わんだふるはうすcuisine francaise JJに行く
黒トリュフ・フェア
ロッシーニ

「大人になったら豚肉屋になるつもりだったのに、間違えて作曲家になってしまった」。子供時代をソーセージの本場ボローニャで過ごしたジョアキーノ・アントーニオ・ロッシーニ(Gioachino Antonio Rossini 1792年2月29日〜1868年11月13日)は、早くから美食の本能に目覚め、豚肉屋への憧れを抱いて育ちながら、歌劇「セビリアの理髪師」や「ギョーム・テル(ウィリアム・テル)」などのオペラ作曲家として、19世紀前半の初期ロマン派のオペラ界を制覇します。そして1820年代のパリで、黄金時代を築いていた天才料理人アントナン・カレームとの出会いがロッシーニを本物の美食家へと鍛え上げました。ロッシーニは、カレームが認めたほどの食通・美食家で、マカロニ調理の達人であり、生のパスタの産地を見分けられるほどの目利きでした。彼が考案したとされる「トゥヌルド・ロッシーニ Tournedos Rossini」は、現在でもレストランのメニューに見ることができます。1860年3月、ロッシーニを崇拝していた46歳のワーグナーは、パリ9区ショセ・ダンタン地区にあったロッシーニの自宅を訪ねます。その時、68歳のロッシーニは鹿の肉を焼きながらワーグナーの到着を待っていたのでした。2009年1月、東京ミッドタウンにあるジョエル・ブリュアンさんのお店「cuisine francaise JJ キュイジーヌ・フランセーズ・ジェイジェイ」をワンダフルハウスが訪ね、ぺリゴール産フレッシュ・黒トリュフをふんだんに使用した「鹿のロッシーニ ワーグナー風」を作っていただきました。メニューの数々を順番に紹介いたします。

トリュフは極めて不思議な魅力を持ち、最も香り高く、確かな徳を備えている。まさに料理の「Diamant noir ディアマン・ノワール」(黒いダイヤモンド)である。シェフの口の中でトリュフは贅沢な感触、豪華さそのものを意味する。料理にとってトリュフは、裁縫にとっての刺繍に等しい。(レイモン・オリヴェ)
トリュフはぺリゴール料理の香り高き魂である。トリュフがフォアグラに対するは、真珠が宝石箱に対するがごとし。(キュルノンスキー)
冷たく表面が粒々にして、根も無しに生えてくる驚くべき黒トリュフは、神秘的に成長するので大地にとって無縁なもののように見える。(コレット)
私がこれを書いている現在(1825年)、トリュフの栄光は頂点に達しているといえよう。アントレがそれ自体どんなに美味しいものであったとしても、トリュフの味つけがなければ格好がつかない。“プロヴァンス風トリュフ”の話を聞くだけで生唾が出るのを感じない人がいるだろうか。(ブリア・サヴァラン)
(紀元前の)人々は学者たちにトリュフの正体を尋ねた。2000年の議論を経た後でも、学者たちは最初の日と同じように答える。「何もわからない…」。トリュフそのものに尋ねたらこう答えた。「私を食べ、そして神を崇めよ」。トリュフの歴史を書くことは、世界文明史を書くことを意味する。(アレクサンドル・デュマ)
トリュフが調味料に、美食家を恍惚境に導くための輪光のような働きをします……トリュフはキノコのモーツァルトです。(ロッシーニ)
「ジョエルさん、明けましておめでとうございます!(^O^)/」「Bonne Annee!」「ボナネ?(゚O゚)\」
「Bonne Annee! ボナネ!」は、フランス語で新年の挨拶。「よいお年を!」ぐらいの意味で、日本語で言う「あけましておめでとう」、「謹賀新年」の意味です。「bonne ボン」は、「良い」を意味する形容詞bonの女性形。後ろに続く「annee アネ」(年)が女性名詞ですので、形容詞も女性形を用います。
「おおっ!?この匂いは?〜(゚Q゚)\」「ワンダフルハウス様、ぺリゴール産フレッシュ黒トリュフでございます」
フレッシュ・トリュフが近くに来るや、その芳香が辺りを圧倒します。香りとか匂いというレベルではありません。生きているトリュフはガスを発散し続けるので、JJの個室は、さながらトリュフのガス室状態となっていたのでした。
「神秘的で悩ましい匂いです!〜(~Q~)」
“黒いダイヤモンド”と呼ばれる高貴な塊「トリュフ」はキノコの一種。柏やハシバミの根に寄生し、土の中に育ちます。12月から2月末までが旬。高価で収穫量が極端に少ないゆえにグルメ垂涎の的となり、フランスを代表する贅沢品になりました。しかし、その生育過程はミステリーに包まれています。
「ほぅ、これがトリュフですか(^-^)\」
良いトリュフかどうかを見極める方法は3つ。まず香りを嗅ぎ、それから大きさを見て、最後にしげしげとトリュフの肌合いをチェックするのです。

