小池千枝

1916(大正5)年4月14日、長野県須坂市生まれ。’33年、須坂高等女学校卒業後、文化裁縫女学校(現文化服装学院)入学。卒業後、同学院の助手となる。’40年、商社に勤める男性と結婚、北京へ。’44年、2人の娘を連れて帰国。’45年、夫が沖縄で戦死。’47年、文化服装学院に復帰し、’51年デザイン科を新設し、初代デザイン科長に。’54年、単身パリへ。パリ洋裁組合学校「サンディカ」に入学。同じクラスにイブ・サンローランが、隣のクラスには、カール・ラガーフェルドがいた。立体裁断に衝撃を受け、帰国後は、日本人に合う立体裁断用の人台(ボディー)を開発。以後、文化女子短期大学(現文化女子大学)教授、文化服装学院副院長を歴任し、’83年、同学院の10代目学院長に就任。’91年より2002年3月まで名誉学院長として活躍。高田賢三、コシノジュンコ、松田光弘、金子功、山本耀司等多くのデザイナー達を世に送り出し、フランスのモード界では”マダム・コイケ”として有名で、知名度では日本より上かもしれない。生徒たちの教材のためにと集めた、世界の民族人形 約12,000点が、’97年、故郷の長野県須坂(すざか)市にオープンした「小池千枝コレクション・世界の人形博物館」に収められている。著書に「服飾造形論」「立体裁断」(いずれも文化出版局)など。

’57年、文化服装学院は、ひとつの歴史的決定を行った。男子学生の受け入れである。当時は、服飾デザインの道に進みたくても、男子生徒を募集する洋裁学校がなかった。’58年、この決定を知り、早稲田大学を卒業した松田光弘さんが、神戸外国語大学を中退した高田賢三さんが、山口の高校を卒業した金子さんが、男子第2期生として入学し、後に「デザイン科・花の9期生」と呼ばれるようになる。
金子さんは、小池先生についてこう言っている。「18歳だった僕は、文化のすべてに憧れていた。小池千枝先生の名も知っていた。2年生になって、なんとか先生のデザイン科に入れた。出会いの時の先生の着ていたものもはっきり覚えている。絵は得意だったけど、縫うのが下手でクラスの下のほうじゃなかったかな。モーニングサービスが楽しみだった」(朝日新聞社編「昭和にんげん史」より)
「モーニングサービス」というのは、小池さんが毎日、遅刻防止という名目で授業の始まる前に行う朝の談話だった。「エル」「ジャルダン・デ・モード」の記事を解説した。


小池先生、ピンクハウスのアトリエを訪問(1981年)

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anan1981年9月4日号(298号)に掲載された文化服装学院の広告「ファッションの震源地探訪 第3回」で、小池副学院長(当時)と金子さんは共演している。

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ピンクハウスは金子さんが追い求める女性の理想的なあり方そのもの――

ピンクハウスといえば”女らしさ”と”やわらかさ”といったイメージが浮かんでくる。デザイナーの金子功さんとお会いして、ピンクハウスは金子さんそのものだという感じ……
秋の展示会の準備で大忙しのアトリエには、所狭しと服やネックレス、バッグや靴が並べられ、雑誌の撮影に使う貸出し用の洋服もズラリと並ぶ。
「とりちらかしていまして」と、忙しい中をやさしく迎え入れて下さった金子さんは、高田賢三さんやコシノジュンコさんと文化服装学院の同級生。
入学したときから、都会的な感覚と大人のムードを持っていた。
と昔のことを教えてくれた文化服装学院の小池副学長。それだけに、当時のクラスメートは金子さんを意識して恐れていたという。
「僕がデザイン科1年生のときに小池先生が着ていたモスリンの服が今でも忘れられないんです」という金子さん。金茶のプリーツで小さな花模様、ちょっとローウエストで、そのときの指輪は大きいブルーの……と実に細かい部分まで覚えている。何と20年も昔の話。「強烈な印象だった。考えてみれば今こうして洋服を作っているのも、その時のイメージがあるからかもしれない」ひとつの大切なイメージを大事に大事にあたためながらデザインをしている。そんな感じの金子さん。
一人の人間との出会いが、デザイナーへのスタートだった。
人生は不思議なものだ。あのときあの人に会っていなければ……なんていうことは沢山ある。
「小池先生と出会ったこと、それが一番の収穫ですね」という金子さんに「教師の役割は学生のことをわかってあげること」つまり学生の個性をいかに自由に伸ばしていくかということだ」と小池先生。
女らしくてクラシックなものが大好きなんです。
かわいい色のある名前というんでブランド名はピンクハウス。だから商品イメージも、女らしくて、やさしくて……「でも男っぽいジャンパーなんかも作りますよ。そういうもので、より女らしくなって欲しい……」という金子さん。ピンクハウスのファッションポリシー理解できるでしょう!?
小柄な日本の女性にピンクハウスはぴったりだと思うのですが、どうですか!? 何しろデザインする時に顔から描きはじめて、顔が気に入らないと、その先に進まないという金子さん――ピンクハウスの洋服はまさに金子さんの理想の女性のあり方そのもの。
好きな人たちと好きなものをつくっていきたい。小さい店でいいんです。
いまピンクハウスは総勢15名。文化服装学院の後輩が今年も2名入った――「若い人を見てると昔の自分を思いだす。デザインをしたくてたまらないっていう時期がある」彼等の持っているものを大切にしてあげたいから、全体としてピンクハウスっぽければ、デザインはそのまま採用。金子さんのクリエーターとしての優しさだ。
だから15人のスタッフは、みんな金子さんの感性がわかる人達ばかり。「もうこれ以上は大きくしたくない。気の合った人達で好きな仕事をやっていきたい」という金子さん。こんなステキな心が洋服に出ていればこそ、ピンクハウスのファンは全国に増える一方。只今全国50店舗に金子さんの服がある。

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