トリュフは極めて不思議な魅力を持ち、最も香り高く、確かな徳を備えている。まさに料理の「Diamant noir ディアマン・ノワール」(黒いダイヤモンド)である。シェフの口の中でトリュフは贅沢な感触、豪華さそのものを意味する。料理にとってトリュフは、裁縫にとっての刺繍に等しい。(レイモン・オリヴェ) |
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トリュフはぺリゴール料理の香り高き魂である。トリュフがフォアグラに対するは、真珠が宝石箱に対するがごとし。(キュルノンスキー) |
冷たく表面が粒々にして、根も無しに生えてくる驚くべき黒トリュフは、神秘的に成長するので大地にとって無縁なもののように見える。(コレット) |
私がこれを書いている現在(1825年)、トリュフの栄光は頂点に達しているといえよう。アントレがそれ自体どんなに美味しいものであったとしても、トリュフの味つけがなければ格好がつかない。“プロヴァンス風トリュフ”の話を聞くだけで生唾が出るのを感じない人がいるだろうか。(ブリア・サヴァラン) |
(紀元前の)人々は学者たちにトリュフの正体を尋ねた。2000年の議論を経た後でも、学者たちは最初の日と同じように答える。「何もわからない…」。トリュフそのものに尋ねたらこう答えた。「私を食べ、そして神を崇めよ」。トリュフの歴史を書くことは、世界文明史を書くことを意味する。(アレクサンドル・デュマ) |
トリュフが調味料に、美食家を恍惚境に導くための輪光のような働きをします……トリュフはキノコのモーツァルトです。(ロッシーニ) |
「ジョエルさん、明けましておめでとうございます!(^O^)/」「Bonne Annee!」「ボナネ?(゚O゚)\」 | |
「Bonne Annee! ボナネ!」は、フランス語で新年の挨拶。「よいお年を!」ぐらいの意味で、日本語で言う「あけましておめでとう」、「謹賀新年」の意味です。「bonne ボン」は、「良い」を意味する形容詞bonの女性形。後ろに続く「annee アネ」(年)が女性名詞ですので、形容詞も女性形を用います。 |
「おおっ!?この匂いは?〜(゚Q゚)\」「ワンダフルハウス様、ぺリゴール産フレッシュ黒トリュフでございます」 | |
フレッシュ・トリュフが近くに来るや、その芳香が辺りを圧倒します。香りとか匂いというレベルではありません。生きているトリュフはガスを発散し続けるので、JJの個室は、さながらトリュフのガス室状態となっていたのでした。 |
「神秘的で悩ましい匂いです!〜(~Q~)」 | |
“黒いダイヤモンド”と呼ばれる高貴な塊「トリュフ」はキノコの一種。柏やハシバミの根に寄生し、土の中に育ちます。12月から2月末までが旬。高価で収穫量が極端に少ないゆえにグルメ垂涎の的となり、フランスを代表する贅沢品になりました。しかし、その生育過程はミステリーに包まれています。 |
「ほぅ、これがトリュフですか(^-^)\」 | |
良いトリュフかどうかを見極める方法は3つ。まず香りを嗅ぎ、それから大きさを見て、最後にしげしげとトリュフの肌合いをチェックするのです。 |
「よく見ると不気味です!(゚O゚:)\」 |
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確かにトリュフは不恰好。一見拳骨のようにゴツゴツして、表面は硬い粒状であるゆえに、何か不気味な感じさえします。 |
「ワタシヲ タベ カミヲ アガメヨ!」「ト…ト…トリュフがしゃべった!?(゚O゚)\」「ワンダフルハウス様、今のはジョエルの悪戯でございます」 | |
19世紀の作家であり、ロッシーニとも親交のあったアレクサンドル・デュマの最晩年の著作「Grand dictionnaire de cuisine 大料理事典」(1873年刊)では、トリュフ・ア・ラ・サンドルから始まって、サラッド・ドゥ・トリュフ・ノワール・ア・ラ・リュスにいたるまで、10種のルセットについて書いています。そしてデュマは、ミステリアスなトリュフの秘密はトリュフ自身に訊ねてみないと分からないと、半分匙を投げながら、この不思議な食物の魅力について語っています。 |
「ワンダフルハウス様、年明けから“ぺリゴール産 黒トリュフ・フェアー”を開催しております。こちらがメニューでございます」「ほぅ(^-^)\ 今日はロッシーニをいただきましょう。“トリュフとフォアグラのパイ包み焼き”(18900円)は、トリュフまるごと1個ですか?」「いいえ、1個まるごとではございません」 | |
Festival de la truffe noire du Perigord +サービス料10% |
