遊び人の大社交場として「ビブロス」と人気を二分していた「ムゲン」は、外タレのライブが売りの”ゴーゴークラブ”。来ていた人の顔ぶれは「ビブロス」とほとんどいっしょ。
「『○○ちゃんは今日は来てないの?』と聞く感じで、みんな毎日通ってくるのが当り前だったのよね」と川村都さん。
正面の大スクリーンには、当時はやりのヒッピーのシンボル、サイケデリック・イメージがスライドで映し出されて怪しげなムードが漂っていたそう。ビッグになる前の山本寛斎さんが店内でオリジナルの小物を売っていたりと何か起こりそうなクリエイティブな雰囲気も魅力になっていたようです。
カタカナ職業が出はじめたころで、カメラマン、デザイナー、イラストレーターは、みんなの大アコガレ職業。そういう人が毎晩集っていたのだから盛り上がるのも無理ないというワケ。
アンアン1986年12月12日号(No.556)より
いまもムゲンの狭い入口をくぐる時、特別な感情をおぼえる。昂ぶった胸のときめきのようなもの――入口は巨大な鍵穴のようだ。知覚の扉、子宮への穴ぼこ、都市の地底王国への秘密の入口とも思える、その入口をはじめてくぐったのは、1970年だった。
ムゲンが誕生したのは、それより2年前、ぼくは東京の高校生だった。週刊誌やテレビで、その誕生を知り激しい好奇心にかられたものの、18歳のガキが東京の先端に誇らしげにたつクラブにヒョコヒョコ行けるほど都市文化は甘くなかった。せめてもが新宿のジャズ・クラブかアングラ・ディスコだった。
1970年に、神様のはからいでか、ぼくはADセンターという広告制作会社のコピーライターの仕事をバイトでするようになった。ピンクハウスの金子功さんが、まだ社員でいた。ある日、金子さんをはじめとする会社の大人たちに連れられて、はじめてムゲンに行った。アイク&ティナ・ターナーのショウを見に行ったのだ。ステージの一番前でティナ・ターナーの汗が飛び散ってきた。ぼくは異常な興奮状態におちいった。そこに来ていた全員が全身全霊でエキサイトしていた。
その時、ぼくは20歳になっていたけど、まだ何も知らないガキなのだなと思い知らされた。ムゲンは、ぼくのようなガキを寄せつけぬ、すさまじい大人のクラブだったのだ。
「それが、ムゲンのコンセプトだった」 ’68年、まだぼくが高校生だったころにムゲン誕生のプロデュースをした浜野安宏氏がいう。「サイケデリックがドラッグ・カルチャーの現象からアートに移行したのが’67年。その動きのなかで、ぼくは『感覚の解放、認識の拡大』をコンセプトにした大人のためのサイケデリック・カルチャーをつくろうと思った。結果、ムゲンはそれをやりとげた。戦後、はじめてですよ。大人が”大人である”ことから解放されて狂ったのは。それ以後、大人は、また静かな生活に戻ったんです」
紀伊国屋書店の故・田辺茂一社長がステージにあがり踊っていた光景を、浜野氏はいまも鮮烈におぼえている。三島由紀夫、川端康成、澁澤龍彦、渡辺美佐、丹下健三、小沢征爾の各界の実力者たち、若い世代では横尾忠則、篠山紀信、加賀まり子、安井かずみ、三宅一生、コシノ・ジュンコ、沢田研二等――「毎晩、それはすごい夜が続いた」
浜野氏は、そのサイケな夜の司祭者だった。それ以上に、’60年代末に狂い咲いたサイケデリック・カルチャーのアジテイターでもあった。
流行通信1987年2月号「赤坂ムゲンをめぐるディスコ20年史」より