わんだふるはうす パティシエ・シマに行く

1976年10月〜11月
第2回現代フランス菓子大講習会で
クロード・ボンテ氏が作った究極のガレット・デ・ロワ

今から35年前の1974年に社団法人 日本洋菓子協会連合会の招聘を受けて初来日し、全国10会場で衝撃的な講習を行ない、日本の製菓技術者に大きな影響を与えたクロード・ボンテ氏。2年後の1976年に開催された第2回目の講習会では、前回とはがらりと内容を変え、ガレット・デ・ロワなど日本では未発表の製品を公開して受講者に驚きを与えました。当時世界最高と言われた技術の持主だけあって、ボンテ氏が日本の洋菓子業界に与えた影響は計り知れないものがあります。社団法人 日本洋菓子協会連合会公認技術指導副委員長 島田進さんのお店「パティシエ・シマ」をワンダフルハウスが訪れ、クロード・ボンテ氏が1970年代に作った究極のガレット・デ・ロワを作っていただきました。

「1960〜70年代のFAUCHON PARISの製菓主任であり、フランス最高のMOFパティシエであり、日本にフランス菓子を広めた男…クロード・ボンテ氏が羽田空港に来日しました!(゚O゚)\
1976年10月26日羽田空港。1974年9月に初めて来日し、日本全国の洋菓子界に大きな反響を与えたフランス菓子界の第一人者クロード・ボンテ氏夫妻が日本洋菓子連合会の招きにより再び来日しました。ボンテ氏夫妻は羽田空港から宿舎の京王プラザホテルへ直行し、42階富士の間で行われた歓迎会に出席。翌25日には東京会場である洋菓子会館で第1日目の講習を開始し、飴細工及び42点の製品を作り、受講者にその技術を公開しました。10月27〜28日には大分、29〜30日には横浜、31〜11月1日には名古屋、2〜3日には大阪、4〜5日には仙台と会場を変えて講習を行ない、6〜7日の東京会場を終了後、芝の留園で歓送会が行われ、席上ボンテ氏は「私の持っている技術をできるだけ見てもらうように努力しました。今後も日本とフランスの発展に寄与したいと思います。日本の皆さんの好意に感謝し、美しい想い出を持って帰国します(^・^)」と挨拶。11月9日、2週間の日本滞在を終えたボンテ夫妻は午後1時羽田発の航空便で無事帰国しました。
左の写真、左から当時の日本洋菓子連合会会長 安西松夫氏(トリアノン)、クリスチアーヌ安西氏(トリアノン)、アンドレ・ルコント氏(ルコント)、ボンテ夫人、ボンテ氏、高橋副会長、塩坂常務理事、高田常務理事(東京カド)、吉田専務理事、斉藤事務局長、安西由紀雄氏(トリアノン)。
クロード・ボンテ氏(Claude Bonte)は1928年12月18日フランス・ルーアン市生まれ。15歳から修業を始め、1961年フランス最優秀製菓職人賞(MOF)授賞。1964年製菓主任としてFAUCHONに入社。1974年、社団法人日本洋菓子協会連合会の招きにより初来日。1980年代半ばにかけて現代フランス菓子大講習会の講師として日本各地で技術指導を行ない、現在まで続くMOFパティシエ製菓講習会の先駆けとなりました。
「1976年11月7日。最終日の東京会場の助手はアンドレ・ルコント氏です!(゚O゚)\ 受講生の中には若き日の弓田亨氏(イル・プルー・シュル・ラ・セーヌ)の姿もあるはずです。第2回目の講習会では、さすがに世界最高と言われる技術の持主だけあって、前回とはがらりと内容を変え、日本では未発表の製品を公開して受講者に衝撃を与えました。前回は作られなかったガレット・デ・ロワやピティヴィエ、ミルフィユ、ポワッソン・フィユテ、バンド・タルトなどフィユタージュ関係が充実して講習品目が爆発的に増えたのです」
ボンテ講師の素晴らしい技術と妥協を許さぬ厳しい製作態度、当時の最高の材料を使い、(写真では昭和の面影が色濃く漂っていますが)当時の業界ではこれ以上は望めないという最良の会場を準備しただけあって、大多数の受講生には満足のいく講習が実施できました。