「よく見ると不気味です!(゚O゚:)\

確かにトリュフは不恰好。一見拳骨のようにゴツゴツして、表面は硬い粒状であるゆえに、何か不気味な感じさえします。
「ワタシヲ タベ カミヲ アガメヨ!」「ト…ト…トリュフがしゃべった!?(゚O゚)\」「ワンダフルハウス様、今のはジョエルの悪戯でございます」
19世紀の作家であり、ロッシーニとも親交のあったアレクサンドル・デュマの最晩年の著作「Grand dictionnaire de cuisine 大料理事典」(1873年刊)では、トリュフ・ア・ラ・サンドルから始まって、サラッド・ドゥ・トリュフ・ノワール・ア・ラ・リュスにいたるまで、10種のルセットについて書いています。そしてデュマは、ミステリアスなトリュフの秘密はトリュフ自身に訊ねてみないと分からないと、半分匙を投げながら、この不思議な食物の魅力について語っています。
「ワンダフルハウス様、年明けから“ぺリゴール産 黒トリュフ・フェアー”を開催しております。こちらがメニューでございます」「ほぅ(^-^)\ 今日はロッシーニをいただきましょう。“トリュフとフォアグラのパイ包み焼き”(18900円)は、トリュフまるごと1個ですか?」「いいえ、1個まるごとではございません」
Festival de la truffe noire du Perigord
+サービス料10%
Salade d'hiver a la truffe noire
フレッシュトリュフのサラダ
6300円
Ueufs brouilles a la truffe goujonnettes
トリュフのスクランブルエッグ
6300円
Croustade de truffe “Imperiale”
トリュフとフォアグラのパイ包み焼き
18900円
La soupe aux truffes noire en croute feuiletee
トリュフのスープ パイ包み焼き
8400円
Dorne de turbot fourree de truffes noire ,et sa mousse
sauce a la creme fleurette et sauce perigord
天然ヒラメのトリュフ風味 2色のソース
8400円
Tournedos “Rossini”et sa garniture
八甲田牛フィレ肉のロッシーニ風 トリュフ・フォアグラと共に
15750円
Dessert a la truffe
トリュフのスペシャル・デザート
2940円
「ワンダフルハウス様、トリュフ尽くしのコースもございます。こちらがメニューでございます」「トリュフを1個まるごとパイ包み焼きにすると、値段はいくらぐらいになりますか?(^-^:A」「今、ジョエルに聞いてきますので少々お待ちください…」
Menu Gastronomique a la truffe
26250円+サービス料10%
Crouton “Jean-Rougie”
トリュフのカナッペ “ジャン・ルージェ”
Oeufs brouilles aux truffes goujonnettes
トリュフのスクランブル・エッグ
La soupe aux truffes en croute
トリュフのスープ パイ包み焼き
Turbot JJ a la truffe
天然ヒラメのトリュフ風味 JJスタイル
Tournedos “Rossini” et sa garniture
八甲田牛フィレ肉のロッシーニ風 トリュフ・フォアグラと共に
Avant dessert
プチ・デザート
Dessert “Surprise”
お楽しみ トリュフのデザート
Cafe ou The
コーヒー・紅茶
日本において、このようなトリュフ尽くしのフルコースが登場したのは、1988年、山本益博氏がアラン・シャペル氏とジョエル・ロビュション氏を東京・有楽町の「アピシウス」に招いて開いた“トリュフ尽くしの饗宴ディナー”が最初でした。この5日間の催しで300人のお客さんがトリュフの虜になってしまい、翌年から東京のあちこちのレストランで、1月か2月になると、トリュフ尽くしのフルコースが登場するようになったのです。

「ワンダフルハウス様、重さにもよりますが、現在の時価ですと1個あたり30000円〜40000円弱だそうです」「30000円〜40000円弱!(゚O゚:)\…あっ、ジョエルさんが来た…」「ワンダフルハウスサン コレナラ 35000エンデ イイデス」「35000円!(゚O゚:)\…そ…それでは、オードブルは、このトリュフを1個まるごとパイ包み焼きで!(゚O゚:)/…メインはロッシーニを!…牛肉じゃなくて鹿肉がいいですね…デセールは…そうですね…“トリュフは黒いダイヤモンドである”と語ったレイモン・オリヴェのスペシャリテ“洋梨 グラン・ヴェフール風”をお願いします!

Amuse bouche

「ワンダフルハウス様、アミューズの“蓮根と豚肉のソテー コロンボ風味”でございます」「コロンボ風味?(゚O゚)\」
「おっ、この粉は?…カレーの匂いがします!〜(^Q^)」
「カレーの味です!(^Q^)」
「Colombo コロンボ」というスリランカの首都の名を持つこのミックス・スパイスは、ターメリックの黄色が強く、香りも味もカレー粉によく似ています。フランスでは有名なスパイスだそうです。蓮根と豚肉とは地味な組み合わせですが、コロンボをちょっと乗せるだけで、お洒落になりますね。

