栗崎昇

挿花家

1937年(昭和12)年6月3日、福岡県飯塚市生まれ。
中学のとき、SKD(松竹歌劇団)にあこがれて親に無断で上京したが、二日目に警察に保護される。高二のとき、ふたたび家出。’57年に上京、独自の花修行を始める。映画製作者の助手をしたり、ニッカバーのバーテン見習いをしたりして苦労。’50年代後半、六本木の野獣会の結成に加わる。そのころから六本木で飲食店を経営。会員制サロン「西の木」は’65年から’2001年まで続いた。茶道(表千家)を習いはじめたのも、このころ。いけばなはまったくの独学でその作品が女性雑誌などを飾るようになる。1969年、銀座「ギャラリー・サンモトヤマ」で初の飾花の個展を開く。1970年にはパリのレストラン「マキシム」の店内飾花を手がけ、1974年、エリザベス女王陛下ご夫妻来日のさい、英国大使館での女王陛下主催の晩餐・舞踏会の館内飾花を担当。1980年には銀座・博品館劇場での辻村ジュサブロー公演「海神別荘」で舞台飾花に挑む。1984年の京都を皮切りに、花を生けていく姿、過程を見せる飾花パフォーマンス「飾花転身の法」を続け、大きな感動を呼んでいる。1989年、映画「利休」に弟子、光春役で出演。著書に「花たち」「飾花」「醉花」(すべて文化出版局)「栗崎昇の花の教科書 花の心を知る」(マガジンハウス)などがある。

栗崎昇(くりさきのぼる)さんは、金子さんのショーで、最前列中央に陣取り、フィナーレでステージに紙をまいている人。金子さんの最大の親友である。下の写真は、1986年6月12日に行われたピンクハウス秋の展示会で飾られた栗崎さんの作品。

ピンクハウス’86秋服展示会での飾花

撮影・小松勇二
アンアン1986年7月11日号(No.535)より


金子さんとは大の仲よしだからショーの時は花をいけたり散華したり、何らかの形で協力しています。

金子さんも僕も日本的なことが大好きで、よく京都に遊びに行くんですよ。僕は服のことは全然わからないけれど、ピンクハウスの服は、日本的なことが大好きという金子さんのこだわりから生まれてくるのではと思うんです。だって歌舞伎を見ていて「あの色きれい、あの組合せがすてき」とか、「伊万里焼の色がいい」と言っていることが、彼の服に生かされていると思うから。服を作ることが”ほんとうに大好き”で、自分の信念を曲げないところには頭が下がります。絶えず同じ呼吸で同じ服を作りながら、人を酔わせる何かを持っている人なんです。物を作るための礼儀を心得ている職人的デザイナーだと思います。

装苑1992年7月号「ピンクハウス物語」より


1971年当時の栗崎さん

すごいゾ、この人、西洋の古い花びん50個くらい持ってる。アールヌーボーが好きで、19世紀末のフランスのナントカやら、ナントカなど。最初に買ったのは12年まえ、フランスのドームナンシーの花びん、月給5万円のとき、12万円で買った。このあいだ同じようなのが68万円で売ってたゾ。
お茶の茶碗20くらい。仁清(にんせい)とか乾山(けんざん)とかこの作者がどのくらい偉いかは日本史の教科書か博物館でわかります。国宝みたいな屏風(びょうぶ)とか古い古い家具とか、とにかくネウチモンたくさん持ってる人だゾ。
「お茶とお花で生きていきたいと思っとります」
何流なんてくだらないこときくな。1mくらいのつぼに百合の花100本。金ワクつき工芸品ふう花びんにカーネーションいっぱい。花にセックス・アピール感じるから嫁も女も要らないんだって。
無形文化財のお爺さんが織った帯して、きものは結城(ゆうき)の紬(つむぎ)。――桜の花は少しずつ蕾(つぼみ)からふくらんで少しずつ開いてぱッと散る。耐えられるぎりぎりまで耐えて耐えて、いさぎよく散る。九州男児のバイタリティが誇りだとおっしゃるのです。いまは西ノ木というクラブの経営者。でも、あくまでもお茶とお花に行きたいという。そのこととどう関係あるのか――タオルとシーツにも凝っているそうで。西洋の古い宝石箱みたいな、大きな箱にぎっしり、この人、いったいナニモノかしらね。

