金子功と三宅菊子 |
アンアン1970年の創刊号から’72年の49号までの金子功ファッションページ、アンアンに’79年から’81年まで連載された「金子功のいいものみつけた」、アンアン1982年329号「金子功 パリでいいものみつけた」、アンアン1984年460号「金子功のパリでいいもの見つけた!」、’84年〜’89年「金子功の絵本」シリーズ、アンアンに’91年から’94年まで連載された「金子功のいいものみつけた」 以上の作品全ての文章を書いたのが「週刊平凡」「平凡パンチ」「平凡パンチ女性版」「アンアン」と堀内誠一&金子功コンビと同じキャリアを重ねて来た三宅菊子さんである。 |
1970(昭和45)年、女の節句雛祭りに「anan」が創刊された。フランスの女性雑誌ELLEと提携、A4変型判・オールグラビアカラー。同誌は雑誌ジャーナリズムに一大旋風を巻き起こし、その後の雑誌のあり方を大きく変えた。
「anan」は、それまでの女性雑誌の二本柱である皇室記事と芸能スキャンダル記事から脱却し、ファッション、旅、ショッピングを情報として伝える誌面作りに徹した。同誌の読者層は、当時二十代前半の団塊の世代の女性たち。
衝撃的なグラビア・レイアウトを手掛けたのはアートディレクターの堀内誠一。そしてそれまでの女性雑誌になかった、女性が自己主張したような文体は”アンアン調”と称された。その文体を作り上げたのが、フリーライターの三宅菊子さんである。
「アンアン調」とは? |
当時、アンアンに書いた私の文体がアンアン調とか言われましたが、ある種の文体というよりも、こうなのよっていうふうに言い切る書き方です。雑誌の読み手の女の子たちを主語にした、女の子の立場にたった記事の書き方を、ずいぶんやったと思います。ファッションの記事のこうやると間違いのないおしゃれとか、欠点を隠すおしゃれとか、そういうんじゃなくて、これはいいから着るんだという読者を主語にした言い方。編集部から読者の女の子たちにお伝えするんじゃなくて、読む人の立場になって考えるような言い方。私は無署名原稿に自我を取り込んだ書き方を意識的にやったし、のびのび書いてました。主体的に服を着よう、行動しようと言ったのがアンアンで、そこが他社の女性雑誌と違うわけです。 |
堀内誠一と三宅菊子 |
「週刊平凡」で5年くらい経った時に新雑誌が出ることになって、「平凡パンチ」の臨時増刊として「平凡パンチ女性版」が出て、次に「アンアン」が創刊されました。私は「週刊平凡」をやりながら「アンアン」もやることになりました。 「週刊平凡」の時は、芸能人に取材に行くこともなかったので、いわゆる芸能記者にはならなかったけれど、「アンアン」に移ったら、おしゃれや映画や音楽など、私が結婚する前にいろいろ楽しんでいた世界のことだから、自分から積極的に関わっていくようになりました。 その時分はまだ週刊誌も活版ですから、レイアウトというより割り付けです。原稿を書けば、割り付けして印刷所に回るわけです。つまり今で言う先原ですよね。どんな下っ端が書いた原稿だろうと先原で、それをざーっと割り付けして印刷に回すというシステムでした。 「アンアン」のライターをやり始めて、そうじゃない世界もあるんだというのに驚きました。グラフ誌の編集というのは、まずアートディレクションがあって(レイアウト先行)、次に文字で埋めていく。アートディレクターの堀内誠一さんと弟子が2人ぐらい来て3人でレイアウトして、格好いいなと見てました。堀内さんが関わっていた頃の「アンアン」はとってもハイブロウでしたから、まず堀内さんがレイアウトして、ここに原稿書けと言われて原稿を書いていくわけです。 |
著書 | 著者 | 出版社 | 出版年月 |
商売繁昌 | 三宅菊子,阿奈井文彦… | 中央公論社 | 1976 |
楽しいひとり暮し | 三宅菊子 | じゃこめてい出版 | 1979.2 |
