わんだふるはうす マキシム・ド・パリ 東京に行く

1721年フランス・パリに平凡な銀行家の書記の娘としてジャンヌ・アントワネット・ポワソン生まれる。1743年フランスにジャンヌ・ベキュという私生児生まれる。1749年フランスにヨランド・マルティーヌ・ガブリエル・ドゥ・ポラストロン生まれる。1755年オーストリア・ウィーンに皇帝フランツ1世と皇妃マリア・テレジアとの間の末娘として、皇女マリア・アントニア生まれる…歴史上、どの時代よりも華麗に、どの国よりも優美に大輪の花が開いた18世紀のフランス・ヴェルサイユ…「マキシム・ド・パリ」が、この時代のヒロインたちにちなんだ料理を提供する「マリー・アントワネットフェア」を9月29日まで開催していました。いったいどんな料理やデザートを出してくれるのでしょうか? 2007年9月8日、私ワンダフルハウスは期間限定のフルコース・ランチ「マリー・アントワネット・メニュー」を堪能してきました(^Q^) メニューの数々を順番に紹介いたします。

2007年の東京・銀座・数寄屋橋交差点。ソニービル。 一番右側の列をご覧ください。マキシムはB3Fでございます。
ソニービルが竣工された41年前の1966(昭和41)年、日本に本格的フランス料理店はまだ1軒もありませんでした。 それが、ある日突然、銀座の数寄屋橋交差点に、パリで隆盛を極めた伝説のレストラン「Maxim's de Paris」が現れたのです。 「東京にマキシムの全てを再現し、大人の社交場を創る」。 それは、当時のソニー(株)代表取締役副社長・盛田昭夫氏のアイディアでした。
こちらは、バーです。ケーキとお茶で2000円以内とリーズナブル。ワンダフルハウスは、喫茶店代わりに利用しています。 こちらは、レストランの個室「ローズルーム」。10名〜32名で個室料無料で貸りられます。
もともと、ソニービルを建てる企画の段階では、今のマキシム・ド・パリのあるB3Fフロアは駐車場に予定されていました。ところが、盛田氏の「日本に大人の社交場を創ろう」との強い意向で、予定を変更してマキシムが作られることになったのです。
こちらが、これから御案内いたしますメインダイニングになります。 エレベーターでも行けますが、階段を降りて行きましょう。
「ソニーが東京に迎えるお客様は相当な数にのぼる。そういう人達を、ビル内の自分のレストランでもてなすことが出来たら素晴らしいだろうと思った。それに日本人は外で食事をしたりレストランで客をもてなすのが好きだから、商売としても成功するかもしれない。だが、どんな種類のレストランにするかを決めるまでにはだいぶ時間がかかった。フランス料理店はまだ非常に少なくて、しかも本格的なものは一軒もなかった。 私はそれまでもフランスに行くことが多く、パリのマキシムとオーナーのルイ・ヴォーダブル氏をよく知っていた。マキシムがパンナムのファーストクラスの食事を担当していることも知っていたし、彼なら新しい事業に興味を示すのではないかと考えた。そこで、ボーダブル氏を訪ね、本格的な室内装飾、フランス人のシェフ、同じメニュー、ワイン、テーブルサービスといった、パリの本店そのままのマキシムを東京に開くアイディアを持ちかけた。彼が大いに乗り気だったので、建築技師をパリに送り、ソニービルの地下を使ってマキシムを再現したのである。
盛田昭夫著「MADE IN JAPAN」(朝日新聞社)より。
それでは、マキシムに入ります。 こんにちは!(^O^)/ 11時半に予約しましたワンダフルハウスです。
少し早く着き過ぎたようです。バーでウェイティングすることになりました。ロートレックの絵に囲まれ、アールヌーヴォーの芸術に彩られたこのバーにいると、19世紀のパリにタイムスリップしたようです。
エグランタン一座のポスター ロートレックはヴァリエテ座で上演されたオペレッタ「シルペリック」の主演女優マルセル・ランデルを見て気に入り、20回近く劇場に通いつめて、この絵を描きました。
バールームの壁面を飾るロートレックの絵は、今井俊満画伯によるものです。 当時は今ほど写真の技術が発達していなかったため、「パリをそのまま東京に」ということが、特に絵画に関しては難題でした。 そこで、フランスに滞在していた今井画伯に依頼して、模写したものを日本に送ってもらい、それを壁に貼ったのです。