L'ATELIER DE SHIMA
「ボンテさんの講習会の助手なら、私もやったことがありますよ」と語るのは、社団法人 日本洋菓子協会連合会公認技術指導副委員長、クラブ・ドゥ・ラ・ガレット・デ・ロワ会長の島田進氏
「1971年、26歳の時フランスに行って仕事をしたのですが、ともかく日本での(六本木ルコントの)仕事が厳しかったものですから、フランスに行ってから仕事そのものでは全然苦労せずに済みました。当時はフランス菓子も菓子店もまさに過渡期にあった頃でした。有名な菓子店の世代交代の時期にあり…」「ルノートルやペルティエが台頭してきた頃ですね(^-^)\」「そうです。また料理のヌーヴェル・キュイジーヌの始まりの頃で、その流れが菓子にも及び始めた時期でもありました。つまり、古いものと新しいものの過渡期であったわけです。私達より以前にフランスで修業された方々は伝統的なフランス菓子を見てこられましたし、私達より後に修業された方々は新しい菓子(ヌーヴェル・パティスリー)を見てこられたでしょう。我々は巡り会わせで両方を見ることが出来たわけです。フランスで当時先進的な作り方をしている店ではショック・フリーザーをちょうど採り入れ始めた頃でした。その後、何回もフランスに行きましたが、あっという間に大きな流れとなり、ほとんどの店がショック・フリーザーを完備するようになりました。ショック・フリーザーの導入と、それに付随する工場の中での変化により効率的な生産が可能になり、また簡単な技術でこれまでと同じものが作れるようになりました」
「当時フランスには河田勝彦氏(オーボンヴュータン)や大山栄蔵氏(マルメゾン)、棟田純一氏(アルパジョン)、遠藤正俊氏(サンルイ島)、永井春男氏(ル・スフレ)、桑原清次氏(国際製菓調理専門学校)、川越盛一郎氏(しろたえ)、藤生義治氏(パティスリー・ドゥ・シェフ・フジウ)等の方々が働いていました。この時期にフランスで菓子を学んだということは、その後の人生にも大きな影響を与えたと思っています。というのも、当時の日本洋菓子連合会会長だった安西松夫氏がクロード・ボンテ氏を招聘して、日本に一気にフランス菓子を広めましたが…」「クロード・ボンテ氏!(゚O゚)\ 日本にフランス菓子を広めた最大の功績者でありながら、忘れ去られてしまった…」「そう…我々が帰国して菓子を作り始めたのは、ボンテ氏が来日する以前のことですから、一般にはまだ新鮮に映ったのでしょう。何しろ日本に帰ってくれば、フランスで作っていた菓子をちょっとアレンジしたものでも日本の人達には驚きをもって迎えられたわけです」「なるほど。ダロワイヨやルノートルやフォションが日本に出店したのは1970年代後半〜1980年代初頭でしたからね。私が学生の頃、西武の地下にルノートルが出来て、自由が丘にダロワイヨが出来て、よく買いに行ったものです(^-^)\」
シャルロット・ポワール
3780円
島田会長「たとえばシャルロット・ポワール…」「おおーっ!これは凄い!(゚O゚)\ これはヌーヴェル・パティスリーを象徴するガトーであり、またヌーヴェル・キュイジーヌを象徴するデセールでもあります。ジャン・ミエ氏のスペシャリテであり、ジャン・ドラベーヌ氏もミシュラン2つ星レストラン『ル・カメリア』で出していました。カメリアにはジスカール・デスタン大統領も食べに来て、タルト・タタンを食べた後、シャルロット・ポワールも食べたのです」「さすがワンダフルハウスさん、よく御存知ですね」「佐原秋生さんの『現代フランスのシェフたち』という本で読みました」「ミエさんがドラベーヌさんに作り方を教えたのです。日本ではドラベーヌさんが銀座のマキシム・ド・パリのフェアーの時に初めて作ったのです」
ミロワール・カシス
(特注品)
