(゚O゚)\ 海老なのに爪だけ蟹の肉質です!」
オマールの身質は、爪が蟹の繊維、テールが海老の身質である為、エビとカニの両方がいっぺんに味わえる日本人には夢のような海老なのです\(^○^)/
ずわい蟹の味がします!(^Q^)
辻静雄は(プレ・サレの羊と、デザートのそば粉のブリニも食べて)帰りに130フラン払った。ピラミッドやパリの3ツ星レストランよりずっと高かった。おそらくこれほどのオマールはもう食べられないだろうと思い、フランスの田舎のレストランをバカにしてはいけないと思っただけだった。
彼らはこうしてフランスのほぼ全土を車で回り、10軒の3ツ星レストランと65軒の2ツ星レストランの全てに足を運んだ。その間には1ツ星のレストランや星の無いレストランにも行ったので、彼らが足を運んだレストランの数はおよそ100軒に達した。
辻静雄と明子が、フランス最後の旅となった10日間のアルザスの食べ歩きからヴィエンヌに戻ったのは12月の20日だった。アメリカからフランスに来て9週間、日本を発ってからは11週間が過ぎていた。彼らはそろそろ日本に帰らなければならなかった。

Viandes

「ワンダフルハウス様、“Noisette de chevreuil sauce grand veneur et puree de celeri-rave 鹿のステーキ ソース・グラン・ヴヌール 根セロリのピュレ添え”でございます」
おーっ!?(^O^)\ 本と同じです!\(^○^)/
Noisette de chevreuil “d'Hokkaido” sauce grand veneur et puree de celeri-rave
蝦夷鹿のステーキ ソース・グラン・ヴヌール 根セロリのピュレ添え
特注品
8400円+サービス料10%
「ワンダフルハウス様、こちらは鹿のステーキでございます」「鹿のステーキ!?(゚O゚)\ 私は鹿のステーキを食べるのは初めてなのです」
「もうすぐクリスマスだよ。こっちでクリスマスを過ごしていったらどうなの?」
辻静雄が日本に帰らなければならないと言うと、マダム・ポワンはそう言った。
「ありがとう、マド。でもそうもしていられないんです。ずいぶん長い間学校を留守にしましたから」
「二人がいなくなると寂しくなるわね」
「僕たちも同じです」
「また来るわね」
「ええ。また来ます」
「今度は夏にいらっしゃい。夏になるとテーブルを庭に出して、あのプラタナスの木の下で食べるのよ」
マダム・ポワンは窓の外を見て言った。今はそのプラタナスの木も栗の木もすっかり葉が落ちて裸の枝だけになっていた。
Noisette de chevreuil “d'Hokkaido” sauce poivrade et puree de marrons
蝦夷鹿のステーキ ソース・ポワブラード 栗のピュレ添え
特注品
12000円+サービス料10%
彼らはその夜はトリュッフのパイ包み焼きと、アルデッシュ産の栗を添えた鹿の背肉のローストを食べた。
Chevreuil roti sauce poivrade
a la Sizuo Tuji
鹿のロースト ソース・ポワブラード
辻静雄 風
Chevreuil roti sauce grand veneur
a la Juzo Itami
鹿のロースト ソース・グラン・ヴヌール
伊丹十三 風
ソース・ポワヴラードは、ポワヴル(コショウ)の風味を効かせたソースで、ジビエ料理に使われます。香ばしく焼いたジビエのくず肉と香味野菜にフォン・ド・ヴォーを加えて煮出す際にコショウを多めに加える。このソースをベースにしてソース・グラン・ヴヌールを作ります。 グラン・ヴヌールとは、フランス王家の狩猟長のこと。これにソースが付くと、鹿や猪などの野禽獣の料理に使われるソースになります。ソース・ ポワヴラード をベースにし、仕上げにグロゼイユ(スグリ)のジャムを加えたものです。