ケーキがありました!\(^Q^)/ 左からモンブラン、洋梨のタルト、パリジェンヌ(チーズケーキ)、ガトー・ショコラ。1カット840円。+630円でコーヒーorエスプレッソor紅茶が付きます。 「ワンダフルハウス様、お待たせしました。ダイニングは、こちらでございます」「おおっ? あの額は?(^O^)\」
エントランスからダイニングに続く螺旋階段。その壁面には、いくつかの額が飾られています。それは、銀座店がオープンしたときに、パリの常連のお客様たちから贈られたお祝いのメッセージです。その中から数枚をご紹介いたします。
こ…これは…日本が誇る世界的洋画家であり、20世紀前半のエコールド・パリの代表的画家であるレオナルド・フジタが描いたパリ・マキシムです!
藤田嗣治(つぐはる)は、1886年、東京生まれ。1913年、26歳の時、留学生としてパリに渡る。ナイーブな心の世界を表現するにふさわしい新しい油彩画技法による彼の作品は、1920年代パリで受け入れられ、サロン・ドトンヌ、サロン・デ・ザンデパンダンなどのサロンでは目立つ存在となり名声を得る。1931年アメリカ、メキシコ等を旅行し帰国。藤田は日本各地で大画面を描き始め、1937年に秋田で制作した長さ20メートルに及ぶ大壁画「秋田年中行事 太平山三吉神社祭礼の図」は有名。1955年フランス国籍を取得。1959年カトリックに改宗し、名前もレオナルド・ダヴィンチから名を取り、レオナルド・フジタに改めた。この頃からカトリック的主題の絵画を描くようになる。1968年、入院先のスイスにて没。
レオナルド・フジタ(画家)「マキシム、1913年に私がこの地を踏んだとき、それはすでにパリ・マキシムだった。今も変わらない。1966」 モーリス・シュヴァリエ(俳優・歌手)「80歳になったら東京に行って歌を歌いたい。そして、皆に楽しんでもらいたい。その後マキシムで夕食をし、私のお祝いを立派にしたい。東京−マキシム なんとお似合いのすてきな名だろう」
モーリス・シュバリエ氏は、1958年にレスリー・キャロンと共にパリ・マキシムを舞台にした映画「GIGI(恋の手ほどき)」に出演しました。
マルク・ボアン(クリスチャン・ディオール チーフデザイナー)「マキシム、美食の殿堂。フランス流の生き方の満ち溢れるところ。そこは昔からパリジャンにとって、また、他の人にとって”エレガンス”の発祥の地でもあるのだ」 フランソワーズ・サガン(作家)「パリ ・マキシムは、時間と共に歩んだ。東京マキシムは、空間に広がっていく」
イヴ・モンタン「東京万歳!\(^O^)/ マキシム万歳!\(^O^)/」 マリア・カラス(オペラ歌手)「ジャン・コクトーも言ったように、女性たちは、エレガントな場所に満足します。そこでは自分が、自分自身の演出家となれるから。マキシムは劇場です。だから私はそこが好きなのです。そこに我が家家の落ち着きを感ずるからかもしれません。我が家がまた東京にできると思うと幸せです」
おおっ! この手すりは?(^O^)\…孔雀の形…これこそアールヌーヴォーです! それでは、螺旋階段を降りて、メインダイニングへ御案内いたします。
アールヌーヴォーとは、19世紀末フランスを中心としたヨーロッパにおこった芸術様式で、曲線がつくる美しさを強調した優美な装飾形式です。 銀座マキシム・ド・パリの螺旋階段に配された孔雀をモチーフとした手すりはその典型で、これはすでにパリ・マキシムから姿を消してしまっており、いまや貴重な財産となっています。
こちらが、真紅とゴールドが織りなすアールヌーボーのメインダイニングでございます。古き佳きフランスの香りがしますね。
「ワンダフルハウス様、こちらがマリー・アントワネット・メニューでございます」。ベル・エポックの時代に活躍した風刺画家セム。彼はパリ・マキシムでの様子を画にしていました。このイラストは、今もパリと銀座のメニューカバーとして使われています。
ランチタイム限定
マリー・アントワネットフェア メニュー
マリー・アントワネットに愛されたシャンパンをフランボワーズと共に”ピペ・エドシック・ブリュット”(1杯)
甲殻類のコンソメとカリフラワーの冷製クリームスープ デュバリー風 キャヴィアを添えて
舌平目のフィレ ポンパドール風
ブレス産雛鶏胸肉ポリニャック風 自家製ヌイユと共に
または
和牛ランプステーキ マデラ酒風味ソース プリンセス風
または
フランス産仔鴨ポワレ赤ワインソース ブルジョワ風
アヴァン デセール
マリー・アントワネットに捧げるデザート タンバルエリゼ
プティフール
コーヒー
または
エスプレッソ
または
紅茶
10500(グラスシャンパン・税込、サービス料別)