「ミロワール・カシス…」「おーっ!表面のナパージュに顔が映ってる!/(゚O゚)(゚O゚)\まるで鏡です!」「ミロワールとは鏡のことなのです。この菓子を日本に帰って最初に作った時は、カシス自体が珍しい時代でした。だからこそ本物のカシスの美味しさを知ってもらいたくて、深みのある味わいを表現するためにカシスのリキュールで風味を加えました。カシスだけでは物足りなかったので、さらにキルシュを加えてみたところ、フレッシュなフルーツのイメージを表現できたのです」「これなどは、ショック・フリーザーの申し子のような菓子ですね/(^-^)(^-^)\」
1970年代にショック・フリーザー(急速冷凍機)が開発されると、フランスのルノートルなどの先端的なパティスリーが真っ先に機械を導入してケーキを変えていきました。いわゆるヌーヴェル・パティスリーと言われるものです。効率的で大量生産ができ、労働時間も短縮されるとあって、瞬く間に普及していきました。例えば、何層にもなったムースを仕込む時には、最初に1層だけ流してショックフリーザーに入れ、−30℃まで一気に冷やし、固まったら次の層を流して…早く効率的に仕込めるようになったのです。瞬間的に固める事によって、素材の香りや味を逃がさないといった利点もあります。
グランマニエ・ショコラ
(特注品)
「グランマニエ・ショコラ…」「これはクロード・ボンテ氏が1978年の第3回現代フランス菓子大講習会の時に作ったガトー・ショコラ・グランマルニエにそっくりです。1981年の第4回現代フランス菓子大講習会では、講師がミッシェル・フサール氏に変わり、やはりこれと同じようなアントルメを作っていました(^-^)\」「フサールさんとはパリの日航ホテルの2つ星レストラン『レ・セレブリテ』の短期研修の時に一緒に働きました。ジョエル・ロヴュション氏の下でです」「やはりそうでしたか。フサール氏はロブション氏の片腕と言われたパティシエでしたからね。そして同じ厨房にジャン・ポール・エヴァン氏もいたのですね(^-^)\」
カジノ
(特注品)
「カジノ…」「渋谷西武のルノートルで初めてこれを見た時は衝撃を受けました!(@o@) 味はシュス・フリュイの方が好きでしたが…。私はルノートルのシュス・フリュイでフロマージュ・ブランの味を知ったのです(^Q^)」
オペラ
(特注品)
「オペラ…」「修業されたダロワイヨ仕込みですね(^-^)\」
1954年に当時のオーナーシェフだったシリアック・ガヴィヨン氏が創作したお菓子ですが、1970年代に冷蔵機能の付いたショーケースが出現した時にレシピが改革されました。チョコレートクリームの層をフレッシュなガナッシュにチェンジし、保存のため過度に加えていた砂糖やアルコール、バターを減らして微妙な味わいを楽しめる軽やかなお菓子に変身したのです。つまり、これがヌーヴェル・パティスリーです。
シブースト
製作 前田秀幸シェフ(ルコント)
特注品
「シブースト…」「パリのベッケル菓子店で修業した先輩、吉田菊次郎さんが作ったお菓子ですね(^-^)\」
19世紀、パリの菓子職人シブースト氏が考案したアントルメを100年以上経った1970年、パリのベッケル菓子店で修行中の吉田菊次郎氏(ブールミッシュ)が古い文献を探って再現し、これが評判で他店でも作られるようになったのがシブーストです。島田会長は1971年から1年間ベッケル菓子店で修業。1978年にルコントに戻ってから作り始め、現在でもルコントとパティシエ・シマで作り続けています。
サンマルク
2415円+送料
(インターネット販売商品)
「サンマルク…」「これはインターネット販売商品です。こちらで買えます\(^-^)」「どれも現在では一般的な菓子ですが、当時は一般の人々は見たこともない菓子でしたから、オリジナル性がなくても流行の最先端として迎えられた我々は大変に運が良かったと思います。しかし現在ではフランスの有名な菓子店が日本に出店していますから、フランスで流行っているものがそのまま日本の店で売っているわけです」「なるほど、ピエール・エルメやラデュレで扱っている商品を真似て、『これがパリで流行っています』と言っても、もうそうはいきませんね(-_-)\」
