西の木

金子さんは、「西の木」では、何度かロケを行っているが、最初のロケとなると、アンアンの1971年1月5日号(20号)になる。この時、栗崎さんと初めて会い、意気投合した金子さんは、仕事場(アンアン編集部)と自宅に近いこともあり、毎日のように「西の木」に通うことになる。その後、「金子功のいいものみつけた」「金子功のブラウス絵本」Penに掲載されたメンズカネコイサオの広告などで「西の木」を使わせてもらっている。

栗崎さん「(金子さんとの)正式な初対面は、僕の店”西の木”で、ユリを撮影したときだ。ガレーの硝子か、ティファニーのランプか、僕の西洋骨董のささやかなコレクションを大倉舜二氏が撮った、その写真を雑誌で見て、アイディアが生まれたのだという。ユリがシャネルスーツを着る、背景がアールデコの家具であったり、古い硝子であったり、というわけだ。僕は無論即座にOKをし、ちょうど新しい店(現西の木)に移ろうという矢先であったから、まるで引越し記念のような具合に撮影が行なわれた。創刊間もない頃のananに、妙なる美しさ漂う数頁が載り、僕の中には快い衝撃と、その後永年にわたって続く友情の予感が残った。」(金子功のワンピース絵本P71より)
金子さん「彼(栗崎さん)が快く場所を提供、その上に花や骨董品の組合わせ(コーディネーション)にほとんど天才的スタイリストの手腕を見せて協力してくれた。写真は素晴らしくページは大成功。」「あの華麗なガラスや豪奢な家具、目を奪う花花花の中で、ユリが、モデルではなく何かの化身のように、僕の服を着て輝く。」(金子功のブラウス絵本P88より)

アンアン1971年1月5日号(No.20)「エレガンスなお正月」 ELEGANCE AGE 1971
モデル=立川ユリ コスチューム・デザイン=金子功 花=栗崎昇 カメラ=新正卓 文=長沢節(三宅菊子)
画面を見てわかるように、当時のアンアンはファッションエリート達のための”大人の”雑誌だった。
金子功のブラウス絵本(1985年)「懐しき古き時代の蘇生」
「金子功のいいものみつけた 17 栗崎昇の花とシャネル」
モデル=ヴァレリー コスチューム・デザイン=金子功 花=栗崎昇 カメラ=吉田大朋 文=金子功(三宅菊子)
上下を見比べてみれば一目瞭然であるが、スタッフがほとんど同じだ。吉田大朋はインドロケを撮影したカメラマンであり、篠山紀信、沢渡朔、大橋歩など1970年から71年にかけてアンアンで一緒に仕事をした人達が’80年代に集結して創った本が「金子功の絵本」なのである。金子さんがアドセンターに入社していなければ、堀内誠一と知り合うことも無かったし、アンアンの仕事もしていなかっただろう。「金子功の絵本」は、時代と出逢いが生んだ奇跡的な作品なのである。一番右の画像が「金子功のいいものみつけた 17 栗崎昇の花とシャネル」(アンアン1979年11月1日号)