Aperitif

「マリー・アントワネット・フェア 〜王妃の食卓〜ロココに咲いた薔薇」 マリー・アントワネットへのオマージュをこめたランチのスタートです。 グラスにアペリティフ(食前酒)のシャンパンが注がれました。お酒が飲めない方はソフトドリンクにチェンジしていただけます。
食前酒(アペリティフ)は、フランス料理の正式なマナーとしては、 必ずしも頼まなくても良いものです。 食前酒は、食事の前に飲む事で、食欲増進させるためのものなので、 アルコールに弱い方などは遠慮なく断ってもマナー違反にはなりません。
「マリー・アントワネットに愛されたシャンパンをフランボワーズと共に”ピペ・エドシック・ブリュット Piper-Heidsieck Brut”」 1785年、フロレンス・ルイ・エドシックにより創業。高品質なシャンパンのため、フランス王室はじめ14ヶ国の王室御用達シャンパンとして名を馳せ、かつてマリリン・モンローが愛飲していたことでも有名。また、今日では例年カンヌ映画祭公式シャンパンにも採用されるなど、華やかなシーンが良く似合います。最大の特徴は、キレのよいフレッシュな酸味。アペリティフにふさわしい軽やかさと華やかさを備えたフルーティーなシャンパーニュです。

Horsd'oeuvre

パンとオードブルが運ばれてきました。フランス語で「Hors」は「外」、「oeuvre」は「作品」、つまり「番外料理」「献立外料理」の意味になります。アントレ(Entree 入口)ともいいます。オードブル(前菜)は、フルコースの最初のお皿になります。食欲をそそることが目的であるため、量が少なく、酸っぱいことが多いです。 「Paris‐Soir de crustace et creme glacee de choux‐fleur aucaylar 甲殻類のコンソメとカリフラワーの冷製クリームスープ デュバリー風 キャヴィアを添えて
氷が入ったグラスの上にスープの器が置かれていて、最後まで冷たいままいただけます。
ルイ15世の公式愛妾「デュバリー伯爵夫人」に捧げるカリフラワーのスープの登場です。フランス料理では、カリフラワーを使った料理をデュバリー風と呼びます。フランスの美食事典ラルースにただ1行「デュバリー夫人はカリフラワーが大好物であった」と記されています。
冷たいカリフラワーのクリームスープの下に、甲殻類のコンソメジュレ、上にキャヴィアが飾られています。甲殻類とは、体をキチン質の固い甲で覆い、節のある肢(付属肢)を持つ節足動物のうち、いわゆるエビ、カニなどに代表される内肢と外肢の二股に分かれた肢を持つという特徴で括られるグループです。
ルイ15世最後の愛妾デュバリーは娼婦あがり。王太子妃としてオーストリアからフランスへ嫁いできたアントワネットにとって、これは信じがたいショックでした。何しろ母親マリア・テレジアは、娼婦を鞭打って丸坊主にし、国外追放するという政策を取っていたほどでしたから。というわけで名高い”女の戦い”が切って落とされます。宮廷では高位の女性からしか声をかけられないというしきたりがあったので、アントワネットは決してデュバリーに話しかけませんでした。恥をかかされたデュバリーはルイ15世に訴え、ルイはオーストリア大使に圧力を加え、大使はマリア・テレジアに手紙を書き、ついに女帝は娘に「声くらいかけてやりなさい」と説得します。アントワネットはよくよく悔しかったとみえて、なかなか段取り通りに声をかけられず、何度か失敗した後、ついに…
1772年元日。芝居がかった舞台が用意され、証人兼観客として仰々しい宮廷人たちが集められ、新年大祝賀会が始まりました。序列に従って、次々に宮廷女性たちが王太子妃のそばへ歩んできます。その中に大臣の妻エギヨン公爵夫人と並んでデュバリー夫人が…アントワネットはエギヨン公爵夫人に短い言葉をかけてから、頭を微妙にデュバリー夫人の方へ向け、はっきり彼女と面と向かってとは言えないまでも…好意的に見ればそう見えなくもないといった感じで…そこにいた全員が、一言も聞き漏らすまいと息をつめ…待望の、そして激しい葛藤の末の、前代未聞の、運命的な言葉を発します…「今日はベルサイユは、たいへんな賑わいですこと」…女の戦いに決着がつきました。デュバリー夫人の勝利。マリー・アントワネットの敗北。その後、デュバリー夫人は、ルイ15世が崩御する寸前にベルサイユを去り、最期はフランス革命で断頭台の死を迎えることになります
このパンは「シャンピニオン champignon」といって、フランス語で「マッシュルーム」という意味。見ての通り、きのこっぽい形のパンです。シンプルなパンですが、とても魅力的。このシャンピニオンは、上の小さい生地と下の大きく固い生地、そして中の柔らかい生地の3つの美味しさが味わえます(^Q^)
Poisson