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Salade d'hiver a la truffe noire フレッシュトリュフのサラダ 6300円 |
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Ueufs brouilles a la truffe goujonnettes トリュフのスクランブルエッグ 6300円 |
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Croustade de truffe “Imperiale” トリュフとフォアグラのパイ包み焼き 18900円 |
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La soupe aux truffes noire en croute feuiletee トリュフのスープ パイ包み焼き 8400円 |
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Dorne de turbot fourree de truffes noire ,et sa mousse sauce a la creme fleurette et sauce perigord 天然ヒラメのトリュフ風味 2色のソース 8400円 |
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Tournedos “Rossini”et sa garniture 八甲田牛フィレ肉のロッシーニ風 トリュフ・フォアグラと共に 15750円 |
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Dessert a la truffe トリュフのスペシャル・デザート 2940円 |
「ワンダフルハウス様、トリュフ尽くしのコースもございます。こちらがメニューでございます」「トリュフを1個まるごとパイ包み焼きにすると、値段はいくらぐらいになりますか?(^-^:A」「今、ジョエルに聞いてきますので少々お待ちください…」 | |
Menu Gastronomique a la truffe 26250円+サービス料10% |
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Crouton “Jean-Rougie” トリュフのカナッペ “ジャン・ルージェ” |
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Oeufs brouilles aux truffes goujonnettes トリュフのスクランブル・エッグ |
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La soupe aux truffes en croute トリュフのスープ パイ包み焼き |
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Turbot JJ a la truffe 天然ヒラメのトリュフ風味 JJスタイル |
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Tournedos “Rossini” et sa garniture 八甲田牛フィレ肉のロッシーニ風 トリュフ・フォアグラと共に |
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Avant dessert プチ・デザート |
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Dessert “Surprise” お楽しみ トリュフのデザート |
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Cafe ou The コーヒー・紅茶 |
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日本において、このようなトリュフ尽くしのフルコースが登場したのは、1988年、山本益博氏がアラン・シャペル氏とジョエル・ロビュション氏を東京・有楽町の「アピシウス」に招いて開いた“トリュフ尽くしの饗宴ディナー”が最初でした。この5日間の催しで300人のお客さんがトリュフの虜になってしまい、翌年から東京のあちこちのレストランで、1月か2月になると、トリュフ尽くしのフルコースが登場するようになったのです。 |