Hors d'oeuvre

「おっ!トリュフのパイ包み焼きが…あーっ!?ソースをかけてます!(゚O゚)\」
「もう1回…(゚O゚)\」
「さらにもう1回…(゚O゚)\」
ジョエル・ブリュアン氏の手によって、パイの蓋が被せられました。
「ワンダフルハウスサン デキアガリマシタ。 “Truffe fraiche en chemise”!」
Truffe fraiche en chemise
トリュッフ・フレーシュ・アン・シュミーズ
生のトリュフのパイ包み焼き
35000円+サービス料10%
(価格はトリュフの重さと時価によります)
トリュッフ・フレーシュ・アン・シュミーズ…シャツを着たフレッシュ・トリュフです!
「トリュフの下に何か敷いてありますよ?(゚O゚)\」
「フォアグラです!(゚O゚)\」
「こっ…これは凄い!(゚O゚)\」
「まるで…トリュフとフォアグラのハンバーガーです!(゚O゚)\」
パイの周りに敷いてあるソースは何でしょう?…微塵切りにした黒トリュフが入った茶色いソース…これは“sauce perigueux ソース・ペリグー”です!
ソース・ペリグーは、フォン・ド・ヴォーに、マデラ酒を加えて煮詰め、微塵切りにしたトリュフとトリュフのジュースを加えたソースです。ちなみにペリグーとは、トリュフやフォアグラの産地で名高いベリゴール地方の都市の名前ぺリゴールに由来しています。
目の前にあるトリュフはパイに包まれていますが、トリュフの存在そのものは不透明なヴェールに包まれています。一体、トリュフというは何なのでしょうか?…簡単に言えばキノコの一種です。ただ、普通のキノコとの最大の違いは、トリュフは地面の下で育ち成長すること。さらにもう一つの大きな相違点は、トリュフの作る子嚢菌(しのうきん)が、カシやハシバミなど親木となる樹木の支根と共棲しながら成長すること。実は現代科学をもってしても、この共存共栄のコミュニケーションが、いかなる関係によって成立しているのかは、まだ解明されていないのです。共棲することで大きくなるトリュフの生成過程は依然謎に包まれていて、どうしてトリュフができるのか誰も分からないのが現状なのです。
「クンクン…いい匂いがしますよ。〜(^Q^)ここ掘れワンワン!
「黒いダイヤモンド」と呼ばれるぺリゴール産の黒トリュフがぺリゴール地方で発見されたのは、今から360年位前のこと。カシの根元を漁って、何かよく分からないゴツゴツした黒い物をかじっていた野猪を捕獲してみたら、それがトリュフだったのです。
「トリュフを発見しました!\(^○^)/」
トリュフの発散する匂いで、地中10〜40cmに自生するトリュフを見つけ出す仕事は、一昔前は豚を使っていましたが、現在は犬に取って代わっています。豚はトリュフを好物にしているので、嗅ぎ当てた途端、ガツガツ喰らいついてしまうのです。それに豚は気難しくて意のままに訓練できない、という欠点もあります。その点、犬は人に忠実で調教も易しく、豚と違ってトリュフを見つけてもかぶりつかないから安心してまかせられるのです。
ぺリゴール産の黒トリュフの生産量は、この1世紀で激減してしまいました。19世紀から20世紀初頭にかけて、フランス全土で年間1500〜2000トンの生産量があったというのに、あっという間に激減して、現在はせいぜい年間20トンと見る影もありません。世界中でも100トン以内と言われるくらいですから、慢性的に品薄状態が続いているのです。2度の世界大戦による様々な影響、農村の過疎化、土壌の疲弊、トリュフを生む樹木の無計画な伐採、トリュフ栽培の後継者養成を怠ってきたことが原因として考えられます。
「パイの蓋をかぶせてみましょう…こんがりキツネ色に焼き上がった小型の西洋兜みたいなパイ…おおっ!?この料理は…(゚O゚)\」
Restaurant de la Pyramide
Truffes surprise
調理 ギー・ティヴァル
1974年
cuisine francaise JJ
Truffes surprise
調理 ジョエル・ブリュアン
2009年
「20世紀最高のレストランといわれた…ピラミッドの料理です!(゚O゚)\」
この料理は、ジョエル・ブリュアン氏の師匠であるポール・ボキューズ氏のそのまた師匠にあたるフェルナン・ポワン氏の料理でした。上の写真は、1974年11月25日〜28日の4日間に渡り、当時のピラミッドの調理長ギー・ティヴァル氏が来日して実際にその秘技を披露したときの記録です。12月〜3月までがフレッシュ・トリュフのシーズン。ピラミッドでは、この間に生のトリュフを買い込んで、水煮して煮汁と共に瓶詰めにしてストックしていました。この料理に使うトリュフは、もちろんフレッシュを使います。シーズンの時期には、お客さんからの注文も多かったので、季節のオードブルとして、「Truffes surprise トリュッフ・シュールプリーズ(びっくりトリュフ)」または「Truffe fraiche en chemise トリュッフ・フレーシュ・アン・シュミーズ(シャツを着たフレッシュ・トリュフ)」という料理名でアラカルト・メニューに載っていました。値段は1974年当時で60フラン(当時4200円)。ピラミッドでは、他にも「Truffes sous la cendre トリュッフ・スー・ラ・サンドル」という、トリュフを銀紙にくるんで灰の下に入れて焼く料理もあったようです。
パイにナイフを入れます…その瞬間、フワァーッと立ち昇り、熱気と共に鼻を襲ってくるトリュフの香り…
この香りが、何よりもこの一品の命です!〜(^Q^)
加熱によって立ち昇ったトリュフの香りがパイ皮で遮られ、閉じ込められて、ジワリジワリとフォアグラに染み通ってゆく…トリュフは、その香りと分泌される奥深いジュース、そして本体の歯触りの三位一体が魅力を構成するのですが、この魅力は他の食材とマッチさせることによって、より一層発揮されるのです。この場合使われるのがフォアグラとは、何とも贅沢です。
ソース・ペリグーをかけていただきましょう。
サクッとしたパイ皮、柔らかくとろけるフォアグラ、ホクホクしたトリュフが奏でる触覚と味覚の三重奏♪…美味です!(^Q^)
「お皿の上が凄いことになっています!(゚O゚)\」
トリュフをそのままかじってみましょう!
一切れ口に入れると、まず最初にキリリとした歯応えを感じ…そして後から鼻腔を芳香が駆け上がってきます! そして、何とも言えない繊細な味がワンダフルハウスの舌を溶かしてしまったのでした(^Q^)
トリュフこそは、その季節の真っ只中に、獲れたばかりのフレッシュを味わわない限り、その値打ちも魅力もわからないものなのです。