ポワソンが運ばれてきました。フランス料理のフルコースで、通常スープの後に登場する魚料理のことを意味するフランス語がポワソン(poisson)です。 Filets de sole Pompadour 舌平目のフィレ ポンパドール風
付け合わせはミニハッシュドポテトと、プチトマトには火を通してあり、中の果実が温かいスープになっています。
舌平目といえば「ムニエル、フランス料理、高級、グルメ」といったイメージが浮かびます。そんなイメージが定着したのは、やはりフランス料理の影響が大きかったようです。日本料理では昔から刺身、塩焼き、煮付けが定番でしたが、あまり重用はされてきませんでした。ところが、フランスの代表的な魚料理として紹介されてから、その美味さが再認識され、イメージアップにもつながったのでしょう。魚の名前は、その特徴を見事に表しているものが少なくありません。舌平目という名前も舌の形をした平目を連想するだけで実物にかなり近づきます。ヨーロッパでは「魚の女王」といわれるほど珍重され、中でもフランスでは舌平目の料理というのは欠かせない存在で、バター焼きやムニエルは高級料理です。魚料理は嫌いなヨーロッパの人でも、舌平目の料理だけは好きという人も多く、日本でも、海外旅行が盛んになるにつれて人気が出てきた魚です。ほぼ年中獲れ、白く淡白な身であっさりとした味わいのある魚です。夏から秋が旬であり、クロよりアカのほうが身が厚く美味しいのです。舌平目は、その形からフランスでは靴底を意味する「ソール sole」、日本では牛の舌と呼ばれています。日本の舌平目は、胴と尾の区分がありませんが、フランスのものはカレイやヒラメ同様分かれています。日本では表身が赤っぽい赤舌平目が、フランスでは黒っぽい黒舌平目が好まれています。フランスのものは日本のものに比べると大きく、片身の厚さ2cm、体長65cmくらいに達するものもあり、特にドーバー海峡でとれるものは大きさも味も優れ絶品とされています。フランスでは川魚ならマス、海魚なら舌びらめといわれるくらい重宝がられ幅広く利用されています。グリエやムニエル、観音開きにして詰め物をしたり、技巧の楽しめる素材ではありますね。
おっ! トリュフです!(^O^)\ 「舌平目のフィレ」とは3枚におろした身のことです。衣を付けてソテーした舌平目のフィレにソース・ショロン。澄ましバター、卵黄、水、酢、粗砕き胡椒、エシャロット、エストラゴンなどで作るソース・ベアルネーズにトマトペーストを加えたソースです。舌平目は、あっさりとした味わいで、ソースとの相性が抜群でした(^Q^)
キャビア・フォアグラと並び、世界三大珍味の1つに数えられるトリュフ。日本では「西洋松露」と呼ばれ、樫や楢などの根本に自生する食用茸。根も茎もなく、地下20〜30cmの深さで成長し、白トリュフ・黒トリュフの2種類があります。胞子が形成される頃、独特の強い芳香を放ち、味よりも香りを楽しむ食材とされています。人工栽培が不可能で、フランスやイタリアの限られた地域で収獲され、地表からは見えないため、採取は動物の嗅覚が頼りで、豚を訓練して行います。黒トリュフは「黒いダイヤ」と言われますが、白トリュフは収穫量も少なく、黒トリュフの3倍以上いたします。少し温め、香りを引き出して風味付けや飾り付けに少量使用します 。特にフランス料理ではソースの香り付けや料理の付け合せに。 また、そのままスライスしてサラダやオードブルに用いられ 、軽くソテーして料理のあしらいにも利用されます
フランス王ルイ15世が親政を始めた1720年代〜ポンパドゥール夫人が逝去した1764年までが”本当のロココ時代”…ロココの女王「Madame de Pompadour ポンパドゥール夫人」の登場です。ジャンヌ・アントワネット・ポワソンは、1721年にフランス・パリの銀行家の娘として生まれました。平民の身分ではありましたが、ブルジョア階級の娘として貴族の子女以上の教育を受けて育ちました。成績は非常に優秀であったといわれています。1741年、徴税請負人のル・ノルマン・デティオールと結婚し、マダム・タンサンやマダム・ジョフランの超一流サロンに出入りするようになり、ヴォルテールやフォントネルなどの一流文化人と知り合い、1744年にはその美貌がルイ15世の目に止まります。彼女はポンパドール侯爵夫人という称号を与えられて夫と離婚し、1745年、正式に公妾として認められます。その後、ポンパドール夫人は文化芸術の保護・発展に力を注ぎ、ロココ王朝のトレンドリーダーになります。彼女の功績を称え、当時の優れた美術品や工芸品は「ア・ラ・ポンパドール(ポンパドール風)」と呼ばれています。一方、彼女は美食家としても知られ、フランスで初めてバゲット型のパン、つまり私たちが「フランスパン」と呼ぶパンの原型を考案したと伝えられています。”ポンパドール風”の名の付いた料理は数多くあり、宮廷料理人が彼女のために考案したものです。ポンパドゥール夫人が1764年に世を去って3年後の1767年、ルイ15世は、デュ・バリー夫人に魅了されることになります。