「エレガンスなお正月」 ELEGANCE AGE 1971 おはなし 長沢節 

この道はカルダンの前を通り、サンローランの「リヴゴーシュ」を過ぎて、エルメスやランバンがかたまってるあたりまではいつも花やかである。やがてマドレーヌにつき当たるロワイヤル大通りをまっ直ぐ横ぎると、サントノーレも急に淋しくなる。すぐにカンボ通りという横町があって、そこで私は殆ど人と出会ったことがない。その横町の先100メートルくらいのところ左側が「シャネル」だ。
人気もないし物音もしない死の街みたいなところ……「たしかこの辺だったナ?」と、私はいつも間違って1軒手前のところにはいりそうになる。窓の感じでも似てるのかもしれない改めてCHANELの字を探すのだ。
鏡と金ピカの店の中は意外に黒々と静まりかえっていて、ひとりの客も見かけたことがない。あちこちにいる店の子たちの視線を同時に受けとめるのが気がひけて、だからゆっくりと店内を回ったこともない。すぐ右手の回り階段から2階のサロンに直行してしまう。コレクションはそこで行なわれるのだ。
先にスーツ類が次々に出てきて見飽きた頃、後半が夜会服に変わってゆく。私は彼女の夜服に特に引かれる。カルダンやサンローランみたいにコケオドカシが全くない。ドレスそのものといった格調の高さで参るのである。それは男のデザイナーが、女をオブジェとして創り上げる衣裳芸術とは全然異なった次元の美……つまり女そのものを高めてゆくための衣裳なのだ。1メートル80近いマヌカンたちがどれも神々のように見えてしまう。
シャネルの信条は分らないが、彼女のいわゆる頑固さは、ふと逆に「自由」そのものではないか?と思えることがある。何ものをも恐れず、何ものにも拘束されない強靭な自由のエスプリなのかもしれない。だからパリモードは時々シャネルに還るのである。還るべきシャネルを持ったパリのモード界は実にシアワセというべきだろう。
コピーのうるさいパリのモード界で、昔からコピーをどうぞといっているのが彼女なのだ。その自由さがつまり頑固さなので、自由の証明は彼女の衣裳が無条件に「美しい」あいだは続くのである。


NEW!

金子功のいいものみつけた 17 栗崎昇の花とシャネル

シャネル・スーツを着るのは大人の女だ。単に年齢だけの問題ではなく、シンプルな服をしゃれっ気で着こなしてしまう実力の女。粋などという言葉を”ほんもの”に理解しているような女――になるためにも、いつかシャネル・スーツを着よう、と憧れ続ける年月があっていい。

ananが創刊した翌年の正月号だった。シャネル・スーツふうの服を幾着かデザインして、栗崎昇の店(六本木・西の木)で撮影した。
栗崎昇の、アールヌーボーの家具やガラスのコレクション、彼が生ける信じられぬほど美しい花。憧れて店に通いつめ、ようやく友人関係となり《以後その関係は続き、彼自身の魅力的(ユニーク)な人格を我々は楽しみ続けている》――撮影をさせてもらえるなら、絶対にシャネル・スーツだ、と思ったのである。
シャネルふうをデザインする、着る、ということの意味も深い。なにしろELLEなどを見るようになって以来ずっと、シャネルの服を見続けてきた。
その撮影から何年だろう。今回は本家シャネルの、これぞシャネル・スーツというやつ。プレタで36万円、若い女の子に手の届く服ではないけれど……”いいもの”を論じるなら一度はゆっくり眺めて見るべき服だ。
そのよさはもう言い尽されて、ほんものはいい、いいものはいい、といった平凡な表現以上につけ加えることは何もない。
なんの”てらい”も、こけおどしもなく、スーツの原型のようなシンプルさ。ココ・シャネルが最初に発表してから何年の歳月が経っているのか。これほど”何でもない”、しかしそれ故に生命の長いデザインはほかにない。
よく見ると、シルクを抱かせた裏の仕立てや、袖のスリットのほどよい長さ、色のない生地によく映える金のボタンなど、計算されきったデザインだと改めて感服するのだ。
そして着やすくて軽い。コルセットなどやめちまえ、と言い放ったシャネル女史だからこそ、着やすく自由な服を作った。
いつかパリのカンボン街のシャネルの店で、亡きマダムをしのんだことがある。あの階段に坐ってショーを見たのか、凄い婆さんだったときくけれど、一度は逢ってみたかった。店には黒のシャネル・スーツが似合ってジャラジャラとシャネル的首飾りをつけて、という婆さんがいたりして、マダムの生きていた頃の雰囲気を伝えていた。
かつて、サンローランを評し(TVで)、「あの子はわたしのコピーをして、まァまともな服を作ってるほうだよ」とのたもうたそうだ。好きなだけ真似をおしよ、と言い放った彼女の自信にも敬服してしまう。
そして事実、シャネルの真似をし、シャネルに憧れることで多くのファッション人が育ってきた。――高くて買えないなどと諦めずに(実際買うかどうかは別問題なのだから)この服を着たい、着たい、と思い続ける、その思いが女を美しくする。シャネルの愛したくちなしの花や金いろの小物(アクセサリー)も、スーツを着るときを思って眺めると別の魅力が感じられるだろう。
シャネル・スーツに心動かされない女は女失格とさえ思うのだ。

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