これは、フェルナン・ポワンの生前のルセットを再現したものです。辻さんが初めてピラミッドを訪れた1961年は、ポワンの没後6年が経過しており、調理長はギー・ティヴァル氏の時代。鹿のステーキの付け合せは簡素化されており、この写真からフォアグラのクルトン(トースト)が欠落したものを辻夫妻が食べたのです。 辻静雄夫妻に続いて、日本人客としてピラミッドに2番目に乗り込んだ伊丹十三氏。ピラミッドでギー・ティヴァル氏に師事した水野先生。2人が共同で作り上げた鹿のステーキは、やはりピラミッド風でした。
伊丹十三「これは2日がかりの料理である。つまり、鹿の肉を一晩漬け込まねばならぬのだ」
福島章教授(上智大学文学部 精神医学専攻)「これ、何のステーキです?」
伊丹十三「鹿のステーキです。赤ワインとタマネギ、ニンジン、セロリ、ニンニク、パセリの茎、タイム、ローリエ、粒胡椒を入れて煮込んで漬け込み液を作り、一晩漬け込んだのを焼いたわけです」
岸田秀教授(和光大学人文学部 精神分析学専攻)「これはなかなかのもんだ」
伊丹十三「肉を焼いた後の鍋でソースを作る。油を捨てた後の鍋には、肉の焦げた跡が残っているはずだ。この焦げ目が旨みなのである。鍋を火にかけて赤ワインを注ぎ、鍋底の焦げ目をこそげて赤ワインで溶かしてゆく。そこへ、煮詰めておいた鹿のダシ汁を入れ、さらにスグリを入れるのである」
クロゼイユ(スグリ)のソースというと、不思議な感じもするかもしれませんが、 鹿肉には定番のソースです。王道の鹿肉にあわせるソース・グラン・ヴヌールも、クロゼイユ(スグリ)を使うソース。鹿肉のしっかりした味に、重厚な濃度のソースが良く合います。鹿肉とクロゼイユは、個性を引き立てあう組み合わせですね。
伊丹十三「このソースの中のコロコロした小さな果物、これはスグリです」
水野先生「まず、スグリの実のほうを入れましょう。これアイスクリームなんかに入れても美味しいですよ。スグリが入ったら味をみて、甘味が足りなかったらスグリのゼリーで調節してみてください」
伊丹十三「最後に生クリームを少し入れ、塩胡椒で味を調えれば、めでたくソースが完成する」
水野先生「これ、胡椒がよく合いますから、胡椒思い切って効かせてみてください。胡椒が効いたほうが鹿肉の旨みが引き立つんです」
伊丹十三「この付け合わせのマッシュポテトみたいなの、これは芋セロリ、あるいは根セロリというものとジャガイモのマッシュです。さあさあ、みなさんどうぞ」
岸田教授「参ったなあ。これ全部伊丹さんが作ったの?」
伊丹十三「そうですよ」
「ワンダフルハウス様、キュイジーヌ・フランセーズ・JJの鹿は、北海道の阿部さんというハンターが撃った蝦夷鹿で、“阿部鹿”とお店では呼んでいます。今日はロースの部分を使いました」
佐々木教授「この鹿はどこの鹿です?」
水野先生「オーストラリアですね。日本の夏、あちらでは秋から冬になるので狩のシーズンでしょ。それで冷凍じゃなくチルドのものが入ってくるんです。今日は、そのチルドのロースの部分を使いました」
鹿のステーキがカットされました。
綺麗な薔薇色です!(^O^)\ 臭みは全然ありません。牛肉に似て食べやすい味です!(^Q^)
佐々木教授「これは、この程度に焼くものなんですか?」
伊丹十三「ええ。鹿とか鴨とか羊とかは、レアとかミディアムとかいうんじゃなくて、全部ロゼといいまして、中が綺麗な薔薇色になるように焼くんです…と、さっき習ったわけで(笑)」
福島教授「いや、たいしたものです」