「ワンダフルハウス様、クロード・ボンテさんのガレット・デ・ロワが焼き上がりました」「おおっ!?(゚O゚)\
1976年10〜11月
第2回現代フランス菓子大講習会で作られた
1970年代のガレット・デ・ロワ
(特注品)
大輪のヒマワリです!\(^○^)/」
「1976年当時の日本では、ガレット・デ・ロワは『ルコント』や『ドンク』、『ビゴの店』などフランス人シェフのいる店でしか作られていなかったお菓子でした。ついに、こういった地に足のついたお菓子が好まれる時代が来たのです!\(^○^)/」
1976年11月
第2回現代フランス菓子大講習会で作られた
1970年代のガレット・デ・ロワ
講師 クロード・ボンテ氏
助手 アンドレ・ルコント氏
2009年1月
左の作品のリメイク
製作 島田進氏
「おーっ! 同じです!(゚O゚)\
1976年11月
第2回現代フランス菓子大講習会で作られた
1970年代のガレット・デ・ロワ
1992年
シェ・シーマ時代に作った
ガレット・デ・ロワ風
ウェディングケーキ
(中身はアップルパイ)
「おおーっ!? これも同じです! これは巨大ガレット・デ・ロワですか?(゚O゚)\」「これはシェ・シーマにいた頃、ウェディングケーキ用に注文を受けた、一見ガレット・デ・ロワ風のアップルパイです。小さいものを作るのと同じで難しいところは何もありません。けれどテンパンに乗らないのでオーブンの出し入れが大変でした。直径70cm、80人分でしたから…(隣の人を指して)金子です」「おおっ!? 隣にいるのは、レピキュリアンの金子哲也シェフです!(゚O゚)\
ガレット・デ・ロワの表面のクープ(模様)は、中に火が通りやすくするためにつけるのと、自然崇拝の意味も込められています。このクープはヒマワリの花で「太陽」とか「生命力」を意味しています。
飾りはなく、シンプルに表面のカットだけで表現するのがガレット・デ・ロワなのです。
「ここは、ヒマワリの種の部分ですね(^O^)\」
本来の島田会長の彫りと違って線が細めになっています。
「切り込みも浅いですね」
「おおっ!?(゚O゚)\
「これは珍しい!(゚O゚)\
「こんなの初めて見ました!(゚O゚)\
普通のガレット・デ・ロワと見比べてみましょう」
明らかに違います!
フィユタージュが層になっていません!(゚O゚)\
これは一体どういうことでしょう?(゚-゚)\
1976年11月
第2回現代フランス菓子大講習会で作られた
1970年代のガレット・デ・ロワ
製作 クロード・ボンテ氏
助手 アンドレ・ルコント氏
「あーっ!オリジナルはもっと凄い!上下のフィユタージュを螺旋状に縫いつけてあります! こ…これは美しい…(゚O゚)\
クロード・ボンテ氏が来日する前にもアンドレ・ルコント氏やフィリップ・ビゴ氏が作っていましたが、これが歴史上、日本の洋菓子店の製菓技術者が初めて見たガレット・デ・ロワということになります。
そしてもう一つ謎があります…このガレット・デ・ロワは圧倒的に薄いのです!(゚O゚)\
「中央部分が低く窪んでいる…中に何も入っていないように見えます(゚-゚)\
ひょっとして島田会長はクレーム・ダマンドを詰めるのを忘れたのでは?(゚-゚:)\
“疑惑のガレット・デ・ロワ”がカットされました…
「想像していた以上に薄いです!(゚O゚)\
やはり予想通り…クレーム・ダマンドは入っていませんでした(゚O゚)\
1976年11月
第2回現代フランス菓子大講習会で作られた
Galette de Rois
ガレット・デ・ロワ
講師 クロード・ボンテ氏
助手 アンドレ・ルコント氏
1976年11月
第2回現代フランス菓子大講習会で作られた
Galette aux Amandes
ガレット・オ・ザマンド
講師 クロード・ボンテ氏
助手 アンドレ・ルコント氏
パート・フィユテ パート・フィユテ
クレーム・ダマンド