Gibier

「ワンダフルハウス様、“Noisette de chevreuil a notre facon Rossini”でございます」
1792年2月29日、イタリアの地方都市ペーザロで、音楽家の父ジュゼッペ・アントニオ・ロッシーニと、後に歌手となる母アンナ・グイダリーニ夫妻の一人息子として、ジョアキーノ・アントニオ・ロッシーニが生まれました。6歳の時に両親がペーザロを離れ、地方劇場で巡業生活に入ります。8歳の時にボローニャで両親に引き取られるまでの2年間、幼いジョアキーノは豚肉屋に寄宿させられ、肉屋の主人になりたいという夢を持ちます。
Noisette de chevreuil a notre facon “Rossini”
ノワゼット・ドゥ・シュヴルイユ・ア・ノートル・ファソン “ロッシーニ”
鹿のロッシーニ風
(トリュフ増量版)
「おおっ!?フォアグラが真っ黒です!(゚O゚)\」
ジョアキーノは、幼少時より音楽に抜群の才能を見せ、6歳でペーザロ市楽団の打楽器奏者になり、8歳でスピネット(当時ヨーロッパで流行していた家庭用小型鍵盤楽器)を学び、9歳で歌曲を作曲。10歳でチェンバロと歌を学び、ハイドンとモーツァルトの作品に親しみます。12歳でボーイ・ソプラノとして母と共演。弦楽四重奏曲を作曲。13歳の時、一家でボローニャへ移住。神父からソルフェージュ(楽譜を読むことを中心とした基礎訓練)と数字低音を学びます。14歳でボローニャ音楽学校入学。歌手としての才能が認められ、音楽アカデミー会員となり、最初の歌劇「デメトリオとポリビオ」を作曲します。(この作品が初演されたのは6年後)。16歳でミサ曲、カンタータなどを作曲。17歳でチェンバロ・マエストロとして歌劇上演に参加。1810年、18歳でボローニャ音楽学校を中退し、ヴェネツィアのサン・モイゼ劇場支配人の依頼で歌劇「結婚手形」を作曲。11月3日に初演され、オペラ作曲家としてデビューするやいなや、すぐに名声を確立し、以後はオペラ界のスーパー売れっ子となって、文字通り書きまくります。
「フォアグラが焦げてます!(ToT)\」「ワンダフルハウス様、よく御覧ください」「ん?(・・\」
ロッシーニは時代の流れに乗って、21歳の若さで有り余るほどの名声を手に入れてしまいます。トリュフとフォアグラをこよなく愛し、料理の創作にも情熱を注ぎ、美食三昧の日々を送ったロッシーニ。スタンダールの1820年12月22日付の書簡には、「ロッシーニは毎日20枚ものステーキを平らげ、すごく太っている」と書かれていますから、28歳の若さで周囲も驚く大食漢になっていたことになります。1822年、30歳で結婚。ウィーンで「ロッシーニ祭」が開催されてブームを巻き起こす中、52歳のベートーヴェンを訪問します。1824年、32歳の時にロンドンでも「ロッシーニ祭」が行われ、ヨーロッパ中がフィーバーする中、パリに到着したロッシーニは、フランス政府の要請でイタリア劇場の総支配人となります。その年、ロッシーニは、莫大な富を背景に王政復古以降のフランス経済を牛耳っていたロートシルト(ロスチャイルド)男爵家を訪れ、40歳の天才料理人アントナン・カレームに出会います。
フランス料理を芸術の域に高めた天才、それが「Antonin Careme アントナン・カレーム」(1784〜1833)です。子沢山の貧しい家庭に生まれ、9歳で路上に捨てられたカレームは、安食堂の見習いから身を起こし、やがて料理人として頭角を現します。食通の外務大臣タレイランに評価されて王宮の厨房を任されると、各国の王侯貴族と外交官を美食でもてなし、政治的に重要な役割を果たします。そして皇太子時代のイギリス国王ジョージ4世、ロシア皇帝アレクサンドル1世、オーストリア帝国皇帝フランツ1世、パリの銀行家ロートシルト家のシェフを歴任し、「王の料理人、料理人の王」と呼ばれる栄誉を得たのでした。独学で建築学も学んだカレームは、菓子で作った建築物「ピエスモンテ」でテーブルを飾り、その食卓演出は全ての美食家を唸らせたと言われています。
「おおっ!?よく見ると、黒いのは全部トリュフです!(゚O゚)\」
ロッシーニにとって最高のトリュフは、ノルチャの黒トリュフとピエモンテの白トリュフでした。イタリアから送ってもらったり、パリのイタリア食品店で購入していました。他の産地のトリュフについては何も語っていないことから、フランスで最高のぺリゴール産黒トリュフよりも優れていると考えていたようです。
1825年33歳の時、フランス王シャルル10世の戴冠を祝して喜歌劇「ランスへの旅」を作曲。1826年34歳で国王付首席作曲家、フランスの声楽総監督となり、王立アカデミー劇場(現在のオペラ座)をも支配したロッシーニは、劇場監督として年収20000フラン、名誉職で年収20000フラン、さらに楽譜の出版と再演で莫大な収入を得て、歴史上、最もリッチな音楽家になります。そして、この年、ブリア・サヴァランの「美味礼賛」(原題「味覚の生理学」が出版され、パリでは空前のグルメ・ブームが巻き起こります。美味追求がオペラなどの芸術や学問と同質の文化と理解され、「gastronomie ガストロノミー」(美食学)が誕生。グルメ・ブームの真っ只中に身を置くロッシーニは、オペラ座のために年1作の歌劇を作曲するかたわら、「パリNo.1の食通」の名声を得ます。
「フォアグラが全然見えない…こ…これは凄い!(゚O゚)\」
トゥルヌドは、フィレ肉の上等な部位ですから、そのステーキを「ロッシーニ風」と称するには別な条件が必要です。それが肉に乗ったトリュフとフォアグラ。この組み合わせをロッシーニが頻繁に料理へ用いたことから、「トリュフとフォアグラの組み合わせ」を「ロッシーニ風」と呼ぶようになりました。ロッシーニは世界3大珍味のうち2つの食材を自分の料理の基本素材にしたのです。