「ワンダフルハウス様、重さにもよりますが、現在の時価ですと1個あたり30000円〜40000円弱だそうです」「30000円〜40000円弱!(゚O゚:)\…あっ、ジョエルさんが来た…」「ワンダフルハウスサン コレナラ 35000エンデ イイデス」「35000円!(゚O゚:)\…そ…それでは、オードブルは、このトリュフを1個まるごとパイ包み焼きで!(゚O゚:)/…メインはロッシーニを!…牛肉じゃなくて鹿肉がいいですね…デセールは…そうですね…“トリュフは黒いダイヤモンドである”と語ったレイモン・オリヴェのスペシャリテ“洋梨 グラン・ヴェフール風”をお願いします!」 |
「ワンダフルハウス様、アミューズの“蓮根と豚肉のソテー コロンボ風味”でございます」「コロンボ風味?(゚O゚)\」 |
「おっ、この粉は?…カレーの匂いがします!〜(^Q^)」 |
「カレーの味です!(^Q^)」 | |
「Colombo コロンボ」というスリランカの首都の名を持つこのミックス・スパイスは、ターメリックの黄色が強く、香りも味もカレー粉によく似ています。フランスでは有名なスパイスだそうです。蓮根と豚肉とは地味な組み合わせですが、コロンボをちょっと乗せるだけで、お洒落になりますね。 |
「おっ!トリュフのパイ包み焼きが…あーっ!?ソースをかけてます!(゚O゚)\」 |
「もう1回…(゚O゚)\」 |
「さらにもう1回…(゚O゚)\」 |
ジョエル・ブリュアン氏の手によって、パイの蓋が被せられました。 |
「ワンダフルハウスサン デキアガリマシタ。 “Truffe fraiche en chemise”!」 |
Truffe fraiche en chemise トリュッフ・フレーシュ・アン・シュミーズ 生のトリュフのパイ包み焼き 35000円+サービス料10% (価格はトリュフの重さと時価によります) |
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トリュッフ・フレーシュ・アン・シュミーズ…シャツを着たフレッシュ・トリュフです! |
「トリュフの下に何か敷いてありますよ?(゚O゚)\」 |
「フォアグラです!(゚O゚)\」 |
「こっ…これは凄い!(゚O゚)\」 |
「まるで…トリュフとフォアグラのハンバーガーです!(゚O゚)\」 |
パイの周りに敷いてあるソースは何でしょう?…微塵切りにした黒トリュフが入った茶色いソース…これは“sauce perigueux ソース・ペリグー”です! |
ソース・ペリグーは、フォン・ド・ヴォーに、マデラ酒を加えて煮詰め、微塵切りにしたトリュフとトリュフのジュースを加えたソースです。ちなみにペリグーとは、トリュフやフォアグラの産地で名高いベリゴール地方の都市の名前ぺリゴールに由来しています。 |
目の前にあるトリュフはパイに包まれていますが、トリュフの存在そのものは不透明なヴェールに包まれています。一体、トリュフというは何なのでしょうか?…簡単に言えばキノコの一種です。ただ、普通のキノコとの最大の違いは、トリュフは地面の下で育ち成長すること。さらにもう一つの大きな相違点は、トリュフの作る子嚢菌(しのうきん)が、カシやハシバミなど親木となる樹木の支根と共棲しながら成長すること。実は現代科学をもってしても、この共存共栄のコミュニケーションが、いかなる関係によって成立しているのかは、まだ解明されていないのです。共棲することで大きくなるトリュフの生成過程は依然謎に包まれていて、どうしてトリュフができるのか誰も分からないのが現状なのです。 |
「クンクン…いい匂いがしますよ。〜(^Q^)ここ掘れワンワン!」 | |
「黒いダイヤモンド」と呼ばれるぺリゴール産の黒トリュフがぺリゴール地方で発見されたのは、今から360年位前のこと。カシの根元を漁って、何かよく分からないゴツゴツした黒い物をかじっていた野猪を捕獲してみたら、それがトリュフだったのです。 |
「トリュフを発見しました!\(^○^)/」 | |
トリュフの発散する匂いで、地中10〜40cmに自生するトリュフを見つけ出す仕事は、一昔前は豚を使っていましたが、現在は犬に取って代わっています。豚はトリュフを好物にしているので、嗅ぎ当てた途端、ガツガツ喰らいついてしまうのです。それに豚は気難しくて意のままに訓練できない、という欠点もあります。その点、犬は人に忠実で調教も易しく、豚と違ってトリュフを見つけてもかぶりつかないから安心してまかせられるのです。 |