Viande

フランス料理で最も大切な料理・ヴィアンドゥ(viande 肉料理)が運ばれてきました。 「Supreme de volaille de Bresse Polignac pates noilles au beurre ブレス産雛鶏胸肉ポリニャック風 自家製ヌイユと共に」
左がソテー、右が煮込み。柔らかくてジューシー…さすがにブレス産の雛鶏です!(^Q^) ソースは、マスタードなどの香辛料の辛味がアクセントになったディアブル風ソースです。ディアブルソースはピリッと辛いことから「悪魔風ソース」と呼ばれています。「ポリニャック風」とは、彼女の性格から「小悪魔風」「悪女風」という意味であるとワンダフルハウスは解釈しました。
高価なワインのようにA.O.C.(原産地名規制呼称)で呼ばれている、世界最高峰としてフランスを代表する「ブレス鶏 Volaille de Bresse」の登場です。その美味しさの裏には厳しい条件があって、年間130万羽しか出荷されないのです。フランスで出荷されるブロイラーが7億5000万羽。この数字と比べると、とても希少な鶏であることがわかります。世界の養禽場・ブレスは、ブルゴーニュ地方アン県を中心に広がるブレス地方。ソーヌ川を挟んでボージョレのワイン産地の反対側で、ソーヌ川の東岸に広がるエリア。ブレス地方には湿地が多く、小さな林や湖沼が点在しています。年間を通じて降水量が多く、川や沼の周辺には濃霧が発生する程です。実はこの湿地がブレス鶏の飼育には理想的な条件なのです。土壌も十分に湿気を含み、ミミズなどの昆虫の繁殖を促し、ブレス鶏がそれらを好んで食べ、香り高い柔らかな肉質となるのです。ブレス鶏の品種は、ガリュス種と呼ばれる先祖代々この地に受け継がれている血統で、仮に同じ生育方法や条件を満たしても、ガリュス種でなければブレスのAOCは名乗れません。一度に飼育できる数は、500羽に限定されています。飼育方法は、まず鶏卵の状態から厳しく規定が決められていて、雛鶏になったら18〜20℃の室温でトウモロコシや小麦を砕いたものを与え、自由放飼まで続けます。5週間目位からは、トウモロコシや小麦の他に、草村の中の湿った土の中からミミズや昆虫など何でも自由に食べさせます。屋外で飼育されるブレス鶏に割り当てられる敷地面積は10平方メートルに1羽と決められています。ブロイラー鶏の1平方メートルに25〜30羽位詰め込まれているのに比べると、いかにブレス鶏がのびのび育てられているか良くわかると思います。このようにストレスを一切与えずに育てた鶏は香り高い柔らかな肉質に変わっていくのですが、最後の仕上げの2週間は、狭い1羽ずつの鳥籠に入れられます。身動き出来ない状態でトウモロコシを与えられ、自由放飼で身の締まった脂身の少なかった鶏が、ふっくらと太り脂肪をたっぷりとのせていきます。この時に与える飼料の中に搾りたての牛乳を加えるのが、このブレス地方独特の方法だそうで、ブレス鶏の肉質がより柔らかになる理由は、この牛乳に隠されていたのでした。生産量を抑え、手間隙かけて育てられ、「ブレス」という大地の恵みにも育まれたブレス鶏はフランスのみならず、世界のグルメを唸らせる逸品となるわけです。