私の好きな名人たち | 三宅菊子 | 筑摩書房 | 1979.11 |
楽しく暮らす101ヒント | 三宅菊子 | じゃこめてい出版 | 1980.5 |
愛しかた面白ノート | 三宅菊子 | じゃこめてい出版 | 1980.10 |
楽しい二人暮しのABC | 三宅菊子 | 大和書房 | 1981.6 |
料理は簡単なほど美味しい | 三宅菊子 | じゃこめてい出版 | 1982.6 |
男のための簡単うまいものキッチン | 三宅菊子 | リヨン社 | 1984.12 |
セツ学校と不良少年少女たち | 三宅菊子 | じゃこめてい出版 | 1985.1 |
いそがし人のお助け簡単キッチン | 三宅菊子 | リヨン社 | 1986.10 |
ひとり暮しのプログラム | 三宅菊子 | じゃこめてい出版 | 1987.11 |
食いしん坊の面白シンプル料理 | 三宅菊子 | 海竜社 | 1987.12 |
宇野千代振袖桜 | 宇野千代,三宅菊子 | マガジンハウス | 1989.3 |
真夜中のダッフルコート | 三宅菊子 | 文化出版局 | 1991.9 |
料理は簡単なほど美味しい | 三宅菊子 | 三笠書房 | 1991.10 |
三宅敬一を偲ぶ | 三宅菊子 | 三宅菊子 | 1994.12 |
公園とは呼べないかもしれない。広場、と言うにも小さすぎる。通るたびに、懐かしいような気持で見ずにはいられない。ちょっと座っていこう、と思うのだが、放浪者が酔って寝ていたりもして、実際にこの場所で時間を過ごすことは難しい。昔はここで撮影をしたこともあったが。
こんな場所がパリには沢山ある。こういう街の造り方をした人たちだからこそ、いいものを創る。そして才能ある人たちがパリに集まってくる。
この小さな公園までくると、市場の喧騒も聞こえず、周りに店もなく、ただひっそりとした空気がそこにあるだけ。夏は冷(ひ)んやりと気持がいい。
周りは石造りの古いアパート。大昔がそのままここにあるような佇(たたず)まい。鯨骨の下着をつけた襞(ひだ)の多い長いスカートの服、などを着たエミール・ゾラの時代の女が歩いていても驚かないのではないか。
あの古い建物は、案外に脆(もろ)そうな(石膏のような)石でできていて、きたないから、危険だから取り壊すべきだと言われるのも充分に頷(うなず)ける。けれど、何百年もここにあった家……というよりパリそのものなのだから、取り壊すなどもっての外、という反対論はもっと頷ける。
パリの誰もが大反対なのに、古いパリの建物は少しずつ壊されていってるようだ。突然ガラス張りのビルが建ったりする。
それでも、全体としては古いパリがこのまま生き続けていくだろう。百年昔も百年先も、この小さな公園は変らずにここにある。
アンアン1982年4月23日号(No.329)「金子功 パリでいいものみつけた」より
パリのサンジェルマン・デ・プレの裏通りに、小さな小さな公園がある。パリが死ぬほど好き……のデザイナー、金子功さんが、宝ものの隠し場所を教えるみたいに喋ったので私はずっと憧れていた。
で、そこに行ってみたときも涙が出てしまった。道と道とがぶつかる角に、広場……とも言えない、小さな中庭くらいのスペースをとり、大きな木が一本繁って、その回りをかこむ形の石のベンチ。名前なんかない、「公園」と呼ばれても困る、というくらいのチビ公園だ。石のベンチには彫刻のような飾りがついていたりして、多分百年も二百年も前からあったのだろう、こんな場所がパリには沢山あって、「文化」ということはこれなんだなァ、と思った。
「真夜中のダッフルコート」より
NEW! |
「おしゃれ」に関しては、どうしても’70年の春ananが創刊した頃と現在とを比べてみてしまう。あれから20年余りの間に、ほんとにいろんなことがあった!