ぺリゴール産の黒トリュフの生産量は、この1世紀で激減してしまいました。19世紀から20世紀初頭にかけて、フランス全土で年間1500〜2000トンの生産量があったというのに、あっという間に激減して、現在はせいぜい年間20トンと見る影もありません。世界中でも100トン以内と言われるくらいですから、慢性的に品薄状態が続いているのです。2度の世界大戦による様々な影響、農村の過疎化、土壌の疲弊、トリュフを生む樹木の無計画な伐採、トリュフ栽培の後継者養成を怠ってきたことが原因として考えられます。 |
「パイの蓋をかぶせてみましょう…こんがりキツネ色に焼き上がった小型の西洋兜みたいなパイ…おおっ!?この料理は…(゚O゚)\」 |
Restaurant de la Pyramide Truffes surprise 調理 ギー・ティヴァル 1974年 |
cuisine francaise JJ Truffes surprise 調理 ジョエル・ブリュアン 2009年 |
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「20世紀最高のレストランといわれた…ピラミッドの料理です!(゚O゚)\」 | |
この料理は、ジョエル・ブリュアン氏の師匠であるポール・ボキューズ氏のそのまた師匠にあたるフェルナン・ポワン氏の料理でした。上の写真は、1974年11月25日〜28日の4日間に渡り、当時のピラミッドの調理長ギー・ティヴァル氏が来日して実際にその秘技を披露したときの記録です。12月〜3月までがフレッシュ・トリュフのシーズン。ピラミッドでは、この間に生のトリュフを買い込んで、水煮して煮汁と共に瓶詰めにしてストックしていました。この料理に使うトリュフは、もちろんフレッシュを使います。シーズンの時期には、お客さんからの注文も多かったので、季節のオードブルとして、「Truffes surprise トリュッフ・シュールプリーズ(びっくりトリュフ)」または「Truffe fraiche en chemise トリュッフ・フレーシュ・アン・シュミーズ(シャツを着たフレッシュ・トリュフ)」という料理名でアラカルト・メニューに載っていました。値段は1974年当時で60フラン(当時4200円)。ピラミッドでは、他にも「Truffes sous la cendre トリュッフ・スー・ラ・サンドル」という、トリュフを銀紙にくるんで灰の下に入れて焼く料理もあったようです。 |
パイにナイフを入れます…その瞬間、フワァーッと立ち昇り、熱気と共に鼻を襲ってくるトリュフの香り… |
この香りが、何よりもこの一品の命です!〜(^Q^) |
加熱によって立ち昇ったトリュフの香りがパイ皮で遮られ、閉じ込められて、ジワリジワリとフォアグラに染み通ってゆく…トリュフは、その香りと分泌される奥深いジュース、そして本体の歯触りの三位一体が魅力を構成するのですが、この魅力は他の食材とマッチさせることによって、より一層発揮されるのです。この場合使われるのがフォアグラとは、何とも贅沢です。 |
ソース・ペリグーをかけていただきましょう。 |
サクッとしたパイ皮、柔らかくとろけるフォアグラ、ホクホクしたトリュフが奏でる触覚と味覚の三重奏♪…美味です!(^Q^) |
「お皿の上が凄いことになっています!(゚O゚)\」 |
トリュフをそのままかじってみましょう! |
一切れ口に入れると、まず最初にキリリとした歯応えを感じ…そして後から鼻腔を芳香が駆け上がってきます! そして、何とも言えない繊細な味がワンダフルハウスの舌を溶かしてしまったのでした(^Q^) | |
トリュフこそは、その季節の真っ只中に、獲れたばかりのフレッシュを味わわない限り、その値打ちも魅力もわからないものなのです。 |
「ワンダフルハウス様、“Noisette de chevreuil a notre facon Rossini”でございます」 | |
1792年2月29日、イタリアの地方都市ペーザロで、音楽家の父ジュゼッペ・アントニオ・ロッシーニと、後に歌手となる母アンナ・グイダリーニ夫妻の一人息子として、ジョアキーノ・アントニオ・ロッシーニが生まれました。6歳の時に両親がペーザロを離れ、地方劇場で巡業生活に入ります。8歳の時にボローニャで両親に引き取られるまでの2年間、幼いジョアキーノは豚肉屋に寄宿させられ、肉屋の主人になりたいという夢を持ちます。 |
Noisette de chevreuil a notre facon “Rossini” ノワゼット・ドゥ・シュヴルイユ・ア・ノートル・ファソン “ロッシーニ” 鹿のロッシーニ風 (トリュフ増量版) |
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「おおっ!?フォアグラが真っ黒です!(゚O゚)\」 | |