「実は、この講習会ではクレーム・ダマンドを詰めたガレットも同時に作られていて、それは『ガレット・オ・ザマンド』と呼ばれていました」
Galette des rois feuilletee
ガレット・デ・ロワ・フィユテ
「これはガレット・デ・ロワ・フィユテと呼ばれるもので、フィユタージュだけのガレット・デ・ロワなのです」
Galette des rois feuilletee
ガレット・デ・ロワ・フィユテ
Galette des rois fourree a la frangipane
ガレット・デ・ロワ・フーレ・ア・ラ・フランジパーヌ
現在、主流になった(クレーム・ダマンドにクレーム・パティシエールを混ぜた)クレーム・フランジパーヌのガレット・デ・ロワは、正式には「Galette de rois fourree a la frangipane ガレット・デ・ロワ・フーレ・ア・ラ・フランジパーヌ」と呼ぶべきものなのです。「fourree」とは「詰めものをした」という意味です。
1970年代のフランスでは、このようなパート・フィユテだけのガレット・デ・ロワが主流でした。
このガレット・デ・ロワが作られてから2年後の1978年10月、別のMOFパティシエが来日し、講習会で再びガレット・デ・ロワを作りました…
1978年10月7日〜15日
第3回現代フランス製菓技術特別講習会

講師 ジャン・ミエ
助手 島田進
「ジャン・ミエ氏です! 横にルコントさんと後ろに島田さんもいます。この3ショットは凄い!(゚O゚)\
1978年10月7日〜15日まで東京・京橋の明治屋クッキングスクールにおいて開催された「第3回現代フランス製菓技術特別講習会」の初日に、講師のジャン・ミエ氏と助手の島田進氏を紹介しているスーツ姿の太った外人こそ、フランス料理アカデミー日本支部長アンドレ・ルコント氏です。
1978年10月7日
第3回現代フランス製菓技術特別講習会で作られた
Galette des rois (feuilletee)

ガレット・デ・ロワ (フィユテ)
講師 ジャン・ミエ
助手 島田進
「厚さがかなりあるからクレーム・ダマンド入りでしょうか?…ルセットを見るとフィユタージュだけです!(゚O゚)\ この講習会ではクレーム・ダマンド入りは作られなかったようです」
「真っ白い、ただの人形…これが昔のフェーヴです!(゚O゚)\ 「1979年10月9日東京にて…」ミエ氏は1年後も来日していたようです。
会場の明治屋クッキングスクールには、連日100名を越す受講者が詰めかけ、ミエ氏の繊細で、知的に洗練された技術に魅せられました。また、後半の3日間は家庭の主婦向けに講習内容が組まれたため、女性の姿も多く見かけられ、華やかな会場に一層の彩を添える形となりました。
ジャン・ミエ氏は当時「パティスリー・ミエ」を経営し、フランス製菓最高技術者協会会長、またフランス製菓連合会会長の要職も務めていました。MOF授賞をはじめ、数々の輝かしい経歴を持つミエ氏は、世界各国から講師としての招聘を受けていましたが、多忙を理由に応諾しませんでした。日本だけは例外で、その理由は、日本にはアンドレ・ルコント氏がいたからに他なりません。
「このガレット・デ・ロワ・フィユテ、フランスでは現在でも人気があって、各々が好みのジャムを塗って食べるそうです」
「ワンダフルハウスさん、このガレット・デ・ロワ・フィユテは、あえて何もつけないで、そのまま食べてみてください」「ええっ!?(゚O゚)\
私は、このガレット・デ・ロワ・フィユテのように“バターの香りというものをより出す必要のあるお菓子”に合うバターを考えてバターを選択しています。ブール・ノワゼットにした時…つまりバター本来の香りが沸き立った時の香り。これが軸になっていて、いいバターというものを判断します。現在は3種類のバターを使用していて、焼菓子には『よつ葉発酵バター』、バターを焦がさないジェノワーズなどには『よつ葉バター』、クレーム・オ・ブール(バタークリーム)には『タカナシ特選北海道バター』と使い分けています」「ブール・ノワゼット!(゚O゚)\