マリー・アントワネットの親愛なる取巻きとして、10数年の長きに渡ってベルサイユに君臨した「ポリニャック伯爵夫人 Comtesse de Polignac」こと「ヨランド・マルティーヌ・ガブリエル・ド・ポラストロン Yolande Martine Gabrielle de Polastron」の登場です。ポリニャック伯夫人は、アントワネットより6年早い1749年の生まれ。生家や生い立ちについては謎ですが、彼女の嫁いだポリニャック家は代々フランス王家に仕えた家柄でした。ルイ14世とルイ15世時代には外交官としてメルシエ枢機卿が重用され活躍。しかし、ルイ14世の寵姫のモンテスパン侯爵夫人が1678年に起こした黒ミサ事件に一族から関与者を出したほか、メルシエ枢機卿も後に失脚し、ポリニャック家の家運は衰退ぎみでした。1774年、ルイ15世が死去すると、直ちに王太子ルイ・オーギュストがルイ16世として即位し、王太子妃マリー・アントワネットは18歳でフランス王妃となります。長い間、フランスの宮廷は国王の寵姫によって牛耳られていたため、国民は若くて愛らしい新王妃を新しい時代の期待を込めて温かい目で迎えます。しかし、若くして王妃になったアントワネットは、それまでの古いしきたりに束縛されるのを嫌い、自分の思いのままにふるまうようになります。自分のお気に入りの人物だけを周囲に集め、それ以外の人々は、宮廷の中心から排除していったのでした。王太子妃時代からのマリー・アントワネットの一番の友人だったのは王家とも血縁関係もあるランバル公爵夫人で、女官長のような地位を与えられていました。しかし、享楽的なアントワネットは、おとなしく控えめな彼女を次第に物足りなく感じるようになっていきます。そこに登場したのが、ポリニャック伯夫人でした。当時26歳だった伯爵夫人は、気品と愛らしさを備えた魅惑的な美貌で、すっかり王妃を魅了し、天真爛漫な2人はまたたく間に意気投合したのです。アントワネットは、そのうちヴェルサイユの本宮殿を離れ、自分だけのプライベートな小宮殿「プチ・トリアノン」でお気に入りの友人だけに囲まれて過ごすのを好むようになりました。王妃と取巻きたちは、当時としては奇抜で派手なファッションを生み出し、退屈することを恐れて様々な遊びにふけり、惜しげもなく浪費を重ねます。ポリニャック伯爵夫人は、もちろんプチ・トリアノンの常連でしたが、ここに泊ることを許されたのはポリニャック伯爵夫人と王妹・エリザベート内親王だけでした。アントワネットは、やがて片時も離れていられないほどポリニャック伯爵夫人に心を許すようになります。あまりの親密ぶりに、王妃の取り巻きを快く思わない人々から同性愛の噂をたてられるほどでした。ある時、伯爵夫人が経済的な理由で宮廷を去ろうとした際に、アントワネットは涙を流して引き留め、ポリニャック夫妻に年金および下賜金として年間50万リーヴル、後には70万リーヴルもの大金が与えられることに。こうして王妃の友人という立場を利用し、権勢を欲しいままにしましたが、フランス革命が起きるとポリニャック夫妻は国王一家を真っ先に見捨ててオーストリアに亡命。ランバル公爵夫人が最後まで国王夫妻に忠誠を尽くし、革命の正当性を認めなかったことから最後は民衆によって惨殺されたのとは対照的でした。しかし、民衆の憎悪の中心人物の一人でありながら革命をうまく逃れたポリニャック伯夫人も、それからまもなく命運が尽き、1793年に亡命先のウィーンで急死。44歳でした
「ん? これはフェットチーネ…フランス料理の付け合わせにパスタとは珍しいですね」「ワンダフルハウス様、こちらはマキシム自家製のヌイユでございます」「ヌイユ?」 ヌイユは表面がざらざらしてソースが絡みやすく、しっかりとした歯ごたえがあります。ヌイユの平たい麺にソースがからんで美味しくいただきました(^Q^)
「ヌイユ nouille」は、ご覧の通り、きしめんのような幅広の麺。 パスタで言うタリアテッレ(フェットチーネ)のような感じです。フランス料理でも時折、ヌイユやラヴィオリなどのパスタが使われますが、イタリア料理のように主食的な使われ方はしません。付け合わせとして使われるのが一般的です。