パリを征服して初めて頂点を極めたことになる…パリに戻ったカレームは、イギリス国王ジョージ4世を優れた美食家と認めていましたが、国王から何度招聘状をもらおうと、破格の給金と年金が約束されようと、再びイギリスに渡ることはありませんでした。ロッシーニも同様に各国からの申し出を断り、パリを自己の芸術の完成地に選んだのです。カレームがロートシルト家の料理長を務めたのは1823〜1829年。奇しくもロッシーニがパリでオペラ作曲家として活躍した時期(1824〜1829年)と一致します。ロッシーニは、ロートシルト家を訪れると、まず調理場に顔を出して、カレームと料理について対話し、それから主人に挨拶したといわれるほど、この天才料理人に惚れ込んでいました。そしてカレームも、王侯貴族から受けた賛辞よりも、天才作曲家で美食家のロッシーニから賞賛されたことを誇りにしたのでした。
「“Tournedos Rossini トゥルヌド・ロッシーニ”…19世紀前半の古典料理の精華の一つと見なされ、ロッシーニの名をフランス料理史に永遠に留める偉大な料理の裏には、アントナン・カレームの姿が見え隠れしています!(゚O゚)\」
カレームの食卓演出は、単に料理を美味しく食べることだけに配慮するのではなく、料理と環境を取り巻くあらゆる素材を使って構成した舞台芸術というべきものでした。
「ほぅ、これが“トゥルヌド ロッシーニ”ですか…(゚O゚)\」
牛フィレ肉は(この場合は鹿のフィレ肉ですが)、背骨の内側にそってサーロインに包まれて左右に1本ずつある棒状(細長い円錐形)の肉。最上の部位の一つとされ、脂肪が少なく、肉質のキメが細かくやわらかいのが特長。輪切りにしてステーキやヒレカツに用いられます。最も太い部分をシャトーブリアン、次をトゥルヌド、細い部分をフィレミニョンといいます。
しかし、どんなに技巧を凝らした料理も、あっという間にバラバラにされ食べられる運命にあります。そのことがカレームを著作に駆り立てます。「自分の時代の料理芸術について、全てを書かなければならない」と、ひたすら料理書を書き続けました。その執念は、書くことなしには自らの存在も、完成した料理芸術も無に帰してしまうという思いから出ていたのでした。
トリュフ
フォアグラのポワレ
鹿フィレ肉
ブリオッシュ
↑\(^○^)/↑
厚さ2cmほどの牛フィレ肉を4枚用意し、周りを細紐で縛って形を保つ。塩胡椒をふり、バターで両面を返し焼きする。トゥルヌドと同じ厚さのパンのクルトン4枚をバターで揚げ、食卓へ出す皿に並べる。それぞれのトゥルヌドの上にバターで返し焼きしたフォアグラのエスキャロップ1枚とトリュフの薄切り3枚を乗せ、クルトンの上に並べる。肉の焼き汁にカップ半杯のマデラ酒(フランス料理の場合)かマルサラ酒(イタリア料理の場合)を混ぜてトゥルヌドにかける。熱いところを供する。
モッレージ「マルケの歴史的・民族的料理」
ロッシーニ・フィーバーが、ほとんどヒステリーのごとく昴まった1829年、歌劇「ウィリアム・テル」の大成功により、ロッシーニは時代の最も重要な作曲家になります。シャルル10世よりレジオン・ドヌール勲章を授与され、2年毎の新作契約を結び、終身年金を保証されて、妻と共にボローニャへ帰還します。
「凄いボリュームです!(゚O゚)\」
トゥルヌドをソテーし、濃縮肉汁をかけた揚げクルトンの上に置く。それぞれのトゥルヌドへバターでソテーしたフォアグラのエスキャロップを乗せ、その上に数枚のトリュフの薄切りを飾る。マデラ酒とトリュフ・エッセンス入ドゥミグラスでデグラッセした焼き汁をかける。
エスコフィエ「料理の手引き」
その頃、パリでは食料不足の嵐が吹き荒れ、翌1830年7月27日、経済の停滞と言論統制に対する民衆の怒りが爆発! この七月革命によってシャルル10世は追放され、ブルボン王朝は終焉しました。ボローニャにいたロッシーニは、国王と交わした新作契約(1作品15000フラン)と終身年金(年6000フラン)が革命によって無効になったことを知り、新政府を相手に訴訟を起こします。失意のうちにオペラ作曲の筆を折り、37歳で引退してイタリアに帰ったロッシーニにとって、美食は唯一の生きがいとなったのです。そして、カレームは「19世紀フランス料理技術」3巻と「回想録」を遺し、1833年1月12日没します。
「このソースは…先ほどのパイ包み焼きと同じソース・ペリグーです!」
1836年ロッシーニは七月革命で効力を失った終身年金をめぐる政府との訴訟に勝って、晴れて年金生活者となります。1839年、ボローニャ音楽院の名誉院長となった頃から様々な病気に苦しみ始め、1855年、治療を受けるためにナポレオン3世の第二帝政のパリへ帰還。パリではレストランが活況を呈し、美食の第二次黄金時代が到来していました。ショセ・ダンタン街にアパートを借りたロッシーニは毎土曜日に美食と音楽のサロンを開きます。
「ガルニチュール(付け合わせ)を見てみましょう」
ロッシーニのサロンは第二帝政の著名人の注目の的になり、参加希望者が殺到します。晩餐にはVIPと友人12人だけが招かれたので、招待されることは卓越した人物の証となったのです。その頃、過去の音楽の大家ロッシーニと未来の音楽の旗手ワーグナーの会談が実現することになります。
「ヨーロッパの松茸といわれるセップ茸です!(゚O゚)\」