アンアン1971年2月20日号(No.23)「独身男」より


加納典明さん、「西の木」について語る

写真のオムスビのような顔をした人は、栗崎昇さんといって、六本木で「西の木」という深く濃い個人的な趣味が漂う、他に較べようのない一種の魔界空間といってよいお酒の店をやっていた人で、西の木は37年の営業を、この春に終えた。
店の様子をもう少し具体的にいうと、暗い80平米程の地下室に、最高級のアールデコ、アールヌーボーの吟味され尽くされた家具、ランプ、花器、置物に、ピカソのリトグラフやフジタのデッサンがあり、凡そその調度品は酒場のものではなく、コレクションクラスといってよい。それに極め付きは、それ等の高級品を脇役に押しやってしまうのが栗ちゃんの「お花」である。何処かで習った花とは懸け離れた、独創に満ち満ちた生け花の世界が店の中を被い、まるで店全体が巨きな花器と化す。その真夜中の花園で、山口百恵が当時のマネージャー、現ホリプロ社長の小田信吾さんと遅い食事をしていたのを思い出す。

加納典明の「天気晴朗なれど」
第36回 クリちゃん
週刊新潮2001年5月24日号(No.2301)


NEW!

早瀬圭一「人物一品料理 第94回 栗崎昇 五十年の人生を花に託す」

東京・六本木の交差点を東へ、飯倉片町の方に向かって約百メートルも行くと、右側の路上に「西の木」の丸い軒灯がみえる。何の変哲もない小さなビルだが、はじめての者がその地下に下りて「西の木」の扉を押し、一歩足を踏み入れると一驚する。
百平方メートル近いワンルームになっていて、足が沈みそうな部厚い絨毯が敷きつめられ、特別に注文してつくらせたとびきりのセンスのソファと椅子、テーブルがそこここに点在している。壁面には例えば藤田嗣治の三十号もある、むろん本物の絵。卓上にはガレ、ドームの花瓶が無造作に置かれ、電気スタンド一つにしても仏、伊から主(あるじ)が選りぬきの由緒あるものを持ち帰ったものだ。そして、はじめてここを訪れたものが、何よりも驚き、溜息をつき、目を見張るのは、四方八方にある飾花の、この世のものとも思えぬ美しさである。幻想的な美術館とでもいえば、少しは栗崎昇の「西の木」をいいあらわしていることになろうか。
「西の木」は日曜祭日以外、夜の九時頃から深夜三時頃まで開いているクラブというよりサロンである。東京の、いや全国の粋人、遊び心のある人の間ではつとに知られたところだ。
銀座の一流クラブママや京都・祗園の芸妓たちは、一度は「西の木」に行きたいと思い、願いかなって誰かに連れて行かれた者は主、栗崎昇がなぜ唯美主義者となったのか知りたいと願うだろう。このサロンに漂うあやしいまでの美意識はすべて栗崎が演出する。飾花のすべても栗崎が毎週月曜日、ほぼ一日がかりで選び、飾る。「肉体の悪魔」のラディゲや、谷崎潤一郎が文章によって唯美主義を主張したとすれば、栗崎は花によってそれを表わそうとしている。
栗崎昇は、昭和十二年北九州は川筋に生まれた。中学か高校を卒業して京都に出る。なぜ京都に行ったのか、そこで何をしていたのかはわからない。隠しているわけではないがいまとなっては多くを語ろうとしない。何年かして東京に出るが、その間辛酸を舐めつくし、若くして人間の地獄を見たともいわれる。そんな経験が栗崎をして、花に走らせたのだろうか。彼が唯美主義者になったことと無関係ではあるまい。
日本の生花は、由来、池坊だとか小原だとか、戦後では草月が台頭して流派に捉われてきた。流派に属さない生花は無視され、仇花とみなされてきた。そんな風潮の中で、栗崎はひたすら独自の道を精進してきた。そしていままさに開花の時期(とき)を迎えようとしている。
栗崎は、この十一月二十六、七の二日間、六本木AXISビル4階で「飾花の会」を開く。「『飾花の会』これは京都で開いている、花とあそぶ集まりです。人さまに教えたりなど大の苦手な私ですが、会の皆さんの花に対する情熱に心動かされ、花を訪ねて山に遊び、お寺や神社に飾花したりと、師とも弟子ともいえぬまま、十年近く、共に花とたわむれてまいりました――」内々に配る案内状にそう書き、東京の街中でどんな花あそびができるか――私がいま心ひかれている、室町・桃山時代の斬新、豪快さ、あの時代の昂揚を今、現代の住空間に表現できたらと、考えているところです、と結んでいる。先頃、NHK教育テレビでも花を語った。
深夜、「西の木」に座わり、ブランデーを舐めながら栗崎の心をいけた飾花を眺めていると、そこに一人の人間の五十年の歴史が重なる。

サンデー毎日1988年12月4日号より

百科事典に戻る