鹿の肉はとてもやわらかかったが、素晴らしい歯ごたえがあり、噛むとキュッと音を立てそうな感じだった。ソースは、胡椒の風味をたっぷり効かせたソース・ポワヴラードがかかっていた。辻静雄は日本に帰ると、もうこんな料理は食べられないと思い、後で胃に重くこたえることも忘れて一生懸命食べた。あっという間の2ヶ月だったと思った。
付け合わせの根セロリのピュレをいただきましょう。セロリの匂いがしますね 〜(^Q^) セロリと同じ味がします!(^Q^)
伊丹十三「根セロリは、茹でて裏漉しにし、マッシュドポテトと3対1くらいの割に混ぜ合わせ、生クリームを加えて仕上げる」
水野先生「これ根セロリっていってね、セロリの匂いがするでしょう? 味もセロリと似ています。形が芋みたいなので芋セロリともいいますが、これのピュレが鹿肉と非常によく合うんですね」
辻静雄と明子は、12月23日にヴィエンヌの町を発った。リヨンからパリまで飛行機で行き、パリで南回りのエール・フランス便に乗り継ぐつもりだった。リヨンの空港まではポール・ボキューズが送ってくれた。

Dessert

「ワンダフルハウス様、“Crepes viennoises クレープ・ヴィエノワーズ”クレープ・ヴィエンヌ風でございます」
20世紀最高の画家パブロ・ピカソが、20世紀最高のレストラン「ラ・ピラミッド」で食べていたデセール。それは、フェルナン・ポワンとマダム・ポワンの特別な客しか食べることが許されなかったクレープでした。日本人でこのクレープを食べた客は辻静雄さん一人だけです。フェルナン・ポワンが遺し、辻静雄さんが日本に持ち帰ったピラミッド・オリジナル・ルセットを、キュイジーヌ・フランセーズ・JJのシェフ・パティシエール宮本亜希子さんが忠実に復刻してくれました。70年位前(1930年代)に確立したルセットですが、クレープの具には、現在日本で流行中の”あるお菓子”が入っていたのです。
「ん?(^‐^)\」 「あれは何ですか?」
「クレーム・シャンティーでございます」
「ジョエルが、フェルナン・ポワンのクレープにはシャンティが合います、と言うので、宮本が急遽泡立てていました」
「おーっ!(゚Q゚) さすがにレストランのシャンティは違います。泡立てたばかりで、キメが細かく、上質な味わいです!(^Q^)」
コーヒーにシャンティを浮かべて、ウィンナー・コーヒーにしてみました。 苦味と甘味がミックスされていて美味です!(^Q^)
Crepes viennoises
クレープ・ヴィエノワーズ
クレープ・ヴィエンヌ風
特注品
こ…このクレープは?(゚O゚)\ クレープ・シュゼットをアレンジしたもののようです。
フェルナン・ポワンは、パティシエとしても申し分ない腕を持っていました。かつてのピラミッドで、このように見事にパブロ・ピカソ級の客に出されたデセールを味わわずして、美食の最高の喜びを味わったなどと言うべきではありません。このフェルナン・ポワンのクレープこそ、最後の最後まで一つの不協和音をたてずに続いてきた伊丹風フランス料理交響曲の素晴らしい最終楽章なのです。
伊丹十三「どうです、フランス料理は?」
佐々木教授「うん、それがね、私なんかの場合、個人的に言いますとね、正直言ってフランス料理楽しむっていう段階までいってませんね。規則があまりにも我々のと違うんでね。たとえば、フランス料理っていうのは、コースになってるでしょう。ということは、そこに起承転結というか、順序がある。時間の流れに沿って非可逆的になってる。さっきのオマール海老、もう少しあれが食べたくなったって、それは駄目なんだよね。一度過ぎちゃうと、それでその料理は終わり。あれが私なんかには非常に不自由な感じがするんだな」
メゾン・ポール・ボキューズ
「クレープ・シュゼット」をオーダーすると、グランマニエやブランデーが並んだワゴンが運ばれてきます。そしてブランデーの炎とともに、甘い香りが立ち上ります。