1860年3月、ロッシーニを崇拝していた46歳のワーグナーは、パリ9区ショセ・ダンタン地区にあったロッシーニの自宅を訪問し、好意を持って迎えられます。68歳のロッシーニは、『タンホイザー』パリ上演に奔走するワーグナーを力強く励ましてくれました。「反対派の妨害工作など恐れることはありません。私も『セヴィリャの理髪師』の時など、ステージに野良猫まで放される始末でした」。今度はワーグナーがロッシーニの作品を褒めます。すると、ロッシーニは言います。「私の作品など、ハイドンやモーツァルトの傑作に比べたら、気の抜けたビールのようなものです。そして、私が最も尊敬しているのはバッハなのです。ところで、ちょっと失礼!(^O^)/」と言ってロッシーニは部屋を出て行きました。
「グラタン・ドフィノワにトリュフが乗ってる…こんなの初めて見ました!(゚O゚)\」
話を続けたいワーグナーは、肩透かしを食った気分でしたが、まもなくロッシーニが戻って来たのでこう言ってみました。「私はオペラの重唱というものに疑問を感じているのです」。すると、ロッシーニもハタと膝を打ちます。「実は私もなのです。一列に並んで歌う歌手たちの姿は、まるで一斉にチップをくれ、チップをくれとねだる給仕たちのように見えますね」。バッハ、ハイドン、モーツァルトらの音楽の前には自分の音楽などはるかに劣って感じられたこと、あるいはオペラという音楽形式の限界を感じたこと、そのあたりに、この老人の早すぎる引退の秘密が隠されていたのではないかとワーグナーが思い始めた時でした。「ちょっと、失礼!(^O^)/」。またロッシーニが部屋から出て行きます。その後も何度か立ち上がっては出て行くので、ついにたまりかねたワーグナーは、聞かずにはいられなくなりました。「たびたび席を立たれるのは何故ですか?」。「失礼しました。鹿の肉が火にかかっていて、絶えず回してはタレをかけてやらなければならないのですよ(^Q^)」
「この料理は、ロッシーニがワーグナーに出した料理の再現です!(゚O゚)\」
出てきた料理を見て、ワーグナーは飛び上がりました。パンと鹿のステーキとフォアグラとトリュフが4層になっているのです。「これだったのか! この老人の早すぎる引退の秘密は! 好きな料理に専念し、グルメ三昧の生活を送るためだったとは!(゚O゚)\」
この時、東京で最高のサービスマンと言われている高木さんが登場…「ワンダフルハウスさん、ロッシーニは有名な料理なのですが、意外と知らないんじゃないかな〜てのが、フォアグラはソテーではなくてクラシック・スタイルはフォアグラのテリーヌを温めたものを乗せていたんですよ」「マ…マジですか!? どうやら、フォアグラを間違えてしまったようです(゚O゚:)\」
ワーグナーの推測も無理からぬことです。実は、ロッシーニがパリのサロンで研究開発に没頭していたのは、このような創作料理の数々のためだったのです。
フォアグラのテリーヌ フォアグラのポワレ
「ワンダフルハウスさん、ロッシーニのオリジナルはフォアグラのテリーヌを温めたものを乗せていたんですよ」「それでは来週、牛フィレ肉とフォアグラのテリーヌの組み合わせでロッシーニをもう1回作ってください!」
「見事な焼き加減です!(゚O゚)\」
トリュフ
フォアグラのポワレ
鹿フィレ肉
ブリオッシュ
↑\(^○^)/↑
これほど稀代のグルメであったロッシーニは、この日、ワーグナーにこんな打ち明け話も聞かせました。「私は生涯に2度、泣いたことがあります。1回目はパガニーニのヴァイオリンを聴いた時。2回目はある舟遊びのおり、腹にトリュフをぎっしり詰めた七面鳥をうっかり舟から落としてしまった時です」。その時の無念さ、悲しさを思い出したのか、68歳のロッシーニの目に、いつしかうっすらと、彼の人生で3度目の涙が滲んでいました(/Д`)・゜・
「とろけるようにポワレされたフランス産フレッシュ・フォアグラとレアな蝦夷鹿の相性が抜群! 一口食べた瞬間に今まで食べたロッシーニとの圧倒的な格の違いを実感するほどの深く薫り高い味わいです!(^Q^)」
1868年、この年の冬は特に寒さが厳しく、ロッシーニは風邪をこじらせて床につきます。神経過敏と不眠、食欲喪失、痔と直腸の疾患の悪化…様々な苦しみが襲いかかります。11月3日、手術をしましたが病巣が細胞組織に広がり、手の施しようがありませんでした。ロッシーニは医師にこう言います。「窓を開けて、私を庭に投げ落としてください。そうすれば、もう苦しむこともない」。やがて昏睡状態に陥ると、うわ言に聖母マリアと母の名を呼び続け、妻の名を口にしたのが最後の言葉でした。1868年11月13日ジョアキーノ・ロッシーニは永遠の眠りにつきました。
「グラタン・ドフィノワもいただきましょう…クリーミーで美味です!(^Q^)」
ロッシーニの死の2日後、ロートシルト男爵がロッシーニの後を追うようにこの世を去ります。天才料理人カレームの料理をこよなく愛した二人の美食家は、手を携えて天国の晩餐へと旅立って行ったのです。
今回紹介しましたトゥルヌド・ロッシーニの「トゥルヌド tournedos」の語源は不明とされており、グラン・ヴェフールの博学なシェフ、レイモン・オリヴェ氏も著書にこう記したほどです。「我々はロッシーニの名を持つトゥルヌドが彼自身の創作であると知っている。だが、トゥルヌドという言葉の語源を知らない」。イタリアの料理研究家マッシモ・アルベリーニは『食卓4000年史』(1972年)に次の逸話を紹介しています。
ある日、ロッシーニは新しい肉料理を思いつき、自分のコックに調理させた。台所で調理手順を監視する主人を邪魔に思った料理人が「そんなことをされてもうまく作れません」と嘆くと、ロッシーニは答えた。「それなら、よそを向いて調理したまえ。私に背を向けてね(tournez moi le dos)」
フランス語で「背を向けろ(そっぽを向け)」が、「トゥルヌ・ル・ド tourne le dos」。そしてロッシーニの一言が、そのまま料理名になったのでした。