ジョアキーノは、幼少時より音楽に抜群の才能を見せ、6歳でペーザロ市楽団の打楽器奏者になり、8歳でスピネット(当時ヨーロッパで流行していた家庭用小型鍵盤楽器)を学び、9歳で歌曲を作曲。10歳でチェンバロと歌を学び、ハイドンとモーツァルトの作品に親しみます。12歳でボーイ・ソプラノとして母と共演。弦楽四重奏曲を作曲。13歳の時、一家でボローニャへ移住。神父からソルフェージュ(楽譜を読むことを中心とした基礎訓練)と数字低音を学びます。14歳でボローニャ音楽学校入学。歌手としての才能が認められ、音楽アカデミー会員となり、最初の歌劇「デメトリオとポリビオ」を作曲します。(この作品が初演されたのは6年後)。16歳でミサ曲、カンタータなどを作曲。17歳でチェンバロ・マエストロとして歌劇上演に参加。1810年、18歳でボローニャ音楽学校を中退し、ヴェネツィアのサン・モイゼ劇場支配人の依頼で歌劇「結婚手形」を作曲。11月3日に初演され、オペラ作曲家としてデビューするやいなや、すぐに名声を確立し、以後はオペラ界のスーパー売れっ子となって、文字通り書きまくります。 |
「フォアグラが焦げてます!(ToT)\」「ワンダフルハウス様、よく御覧ください」「ん?(・・\」 | |
ロッシーニは時代の流れに乗って、21歳の若さで有り余るほどの名声を手に入れてしまいます。トリュフとフォアグラをこよなく愛し、料理の創作にも情熱を注ぎ、美食三昧の日々を送ったロッシーニ。スタンダールの1820年12月22日付の書簡には、「ロッシーニは毎日20枚ものステーキを平らげ、すごく太っている」と書かれていますから、28歳の若さで周囲も驚く大食漢になっていたことになります。1822年、30歳で結婚。ウィーンで「ロッシーニ祭」が開催されてブームを巻き起こす中、52歳のベートーヴェンを訪問します。1824年、32歳の時にロンドンでも「ロッシーニ祭」が行われ、ヨーロッパ中がフィーバーする中、パリに到着したロッシーニは、フランス政府の要請でイタリア劇場の総支配人となります。その年、ロッシーニは、莫大な富を背景に王政復古以降のフランス経済を牛耳っていたロートシルト(ロスチャイルド)男爵家を訪れ、40歳の天才料理人アントナン・カレームに出会います。 | |
フランス料理を芸術の域に高めた天才、それが「Antonin Careme アントナン・カレーム」(1784〜1833)です。子沢山の貧しい家庭に生まれ、9歳で路上に捨てられたカレームは、安食堂の見習いから身を起こし、やがて料理人として頭角を現します。食通の外務大臣タレイランに評価されて王宮の厨房を任されると、各国の王侯貴族と外交官を美食でもてなし、政治的に重要な役割を果たします。そして皇太子時代のイギリス国王ジョージ4世、ロシア皇帝アレクサンドル1世、オーストリア帝国皇帝フランツ1世、パリの銀行家ロートシルト家のシェフを歴任し、「王の料理人、料理人の王」と呼ばれる栄誉を得たのでした。独学で建築学も学んだカレームは、菓子で作った建築物「ピエスモンテ」でテーブルを飾り、その食卓演出は全ての美食家を唸らせたと言われています。 |
「おおっ!?よく見ると、黒いのは全部トリュフです!(゚O゚)\」 | |
ロッシーニにとって最高のトリュフは、ノルチャの黒トリュフとピエモンテの白トリュフでした。イタリアから送ってもらったり、パリのイタリア食品店で購入していました。他の産地のトリュフについては何も語っていないことから、フランスで最高のぺリゴール産黒トリュフよりも優れていると考えていたようです。 | |
1825年33歳の時、フランス王シャルル10世の戴冠を祝して喜歌劇「ランスへの旅」を作曲。1826年34歳で国王付首席作曲家、フランスの声楽総監督となり、王立アカデミー劇場(現在のオペラ座)をも支配したロッシーニは、劇場監督として年収20000フラン、名誉職で年収20000フラン、さらに楽譜の出版と再演で莫大な収入を得て、歴史上、最もリッチな音楽家になります。そして、この年、ブリア・サヴァランの「美味礼賛」(原題「味覚の生理学」が出版され、パリでは空前のグルメ・ブームが巻き起こります。美味追求がオペラなどの芸術や学問と同質の文化と理解され、「gastronomie ガストロノミー」(美食学)が誕生。グルメ・ブームの真っ只中に身を置くロッシーニは、オペラ座のために年1作の歌劇を作曲するかたわら、「パリNo.1の食通」の名声を得ます。 |
「フォアグラが全然見えない…こ…これは凄い!(゚O゚)\」 | |
トゥルヌドは、フィレ肉の上等な部位ですから、そのステーキを「ロッシーニ風」と称するには別な条件が必要です。それが肉に乗ったトリュフとフォアグラ。この組み合わせをロッシーニが頻繁に料理へ用いたことから、「トリュフとフォアグラの組み合わせ」を「ロッシーニ風」と呼ぶようになりました。ロッシーニは世界3大珍味のうち2つの食材を自分の料理の基本素材にしたのです。 | |