伊丹十三「そうですね。もう少し食べたいという調節は、チーズとデザートでするしかないでしょうね。さもなくば、もう1軒別の店へ行って初めからやり直すか(笑)」
佐々木教授「日本だとあれでしょ、“おかわりいかがですか?”とかね、“もう一つ差し上げましょうか?”とかっていうふうに、かなり緩い部分があるでしょう」
クレープ・シュゼット
4000円(2人分)
(メゾン・ポール・ボキューズ)
フレンチの温かいデザートの王様「クレープ・シュゼット」。コニャック、グランマニエといった洋酒でフランべしたオレンジのソース。温かいクレープをお皿に…そして、香り高く温かいソースをたっぷりと…寒い冬にぴったりのデザートです。
素朴なお菓子クレープに、「シュゼット」という名前を付け、高級デザートに変身させたのは、19世紀〜20世紀半ばにかけて活躍したフランス人パティシエ「アンリ・シャルパンティエ」(1880〜1961)。意外なことに、クレープ・シュゼットは、大失敗から偶然生まれた料理だったのです。1895年、モンテカルロのカフェ・ド・パリにプリンス・オブ・ウェールズ、後のエドワード7世(1841〜1910)がやって来て、14歳の若きアシスタント・ウェイター、アンリ・シャルパンティエに「今までに食べたことのないデザートを!(^O^)/」というリクエストをしました。イギリスの皇太子のためにパンケーキに香り高いお酒をたくさんかけていたところ、加熱皿の中が燃えてしまいます(゚O゚:)\ 彼は破滅すると思い、恐れながら味見してみると…するとどうでしょう…炎の事故のいたずらによって、パンケーキは美味しくなっていたのでした\(^Q^)/ 幻想的な炎に包まれたパンケーキ、ブランデーやリキュールの醸し出すデリケートな味(^Q^)…殿下はお気に召した様子で、このデザートの名前を尋ねると、「クレープ・プリンセス」と答えたそうです。殿下は同席していた令嬢の名前から「クレープ・シュゼット」の方がいいと答えられ、この素敵なデザートの名前の由来になったと言われています。そして翌日、殿下はアンリ・シャルパンティエに宝石を散りばめた指輪とパナマ帽を贈ったのでした。失敗から生まれた料理と言えば、タルト・タタンが有名ですが、クレープ・シュゼットもそうだったとは、少し意外ですね。
伊丹十三「だから、それは時間の違いでしょ? フランス人の生きてる時間と、日本人の生きてる時間の違いというか…いきなり本質的な話になるけれども、フランス料理を支えてる時間っていうのは終末論的なんで…」
佐々木教授「ええ、非可逆的ですよ。もう一度繰り返せないというか…」
ピラミッドでは、パーティーや招待客の予約があった場合に、普段のメニューではあまりお目にかかれない料理が出てくることがありました。「クレープ・ヴィエンヌ風」は、そんな料理の中の一つで、“王冠を賭けた恋”で有名なプリンス・オブ・ウェールズ、後のエドワード8世とウォリス・シンプソン夫人も食べていました。
1920〜30年代にかけて“世界で一番魅力的な独身男性”と言われ、次の王位継承者となったプリンス・オブ・ウエールズ、エドワード8世(1894〜1972)とアメリカ人女性、ウォリス・シンプソン夫人との交際は、ピラミッドが開店した1931年から始まります。2人はフェルナン・ポワンの料理にのめり込み、ピラミッドに通い詰めるようになります。フェルナン・ポワンとマダム・ポワンも2人を特別な客として迎え入れます。人妻であったシンプソン夫人は、妃としては迎えることは許されず、1936年1月のジョージ5世の死後、プリンス・オブ・ウェールズは独身のまま「エドワード8世」として王位を継承。一旦独身のまま、国王に即位します。しかし、彼女と共に生きる道を選び、同年12月11日、国王の座を弟に譲って退位したのです。