Dessert

「ワンダフルハウス様、レイモン・オリヴェの“Poire Grand Vefour ポワール・グラン・ヴェフール”(洋梨のグラン・ヴェフール風)でございます」
フランス料理界の最高権威、“料理の神様”と呼ばれたレイモン・オリヴェ氏のスペシャリテ“Poire Grand Vefour”。コレットが、ジャン・コクトーが、グレース・ケリーが食べた伝説的デセールが日本のレストランで初めて再現されました。ピラミッドのマルジョレーヌと並ぶ20世紀最高のレストラン・デセールの登場です。
Poire Grand Vefour
ポワール・グラン・ヴェフール
洋梨のグランヴェフール風
(特注品)
「こ…これは凄い!(゚O゚)\」
ル・グラン・ヴェフールの指定席に座ったコレットは、コクトーにこう言いました…「自分のやりたいことをやるの」…3度もの結婚を繰り返し、有名なレズビアンだった公爵夫人を恋人にし、義理の息子と愛人関係に陥る…彼女の人生はスキャンダルに次ぐスキャンダルでしたが、意気投合したコクトーは、パレ・ロワイヤルを挟み向かい合うアパルトマンに移り住み、しばしば彼女の部屋を訪ねたといいます。小説、詩、舞台…様々なことで共感し合えた二人は、すぐ隣のル・グラン・ヴェフールへも、よく一緒に出かけていました。
白い陶器の壷「verre a pied ヴェール・ア・ピエ」(足付きの器)に盛られた、老舗グラン・ヴェフールに欠かせなかったデザート。1990年にオリヴェ氏が81歳の生涯を閉じた後は、フランス国内でも幻のデザートとなってしまいました。
「シドニー・ガブリエル・コレット Sidonie Gabrielle Colette」(1873〜1954)は、「性の解放」を叫び、同性も対象とした華麗な恋愛遍歴で有名。1951年、コレットは代表作「ジジ」をブロードウェイで舞台化しようとして、主役のませた痩せっぽちの少女ジジを演じる女優を探していました。
「おおっ!?これは!?(゚O゚)\」
コレットは、バイ・セクシャルの夫と共にリヴィエラのホテルに滞在していました。すると、どうでしょう…純白のドレスを着た痩せっぽちの少女がホテルのロビーを走り抜けて行ったのです。コレットは隣にいた夫に呟きました…「私のジジがいたわ」…
「洗練された花のコンフィズリー…砂糖衣を着たヴィオレット・クリスタリゼです!(゚O゚)\」
映画『モンテカルロへ行こう』の撮影のためにリヴィエラに来ていた無名の女優を気に入ったコレットは『ジジ』のブロードウェイ公演の主役に抜擢しました。この女優は『ジジ』公演の直前、ロンドンで受けたフィルムテストによって映画『ローマの休日』の主役にも抜擢され、『ジジ』公演終了後の1952年6月からローマでの撮影に入ります…オードリー・ヘップバーンは映画スターへの道を歩み始めたのです。
「フランス料理界最大のスーパースター レイモン・オリヴェです!(゚O゚)\ 「このグレーのカヴァーオール・ジャケットは?…これは、ジャン・コクトーも着ていたARNYS(アルニス)です!(゚O゚)\」
パリのメゾンの中でも、エルメスと共に別格の存在として世の男たちの憧憬を誘う高級ブティック「ARNYS アルニス」は、1933年、パリ・セーヌ川左岸、サンジェルマン・デ・プレに開店。ジャン・ポール・サルトル、ジャン・コクトー、アンドレ・ジイド、ピカソなど作家、画家、詩人が芸術論や服飾論を語るサロンとして賑わい、パリで最も芸術的香りの高いメンズブティックへと育て上げました。
「料理とは人生の基本的な幸せであり、作る人と食べる人の出会いを楽しむエスプリの世界です。食卓を最高に楽しむためには、全ての技と知性を磨かなければなりません」と説いたオリヴェ氏。ル・グラン・ヴェフールの近くに引っ越してきた稀代の食通ジャン・コクトーは、1955年にピラミッドのフェルナン・ポワン氏が亡くなると、そのエスプリの矛先をいよいよオリヴェ氏に向けてきました。それぞれ自分の世界観をしっかりと持った人間同士が、ある時、出会うべくして出会い、そのお互いの存在自体からインスピレーションを感じ合い、新しい作品(苺のジャン・コクトー風など、コクトーの名が冠された料理)を創り出すという関係…19世紀のカレームとロッシーニのような関係が20世紀にも繰り返されたのです。
ル・グラン・ヴェフールは、パレ・ロワイヤルの中庭に面した1760年創業のレストラン。1820年にフランス国王の総料理長ジャン・ヴェフールが店を買い取り、自らの名を店名に冠しました。以降、ナポレオン、ビクトル・ユーゴー、コレット、ジャン・コクトー等に愛され、彼らの指定席にはネームプレートが刻まれています。フランス革命当時の面影を伝えるこの店の名をミシュランの3つ星にまで高めたシェフがレイモン・オリヴェ氏です。オリヴェ氏は、ワインの産地ボルドーに近いランゴンの料理人の家に生まれました。15歳で調理場の見習いを始め、この地方の名だたるレストランで腕を磨き、第二次世界大戦後、グラン・ヴェフールに招かれます。その類まれなる博覧強記にものをいわせて、古今東西の料理書を買い漁り、研究に研究を重ね、一躍フランス料理界のスターダムにのし上がります。トリュフ・ソースあえフォアグラ・卵、白ワイン蒸しヒラメ、内臓詰め仔羊など独創的な料理を次々に編み出し、色彩を重視するヌーヴェル・キュイジーヌには目もくれずに、正統的なフランス料理を追及しました。さらに、フランスでテレビ放送が始まって間もない1953年から15年間、毎週金曜夜のブラウン管で包丁をふるって見せました。番組内での決め台詞が「生の素材は万人が語る言葉。料理人とは、その言葉を織り成す詩人なのです」。200年以上前、グランヴェフールが革命を境に宮廷料理を市民階級のものにしたように、大衆社会の現代、テレビを通じて格式ばった料理を茶の間に広めたことにオリヴェ氏の真価はあったようです。1964年、東京オリンピックの開催に合わせて3ヶ月間来日した際には、日本の料理界は騒然となりました。東京會館内に期間限定でオープンした「イル・ド・フランス」の総料理長を務めながらオリンピック選手村でも調理しました。
「莫大な蔵書量です!(゚O゚)\」
辻静雄さんが「料理書の世界一のコレクション」と認めたレイモン・オリヴェ氏の蔵書の登場です。パリ7区、広いアパルトマンの中にあったオリヴェ家のサロンは、フランス国立博物館顔負けの「食まわりの古書」の宝庫でした。リビングから書斎にかけて壁一面を埋め尽くす6000冊の本は、オリヴェ氏の「食」に対する探究心と好奇心の偉大なる足跡だったのです。一冊一冊が美しい革の装幀を施され、あるものはクッション付きの箱に入れられ、人と食の綿々たる歴史を綴っています。

19世紀半ばまでの西洋の本は、購入した人が製本をする形式になっていました。このため、同じ内容の本であっても外見がまったく違うものになります。装幀は、革装が一般的で、本全体を革装にすると「フル装」、背だけを革装にすると「ハーフ装」(1/2装)、背と縁の上下を革装にすると「クォーター装」(3/4装)となります。革装に使用される革は、ザラザラした感じの「モロッコ」(山羊皮)、スベスベした感じの「カーフ」(牛皮)、「ヴェラム」(仔牛皮)などがあります。