パリを征服して初めて頂点を極めたことになる…パリに戻ったカレームは、イギリス国王ジョージ4世を優れた美食家と認めていましたが、国王から何度招聘状をもらおうと、破格の給金と年金が約束されようと、再びイギリスに渡ることはありませんでした。ロッシーニも同様に各国からの申し出を断り、パリを自己の芸術の完成地に選んだのです。カレームがロートシルト家の料理長を務めたのは1823〜1829年。奇しくもロッシーニがパリでオペラ作曲家として活躍した時期(1824〜1829年)と一致します。ロッシーニは、ロートシルト家を訪れると、まず調理場に顔を出して、カレームと料理について対話し、それから主人に挨拶したといわれるほど、この天才料理人に惚れ込んでいました。そしてカレームも、王侯貴族から受けた賛辞よりも、天才作曲家で美食家のロッシーニから賞賛されたことを誇りにしたのでした。 |
「“Tournedos Rossini トゥルヌド・ロッシーニ”…19世紀前半の古典料理の精華の一つと見なされ、ロッシーニの名をフランス料理史に永遠に留める偉大な料理の裏には、アントナン・カレームの姿が見え隠れしています!(゚O゚)\」 | |
カレームの食卓演出は、単に料理を美味しく食べることだけに配慮するのではなく、料理と環境を取り巻くあらゆる素材を使って構成した舞台芸術というべきものでした。 |
「ほぅ、これが“トゥルヌド ロッシーニ”ですか…(゚O゚)\」 | |
牛フィレ肉は(この場合は鹿のフィレ肉ですが)、背骨の内側にそってサーロインに包まれて左右に1本ずつある棒状(細長い円錐形)の肉。最上の部位の一つとされ、脂肪が少なく、肉質のキメが細かくやわらかいのが特長。輪切りにしてステーキやヒレカツに用いられます。最も太い部分をシャトーブリアン、次をトゥルヌド、細い部分をフィレミニョンといいます。 | |
しかし、どんなに技巧を凝らした料理も、あっという間にバラバラにされ食べられる運命にあります。そのことがカレームを著作に駆り立てます。「自分の時代の料理芸術について、全てを書かなければならない」と、ひたすら料理書を書き続けました。その執念は、書くことなしには自らの存在も、完成した料理芸術も無に帰してしまうという思いから出ていたのでした。 |
トリュフ フォアグラのポワレ 鹿フィレ肉 ブリオッシュ ↑\(^○^)/↑ |
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厚さ2cmほどの牛フィレ肉を4枚用意し、周りを細紐で縛って形を保つ。塩胡椒をふり、バターで両面を返し焼きする。トゥルヌドと同じ厚さのパンのクルトン4枚をバターで揚げ、食卓へ出す皿に並べる。それぞれのトゥルヌドの上にバターで返し焼きしたフォアグラのエスキャロップ1枚とトリュフの薄切り3枚を乗せ、クルトンの上に並べる。肉の焼き汁にカップ半杯のマデラ酒(フランス料理の場合)かマルサラ酒(イタリア料理の場合)を混ぜてトゥルヌドにかける。熱いところを供する。 モッレージ「マルケの歴史的・民族的料理」 |
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ロッシーニ・フィーバーが、ほとんどヒステリーのごとく昴まった1829年、歌劇「ウィリアム・テル」の大成功により、ロッシーニは時代の最も重要な作曲家になります。シャルル10世よりレジオン・ドヌール勲章を授与され、2年毎の新作契約を結び、終身年金を保証されて、妻と共にボローニャへ帰還します。 |
「凄いボリュームです!(゚O゚)\」 | |
トゥルヌドをソテーし、濃縮肉汁をかけた揚げクルトンの上に置く。それぞれのトゥルヌドへバターでソテーしたフォアグラのエスキャロップを乗せ、その上に数枚のトリュフの薄切りを飾る。マデラ酒とトリュフ・エッセンス入ドゥミグラスでデグラッセした焼き汁をかける。 エスコフィエ「料理の手引き」 |
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その頃、パリでは食料不足の嵐が吹き荒れ、翌1830年7月27日、経済の停滞と言論統制に対する民衆の怒りが爆発! この七月革命によってシャルル10世は追放され、ブルボン王朝は終焉しました。ボローニャにいたロッシーニは、国王と交わした新作契約(1作品15000フラン)と終身年金(年6000フラン)が革命によって無効になったことを知り、新政府を相手に訴訟を起こします。失意のうちにオペラ作曲の筆を折り、37歳で引退してイタリアに帰ったロッシーニにとって、美食は唯一の生きがいとなったのです。そして、カレームは「19世紀フランス料理技術」3巻と「回想録」を遺し、1833年1月12日没します。 |