くればやし美子

モデル

1959年(昭和34年)6月11日生まれ。東京・原宿(神宮前2丁目)で育つ。千駄ヶ谷小→原宿中→家政学院高→美容学校在学中に人気モデルになる。身長168、B78、W58、H86、靴23.5cm。

くればやし美子(よしこ)さんは、1980年〜1983年までアンアン専属モデルをつとめた。その後もMINEなどでモデルとして活躍したが、’96年以降、メディアへの登場はない。金子さんのお気に入りのモデルで、「金子功のワンピース絵本」やピンクハウスのショーにも出演した。ハーフっぽく見えるが、純日本人である。金子さんのショーに出演した唯一人の日本人女性モデルとして、忘れてはならない存在である。

くればやし美子&ピンクハウス アンアン作品リスト(主なもの)
発行年月日(号数) 内容
1981・10・16/23合併号(No.304) 「靴特集号の表紙」モノトーンの幾何学模様のセーター&スカート、白×茶のパンチングシューズ。
1982・4・23(No.329) 「金子功のパリでいいものみつけた。」
1982・10・29(No.353) 「金子功とワンピース」歴史的傑作プリントのオンパレード。傘プリント(プリント絵本をお持ちの方は、カバーをはずしてみてください。そう、その柄です)、黒猫プリント(プリント絵本表見開きの”LULU BELL”です)、チェックのリボンプリント。金子功&くればやし美子&甲田益也子という組合せも歴史的である。
1983・4・8(No.375) 「アンアン・トラディショナル特集号の表紙」白×黒の水玉プリントのスーツ。
1983・4・15(No.376) 「ミスマッチ特集号の表紙」と「ミスマッチ10の法則」初期の傑作プリントが大集合。Tシャツ、水玉リボン、ハンカチ、キャンディ(プリント絵本裏見開き)、ギフトボックス、帽子&手袋、カーネーション&三種(水玉、チェック、ストライプ)のリボン、など。金子功&くればやし美子&林マヤ&文・三宅菊子(「絵本」のコピーディレクター)

アンアン1981年10月9日号(No.303)
「くればやし美子 私のアンアン」

「一度、演(や)ってみたかった。プライベート・コレクション」より

ピンクハウス、メンズ・ビギ、コム・デ・ギャルソン、Y’sの4ブランドの服を、デザイナー自身のコーディネーションで着ている。

金子功(ピンクハウス) とにかく可愛いひとですね。顔立ちも心も可愛らしい。僕にとっては、一人の人間も、モデルも、可愛いということがすべてだと思っています。もちろん女としても。
くればやし美子 22歳になったし、大人の女の服に目を向け始めました。そんな気持にさせてくれたのが金子さんの服。今年、このスカート丈を女らしく着てみようと思います。

「くればやし美子の私生活」より

雑誌やポスターも好きだけれど、ショーの仕事がいちばんわくわくする。ライトが当たると、顔が自然にニコニコしてしまう。拍手されるといい笑顔になるのが、自分でもわかるの。ピンクハウスのショーで、最後にウエディングで出た、あのときが最高に嬉しかった。外人モデルばかりの中で一人だけ日本人。最近はアガらなくなっていたのに、あのショーでは顔がこわばるほどドキドキした。――大人っぽい、ツンとした顔をするのが難しくて。だから最後のウエディングで、思いきり笑顔を見せていい場面がすごく嬉しかった。

NEW!
’81春夏ショーのウエディング
ピンクハウス1981年春夏コレクションの”トリ”をつとめたくればやしさん。
写真は、アンアン1980年12月21日号(No.274)より 撮影・袋谷幸義

ナチュラルで気どらない、それが’80年代モデルの素顔だ

・・・・・・前略・・・・・・
彼女の出現そのものが、新しい時代の動きを予感させてくれた。
PARCOのCMに”モデルだって顔だけじゃだめなんだ”っていうのがあったけど、’80年代には本当にモデルの顔が変わった。以前はいわゆる端正な顔立ちのツンとしたモデルが、欧米人的な骨格に見えるように濃厚なシャドーを顔全体に入れていた。くればやしさんもまぶたいっぱいに濃淡をつけられ、作ったポーズでニッコリ笑って写真を撮られていたという。
「初めてananに出たとき、”笑わないで、ぼーっとしていて”といわれてびっくりしました。それまではそんなこという人、いなかったので」
くればやしさん以降、ナチュラルで気どらないタイプのモデルが次々と出てきた。表情を作らなくても十分存在感のある、お人形ではないモデルを時代が求めていたのだろう。
ダイエットなんて関係なし。「きっと人よりたくさん食べると思う」と、屈託なく笑いながら話してくれる。普段着の彼女はTシャツにジーンズとあくまでもシンプル。それなのに決まっているのはスタイルのよさだけでなく、自然に身についたファッションセンスが着こなすからだ。くればやしさんは神宮前で育ち、すぐそばに「KANSAI」が、散歩道には金子功が店内にすわっていた「ピンクハウス」があり、そのころはまさか自分がモデルになってその服を着ることになるなど夢にも思わず、単なる風景として眺めていた。
デザイナーズブランドが注目され始めた’82年ごろの仕事には触発された。
「菊池武夫さんのトラッドっぽいマニッシュ感覚、コム・デ・ギャルソンやY’sのビッグなモノトーン……どれも初めて知る世界でした」
いま、流行が多様化したなか、彼女自身は白い状態でいたいという。
・・・・・・後略・・・・・・

Hanako1989年10月19日号より

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