Avant Dessert

甘いものに目がなかったといわれるアントワネット。アヴァン・デセールのクレーム・ブリュレの登場です。「アヴァン・デセール avant dessert」とは、フランス料理のフルコースでデザートが2皿構成の時などに1皿目にでてくる軽いデザートのこと。ソルべやジュレ、アイスクリームなど軽く小さな冷菓などの場合が多いです。
1980年代前半、若きジョエル・ロブション氏が、史上最短でミュラン3つ星を獲得した伝説のレストラン「ジャマン」で、アヴァン・デセールとして発表し、当時のパリのスノッブな人種の間に、ちょっとしたブームを巻き起こしたのがクレーム・ブリュレです。フランスのレストランのメニューをのぞいてみると、クレーム・カラメル(プリン)があると、クレーム・ブリュレはなくて、レストランの格が上がるにつれて、クレーム・ブリュレが登場する割合が上がってくるようです。元々は、パリの超高級レストランで、ごく限られた客しか食べられない贅沢品だったクレーム・ブリュレでしたが、日本が誇る天才パティシエ「パティシエ・シマ」のオーナーシェフ島田進さんが、街のお菓子屋のアイテムとして提供できないかと工夫をこらして1988年9月に「シェ・シーマ」が開店した時に創り上げたのが、現在では日本中の洋菓子店で販売されているココット型に入ったスタイルのクレームブリュレ。クレーム・ブリュレは、その後、1990年代前半にポスト・ティラミスと呼ばれて大ブレイク。2001年の秋〜冬にかけて、フランス映画「アメリ」のヒットで再び大ブレイクしました。
カリカリのキャラメリゼは、薄くて簡単に割れました。 表面のクリスピーな砂糖と中のとろっとした冷たいカスタードを一緒に口に運ぶと、正反対の舌触りの微妙に違う甘さが一つに溶け合います(^Q^) 皿が平たいので量は少ないですね。
アメリはパリに一人暮らししながら、カフェで働く空想好きの女の子。ある日アパートの壁の中に、秘密の小箱を発見したことから、人を幸せにする小さないたずらをするのが趣味になりました。亡き夫を偲んで悲しむ女性に幸せの手紙を届けたり、意地悪な商店主にホラーな悪戯をしたり。アメリの暮らしはそんな小さな幸せで満たされていました。そんなある日、ある男の子に出会ったことで、空想の中で生きていたアメリは、現実の恋に向き合うことになります。クレームブリュレはアメリが好きなものとして、映画の冒頭で紹介されるものです。フランス語で、クレーム・ブリュレとは「焦げたクリーム」という意味。クレーム・ブリュレの特徴である表面の「カリカリ」。これは、カスタード生地の上にカソナード(赤砂糖)をふりかけて、バーナーで焼いて焦げ目をつけて作ります。こんがり飴色の表面に張ったカラメルの膜をスプーンでパリッ!と割るのがアメリの小さな幸せなのです。