メゾン・ポール・ボキューズ
Dover Sole a la Meuniere
ドーヴァー産 舌平目のムニエル
2人分で12000円
(2008年7月パリ祭限定メニュー)
「メゾン・ポール・ボキューズのドーヴァーソールのムニエルにかかっていたブール・ノワゼットは美味かったです(^Q^)…島田会長、これが写真です」
「ほぅ…綺麗なブール・ノワゼットになってますねぇ」と感心する島田会長。
フランス語でバターのことを「beurre ブール」、「noisette ノワゼット」はヘーゼルナッツ(はしばみ)。つまりブール・ノワゼットは、バターを焦がすことでヘーゼルナッツのような色と香りを出した、焦がしバターのことです。主に魚のムニエルに使われます。バターをしっかり焦がさないと美味しくならないし、かといって、美味しい一瞬を逃してしまうと苦くなってしまうので意外に難しいのです。
「いや〜これはかなり美味でした(^Q^)」「でも、こういう(古典的な)料理は普段はないんでしょ?」「そうです。これはパリ祭を記念した期間限定メニューだったのです」
「バターは、切った時は同じ白い塊でも、溶かすと肉眼でも結構差異があります。バターの成分は一定の基準を満たしており、そう違いはないはずですが、各社の成分表を比べると多少違いがあるので成分表をチェックします。さらに溶かしてみるとアクが出る、水分が出ると一層違いがはっきりしてきます」
「溶かし方といっても自然に溶ける、火にかけて溶かすと色々ありますが、メーカーはバターを溶かしたり、焦がしたりして使うということが案外念頭に無い。どう使われているかに意外に無頓着です。“食べて美味しい”だけでは柔らかくて滑らかなのが良いバターとなってしまい、それがメーカー側から見た品質を判断する唯一の基準ですが、菓子屋の仕事の中では、もっと様々な使い方があり、この使い方にもっと留意して欲しいとは言えます」
「バターの製造工場を見学すると、どこも外国のメーカーの機械を使っていますが、工程は各社で練り込む回数が違っていたりします。よく伸びないバターは練り込む回数が少なく、日本でも優良とされるメーカーのバターは練り込む回数が多いのです。これでメッシュが締まり、パイにする時に伸ばすと粘りが出て伸ばし易くなるのです」
島田会長が各社の各バターを何回か試し、作業の中でパイを折りやすいバターを選んで使ったガレット・デ・ロワ・フィユテ。「なるほど…確かにバター本来の香りが沸き立っています!)^Q^(」
「ワンダフルハウスさん、これを見てください」「アカデミー・キュリネール・ド・フランス?…こ…これは凄い!…フランス料理アカデミー会員の証明書です!(゚O゚)\
「クロード・ボンテ氏は、ピエール・エルメ氏の前のフォションのシェフ・パティシエだった人です」「その後はどこに行ったのですか?」「レ・アントルメ・ド・フランスのオーナー・シェフになりましたが…」
かなり前に引退して、現在はセルジュ・ブレダという人が継いでいます」
「アンドレ・ルコント、小野正吉、村上信夫…このメンバーは凄い!フランス料理の神様クラスの名前が連なっています!(゚O゚)\ ん?亡くなった人には十字架が付いていますね…」「ここに安西松夫さんの名前があるでしょう…日本洋菓子協会連合会会長だった人です…安西さんがボンテさんを招聘して講習会をやったことで、日本に一気にフランス菓子が広まったのです」「おっ!ジョエル・ブリュアン氏の名前もあります!(^O^)\」 「アンドレ・パッション氏や服部先生の名前もありますね。おおっ!島田会長の名前もありましたよ!(^O^)\」「私はクラブ・ドゥ・ラ・ガレット・デ・ロワの会長ですが、フランス料理アカデミー日本支部の会長はジョエルです」
続く

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