イギリス国内には宣戦布告をも上回る衝撃が走り、ロンドンの街は大混乱に陥ります。全世界にスキャンダルが駆け巡ったその時、パパラッチからシンプソン夫人をかくまっていたのがピラミッドでした。翌12日深夜、エドワード8世はイギリスを去り、ウィーンへ。隠遁生活の後にフランスへ渡り、翌1937年3月8日に「ウィンザー公」の称号を与えられます。その後は、ウォリスと正式に結婚。同年6月3日にトゥール近郊のシャトー・ドゥ・キャンデにあるサロンでごく親しい友人のみを招いて挙式を挙げ、王室とはしばらくの間疎遠となったのでした。
伊丹十三「終末へ向けて一直線に、一方通行で進んでるという時間…」
佐々木教授「ええ。だから、その時間に乗っからないとフランス料理は食べることができない」
伊丹十三「そうです。つまり、連中は作るんですね、時間を。時間といいますか、歴史をね」
佐々木教授「食べる時まで作る」
クレープの上には、オレンジ・ピールが乗っています。
数々の輝かしい人々の署名が並ぶピラミッドの芳名録。それは20世紀の世界史そのものでした。中でもここに足繁く通われたウィンザー公と妃殿下の署名は、一際目立ったものとなっています。妃殿下は、その生涯の劇的な数日のことを忘れてはいませんでした。というのも、妃殿下が最後の判断をエドワード8世にゆだねて英国を去った1936年12月に、心から歓待してくれた避難所は、ピラミッドだったのですから。
伊丹十三「ええ」
佐々木教授「そこへゆくと、日本の料理は、やはり無時間的でね。ポリテミストというか、多神教的ですよ。つまり、中心とか終末とかいうものがないですよ」
レストラン・デセールとしてのクレープは、本来、客の目の前で作るのですが、残念ながらキュイジーヌ・フランセーズ・JJには、ワゴンサービスの設備がありません。
伊丹十三「自然にお腹がいっぱいになった時が食事の終わりであって(笑)、これはいわば自然現象ですね。しかも、それまでは何をどういう順序で食べてもいい」
佐々木教授「だからフランス人の中には、日本の料理を食べるとね、大変デタントに役立つっていう人、いますわね。デタントっていうのは緊張緩和」
果たして、中に具は入っているのでしょうか?
伊丹十三「ああ、そうでしょうね。要するに、食べるにあたって、時間を構成しなくていいわけだからね」
佐々木教授「そうですよ。最初の食前酒から最後のコーヒーまで全部自分で組み立てて、それを時間に沿ってきちっと食べる、なんていうことが当たり前になってる社会から、突然日本へ来てですね、たとえば、すきやきとか天ぷらとか食べますと、もう驚くわけですよね。何から食べてもいいし、何回食べてもいいしね。いっぺんに全部食べてもいいし、要するにマナーというのが非常にわがままがきくっていうことね。しかも尊いお客になればなるほどわがままがきく」
クレープがカットされました。パブロ・ピカソが、プリンス・オブ・ウェールズとシンプソン夫人が、スウェーデン王ギュスターヴ5世が、“映画の父”と称されるオーギュストとルイのリュミエール兄弟が、映画監督ルネ・クレール、ジャン・コクトーが、女優マレーネ・ディートリッヒが、ローレンス・オリヴィエとヴィヴィアン・リー夫妻が、エルメス3代目社長エミール・モーリス・エルメスが、劇作家アーサー・ミラーが、美食王キュルノンスキーが食べたクレープ・ヴィエノワーズをワンダフルハウスがいただきます。
伊丹十三「よく料亭の玄関なんかで靴の紐まで結んでもらってる尊い客がいる(笑)」
佐々木教授「ところが、フランスのレストランっていうのは高級なとこにいけばいくほど、自分で楽しみ方を作っていかなきゃなんない。料理や酒の選択から、客同士の会話までね」
オレンジ・ピールを乗せていただきましょう。 モグモグ)^Q^(…ん?何か具が入っているような?