Dessert

そしてついに、マリー・アントワネットに捧げるデザート「タンバル・エリゼ」の登場です。
「Dessert ”Marie Antoinette”Timbale Elysee マリー・アントワネットに捧げるデザート タンバル・エリゼ」 す…素晴らしい!\(^○^)/ タンバル・エリーゼは、日本では迎賓館や大使館の晩餐会のデザートで、たまに出ることがあるだけで、フレンチ・レストランでは、めったにお目にかかれない貴重なものです。このように薄地のクッキーを太鼓型に作ったお菓子がタンバルです。タンバルは「太鼓」という意味のペルシャ語から来た言葉。
オーストリア・ハプスブルグ家の末娘マリア・アントニアは、1755年11月2日、オーストリア皇帝フランツ1世と皇妃マリア・テレジアとの間に生まれました。マリー・アントワネットという名前は、元の名をフランス語に置き換えたもので、フランスに嫁ぐ前のドイツ語名(本名)は「マリア・アントニア・ヨーゼファ・ヨアンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン」です(@_@)
タンバルにエリゼが付いて「タンバル・エリゼ」となると、パリのレストラン「ラセール Lasserre」の名物になります。タンバルの上にバニラアイスと桃を入れ、飴細工のネットをかぶせるのがオリジナルです。正式には、油を塗ったドーム型に熱した飴を細くたらして、出来上がったドーム型の飴細工をタンバルに帽子のようにかぶせます。マキシムのこの飴細工のネットは簡易型と言えます。
ラセールは,かつて堂々たる3つ星レストランでした。おそらく変化がないことを理由に2つ星に格下げされた後、オーナーの引退後は1つ星になってしまいました。 天井が開閉できるようになっていて、晴天の日は夜空を見ながら食事ができるという粋な空間も用意されている素晴らしいレストランです。
このソースは、卵黄と牛乳とグラニュー糖とバニラビーンズで作ったアングレーズ・ソースの上にフランボワーズ・ソースを流し、竹串で模様を描いたものです。 マキシムのタンバルの上には何が乗っているのでしょうか? 何やら赤黒い物体が…バニラアイスではなさそうですね(^‐^)\

飴のネットをどけて、光を当ててみましょう。
おおっ!ワンダフルハウスの大好物・フランボワーズのソルべ(シャーベット)です!\(^Q^)/ 数あるフルーツのソルべの中でも、独特の香りと酸味が上品なフランボワーズが好みなのです。生のフランボワーズとホイップクリームとフレッシュミントも添えられていて超豪華。
舌に乗せた瞬間にサッと溶けていく滑らかさです(^Q^) ソルべの下にビスキュイも隠れていました。タンバルと飴とソースと、キレのある甘酸っぱいソルべ・フランボワーズが奏でる絶妙のハーモニー。あまりにも魅惑的なタンバル・エリゼでした。

Wagon Desert

プティフールが運ばれてきました。コーヒー、エスプレッソ、紅茶の中から好きなものを一品選んでマリー・アントワネット・メニューは終了となります。「まだ食べ足りないので、ワゴンデセールを追加してください!(^O^)/」 ワゴンデセール(2100円)が運ばれてきました。
続く

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