そのいろんなことの中で先ず思い浮かぶのがルイ・ヴィトンの鞄だ。どこかの雑誌に書いてあったけれど、いまルイ・ヴィトン製品の60〜70%を日本人が買っているという。ヴィトンの店(やエルメス、シャネルなど)で日本人の小娘が棚の「ここからあそこまで全部という買い方をする、それが嫌で恥しいと”心アル人々”が論評するのも現在の一つの流行である。
ルイ・ヴィトンの3つや5つ持っていたって自慢にもならないし、もしかしたらダサイとさえ言われかねないのが現状で、まだまだ日本のブランド信仰時代は続くのかもしれないが、その中でのルイ・ヴィトンの地位は輝けるトップクラスとは言えない。
が、かつて――。この紫の十手が見えないか、とか、水戸黄門さまの印籠、くらいの威力をルイ・ヴィトンが持っていた時代もあった。それが、anan創刊のしばらく後のことで、そのちょっと前には、ルイ・ヴィトンの名前を知っている人が日本に何人いたか。
私も知らなかった。知るようになったのはananでだった。デザイナーの金子功さんは、anan創刊より前にパリで買ってきていて、宝もののように大切にしていた。ananの第1回パリ・ロケの写真にその鞄が写っている。そのときに新しく買い足したのも一緒にして、ちょっとした山になるくらいの数、と言っても大小まぜて4〜5個だったかしら。
私は、あ『80日間世界一周』に出てきた鞄だ、と思うくらいで、創立1854年の由緒ある老舗で云々……などというあの鞄の価値は知りもしなかった。LVマークの柄のついた一見革風の素材がビニールなのか豚革なのか何だろう、と思った。「ルイ・ブイトン」と発音する人もいたし「ビュイトン」と言う人もいた。
考えてみるとほかの映画でも、お金持や女優がリッツホテルなどに到着する場面で、まるで引越みたいに大きなトランクを積み上げて、さらに中くらいや小さいのやゴロゴロとある、それがあの鞄だったのを何回か見た記憶もあった。
ずっと後になって知ったことだけれど、あの柄は1896年に初めて売り出されたそうで、その時分はもちろんすべてが本皮でできていた。だから『80日間…』に出演したのも皮製のはずだ。
そしてビニール、と言っては失礼かもしれない現代版のほう――樹脂加工を施したトアル地、というのだそうだ――ができたのは1959年。
けれど’60年代の日本では、外国製品など現在に比べれば無いに等しい程度しか売っていなかった。とくにフランスの超一流銘柄品なんて……。よほどのお金持か特殊な人たち(たとえば安井かずみさん、朝吹登水子さんのような)だけがパリへ行って、直接、エルメスやシャネルやルイ・ヴィトンのような店で何かを買うことができた。
だからこそ、第1回フランス・ロケの写真に金子さんのルイ・ヴィトンが写っていることに意味があった。――ついでに言えば、大衆雑誌でパリにファッション撮影に行くこと自体も画期的。撮影隊が羽田(成田はまだ無くて、空港建設反対闘争たけなわ)を出るシーンの写真をわざわざ掲載したほどなのだから。私も羽田に見送りに行ったが、その写真には写っていなかったのでちょっとガッカリした記憶もある。
連休に海外へ行く日本人40万人、パリでエルメス、シャネル、ヴィトンほか有名ブティックのお客は日本人ばっかり……なんていう現在を、あの頃、誰が想像できただろう。パリはフツーの女にとって、まだまだ遠い遠い遠い所だったのだ。
フランソワ・ヴィヨンのブーツ、エルメスのバッグ(例の型がケリー・バッグという名前だなんて、まだ私たちは知らなかった)、当時は一流店だったティルビュリーの靴……などもananに載った。いまで言うと何にたとえたらいいのか、とにかく途方もない宝もののような扱いだった。
シャネルのスーツに至っては、普通の人間に手の届くものとしてではなく、ただこういうものが在るということを知るだけでおしゃれ。何かの形でそれを載せることが雑誌としてのおしゃれ。私などは、まるでルーブル美術館の絵のように、自分の生活からは遠い存在に思っていた。
あの頃は、ananが雑誌の名前だと知っている人は世の中的には絶無に近く、ケーキ屋さんなどに取材に行っても、まずお願いをする段階でひと苦労なのだった。だから、ごく少数しかいなかった当時の読者は、ananを読んでいるということ自体、凄くおしゃれなエリート意識を持つことができたかもしれない。
・・・・・・後略・・・・・・
「真夜中のダッフルコート」より