「司書役&通訳は夫人の鞠・オリヴェさん…奥さんは日本人です!(゚O゚)\ その赤い革のフル装の本はアントナン・カレームの本ですか?」「これは、アッシリアの遺跡から発掘された土の本。考古学者に絵解きしてもらったの。それによると、坊さんが祈祷をするから、お布施として穀物を持って来い、というようなことが書いてあるらしいの。食と人間の関わりほど古く長い歴史のあるものはないわね」
角田鞠(つのだまり)さんは、フェリス女学院大学卒業後、パリのオート・クチュール組合が経営するエコール・ド・サンディカ・ドート・クチュールに入学するため渡仏しますが、挫折して語学学校のアリアンス・フランセーズに入学。この頃、妻と子供が4人いるオリヴェ氏と知り合い、手紙や薔薇が下宿先に届けられるようになります。1967年秋、カナダ・モントリオール万博フランス館内レストランの仕事を終えてパリに戻ったオリヴェ氏は、鞠さんにプロポーズします。鞠さんは内定していた航空会社への就職を断り、パリ大学言語学科に入学。離婚の成立までに2年、それから半年待って結婚した時はオリヴェ氏60歳、鞠夫人30歳でした。
Le Grand Vefour
レイモン・オリヴェ 作
cuisine francaise JJ
宮本亜希子 作
「おーっ!同じです!(゚O゚)\」
1960〜70年代のグラン・ヴェフールでは、10品のデセールを出していました。ところが、3つ星レストランには珍しく、デセールを担当するパティスリー部門が無かったのです。
グラン・ヴェフールでは、ガルド・マンジェ(主に前菜を作り、時にはデザートも作る)がパティシエも兼ねていました。ガルド・マンジェが作っていたデセールは「ポワール・グラン・ヴァフール」の他に「Souffles Liqueur スーフレ・リキュール(写真左下のコワントローのスフレ)」「Crepe Belle Otero クレープ・ベル・オテロ」の3品であり、サーヴィスの方でシェフ・ド・ラン(メートル・ド・テルを補佐する給仕主任)が作っていたのが「Orange Maspronne オランジュ・マスプロンヌ(写真右下のオレンジのオリエンタル風)」「Coupe Josephine クープ・ジョゼフィーヌ」などのフリュイ(フルーツ)を使ったものでした。その他の「Gateau d'Opera ガトー・ドペラ」、ムラング(メレンゲ)類、グラス(アイスクリーム)などのお菓子の専門家が時間をかけて作るもの、あるいはアイスクリーム・マシーンなど特別な機械が必要なものは、パリの「Patisserie de premiere qualite パティスリー・ドゥ・プルミエール・カリテ」「Le Notre ルノートル」で作らせていたのです。
フレンチ・レストランの調理場は、それぞれ「ソーシエ(ソース兼肉料理)」「ポワソニエ(魚料理)」「ガルド・マンジェ(オードブル)」「パティシエ(デザート)」に分かれています。
コワントローの香りが漂っています 〜(^Q^)
クレーム・シャンティ(生クリーム)が特盛です!\(^○^)/
ペロッといきましょう!(^Q^)
クレーム・シャンティーは、生クリームと「sucre semoule シュークル・スムール」(砂糖)、それに「sucre vanille シュークル・ヴァニエ」(ヴァニラ・シュガー)を加えてかきたてたものです。
かきたてたばかりのクレーム・シャンティは、舌の上でサラッと流れます!(^Q^)
「この黄色いのは何でしょう?(^-^)\」
「サバイヨンとポワールです!」
「Sabayon サバイヨン」は、卵黄と砂糖をよく混ぜ合わせ(bien melanger ビアン・メランジェ)、生クリームを加えてモンテした(泡立てた)ものです。この固さは、ポワールの上からたっぷりかけて、流れ落ちてしまわないくらいのものです。
「Poire ポワール」(洋梨)は、よく汁気を切り(bien egoutter ビアン・メランジェ)、薄切りに(escaloper エスキャロペ)してあります。
「このピンク色の塊は何でしょう?(^-^)\」
「マカロン・フランボワーズです! クレーム・パティシエールの中にマカロンが入っています!(^O^)\」
レイモン・オリヴェ氏のルセットでは、クレーム・パティシエール3に対して、コワントローをなんと1の割合で加えて混ぜ合わせたものを使っていました。クレーム・パティシエールは「Jaunes d'oeufs ジョンヌ・ドゥー」(卵黄)36個と「sucre ドゥ・シュークル」(砂糖)700グラムと「sucre vanille ドゥ・シュークル・ヴァニエ」(ヴァニラ・シュガー)100グラムを泡立て器でかき混ぜ、「farine ドゥ・ファリヌ」(小麦粉)375グラムを加えてさらにかきたてます。この生地の中に沸騰直前まで温めた「lait ドゥ・レ」(牛乳)を入れて混ぜ、手早く溶きのばし(この時はシャブシャブの状態)、鍋に入れて「feu vif フー・ヴィフ」(強火)にかけます。ここから休むことなく泡立器で力強く混ぜていくと、火が通るにつれてクリーム状になり、全体がしっかりつながって、1〜2分沸騰させれば出来上がり。オリヴェ氏のルセットは、この後、保存→仕上の工程に関しても莫大な記述がありますが、ここでは割愛します。
「1960〜80年代のパリでは、これがマカロンの最高の食べ方でした。さすがに、20世紀最高のレストラン・デセールの一つ…美味です!)^Q^(」
クレーム・パティシエール(Creme Patissiere)に加えたコワントロー、それにマカロン(macaron)、ポワール(poire)、サバイヨン(Sabayon)。これらが混ざり合った味と香りは素晴らしいものです。レイモン・オリヴェ氏のルセットを分析すると、もう、うんざりするぐらいにコワントローをたっぷりと使っていて、おおげさに言えば、アルコールに弱い人なら酔って足を取られてしまいそうな分量です。しかし不思議なことに、そのたっぷりと使ったコワントローが、このデザートを食べている時には強く感じることはありません。全体の味と丁度いい位にバランスがとれているのです。グラン・ヴェフールでは、マカロンはルノートルから持って来たものを使っていました。ルノートルのマカロンにコワントローをたっぷりと染み込ませて使っていたのです。
このように材料を重ねて作り上げるポワール・グラン・ヴェフールは、出来上がると、冷蔵庫に入れてゆっくりと冷やし、サバイヨンとクレーム・シャンティを固めていました。ここで急激に冷やしてしまうと、クレーム・シャンティとサバイヨンがアイスクリームのようになってしまいます。口の中に入れた時にコワントローの強さが2つのクリームが柔らかく溶けてくれることによって、抑えられることにならなければなりません。1960〜80年代のグラン・ヴェフールの冷蔵庫の中には、このように作られたポワール・グラン・ヴェフールが毎朝20個は並んでいました…つまり、一晩寝かせたものを出していたのです。
続く

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