伊丹十三「しかもまた、食事というのが長いの(笑)」
佐々木教授「そうそう。だから招待されるとね、嬉しいっていうよりも、ああ、また2時間なんとか楽しい顔してなきゃいけないっていう苦しみが先に来ちゃいますね(笑)」
クレープを開いてみました。 ピンク色でザラザラしたものが挟まっていますよ?(゚O゚)\
伊丹十三「結局、一方通行の時間っていうのは積み重なってゆく。そこでは人々は時間を背負うと同時に構成してもゆくものだ、と。ところが日本人の時間っていうのは、これとはまるで違っていて、一定の時間が経つと消えるんですよね。……ここで、交通違反の点数制度の話が長々と続く……」
「ワンダフルハウス様、ピンクのザラザラは、マカロン・フランボワーズを砕いたものです。フェルナン・ポワンのルセット通りに宮本が作りました」
伊丹十三「…と。まぁ、いうような、点数制というのがあるわけですが、面白いのは、この前歴というのが消せるんですね。(1982年当時は)1年間、無事故無違反だと前歴が消えましてね。免許証が、いわば真っさらと同じ状態に戻る」
佐々木教授「ははあ」
クレープの中に砕いたマカロン!?(゚O゚)\ これは珍しい!
フェルナン・ポワンのルセットには「細かく砕いたマカロン数個を少しずつ加えて溶きのばす」とあるのです。
伊丹十三「これ、とても日本的でしょ? ミスというものが、なんとかどこかで消える仕組みになってないと、日本人というのは夢も希望もなくなっちゃうわけですよ」
佐々木教授「生きていくことは、汚れていくことじゃなくて、何度でも洗い直しがきくわけだ」
クレープの上にシャンティを乗せていただきましょう。
伊丹十三「そうです。どこまでも汚れるんじゃなくて、あるところまで汚れると、改心して白紙に戻れるわけですよ。だけど、日本の外を見れば、一度汚れたら絶対に白紙には戻せないという世界に住んでいる人間もいるわけで。そういう人たちは、ずうっと何千年も昔からの罪というものを背負って生きているわけでしょ?」
水野先生「そりゃそうですよ。ユダヤ人がそうですし、戦後のナチを背負った西ドイツがそうですね。これは白紙には戻せないですよ。戻したらアイデンティティがなくなっちゃうもの」
フェルナン・ポワンのルセットに「クレーム・シャンティを添える」という文章はありません。
伊丹十三「つまり、彼らは自分たちの自我を、終末論的な時間の上に築いているのであって…」
佐々木教授「ええ、ええ、そうです。自我と時間というのは不可分なんです。対立関係なんだから。つまり、時間に逆らって同一性を失わないものが自我ってことですから」
シャンティは、ジョエル・ブリュアン氏の勧めにより、付け加えられました。
伊丹十三「すると、たとえば1年過ぎれば忘年会があって、その1年の汚れは全て水に流されて、決意も新たに新年を迎える…というようなことを毎年繰り返している我々の文化というのは、どうなりますかね?そういう、何ていうのか…螺旋状の時間といいますか…いや…螺旋状にでも向こうへ突き進んでゆくという感じすら無くて、同じ所をグルグルと廻ってて、汚れがついたり消えたりしているだけの時間…そういう時間は、自我というものを対立関係として生み出しますか?」
佐々木教授「ですから、僕は日本人には、ある意味では自我という言葉は使いにくいんで、日本人にとっては時間と対立している自我、時間に逆らって出てくる同一性というような観念は、もともとないでしょう。結局夕方になると夕方とともに震え、春になれば春とともにほのぼのとし、夜になれば夜とともに侘しくなるっていうのが日本人なんで、夜になっても、春になっても、朝になっても、なんか変わらないものが自分自身の中にあるという感覚が強烈なものとして存在するということは、日本人にはないんです」
ジョエルさんの言った通り、フェルナン・ポワンのクレープにシャンティは合います!(^Q^)
伊丹十三「日本人というのは、そういう意味ではまだ時間を発明してないんでしょうね」
佐々木教授「だから、さっきのオマール海老が美味しかったから、もう一度食べようっていうことが許される(笑)」

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