わんだふるはうす パティシエ・シマに行く

大森由紀子プロデュース
クリストフル・フェーブペンダント付き
初日の出柄ガレット・デ・ロワ
スイーツ王国 2007
婦人画報 2007
PART2

ガレット・デ・ロワは、1月6日のエピファニーの日(公現祭)に食べるアーモンドクリームが詰まったパイ菓子。この日は、キリストの誕生を聞きつけた東方の三博士が、はるばるベツレヘムの馬小屋を訪問してキリストに謁見した日。フランスでは1月6日に限らず、1月の第1日曜日に家族や友人が集まって、このお菓子を囲んでエピファニーをお祝いします。お楽しみは中に隠れているたった1つの幸運のフェーブ。直訳するとソラマメという意味です。これが当たった人は、その日は王様あるいは女王様となって皆から祝福されます。2008年1月のある日、クラブ・ドゥ・ラ・ガレット・デ・ロワ会長・島田進さんのお店「パティシエ・シマ」をワンダフルハウスが訪れ、クラブ・ドゥ・ラ・ガレット・デ・ロワ理事である大森由紀子さんがプロデュースした「クリストフル・フェーブ・ペンダント付きパティシエ・シマのガレット・デ・ロワ」を特殊仕様の”初日の出柄”で作っていただきました。

新宿大通りから日本テレビ通りに入り、最初の信号を右に曲ると、この景色が見えます。手前の赤レンガのマンション1階が、日本のトップパティシエ島田進さんのショコラトリー&サロン・ド・テ「ラトリエ・ド・シマ」。奥の赤いパラソルのお店がパティスリー「パティシエ・シマ」。東京メトロ有楽町線「麹町」駅から徒歩2分。 予約したガレット・デ・ロワは、ラトリエ・ド・シマでの受け取りとなります。
「あけましておめでとうございます!(^O^)/ 予約していたガレット・デ・ロワを受け取りに来ました」 「おーっ! こっ…これがパティシエ・シマのガレット・デ・ロワ…(゚O゚)\」
このクープ(模様)は「太陽」。生命力を表現しています。 これは「シュロの葉(麦)」=勝利・栄光
ガレット・デ・ロワの魅力の一つといえるのが、表面に描かれたクープ(模様)。様々に描かれたクープは、素朴なガレットに華を添えてくれます。パティシエ・シマの島田進シェフが描くクープの美しさは圧巻の一言に尽きます。
「ガレット・デ・ロワ Galette des Rois」(21cm 2625円)25cm 3675円もあり。パティシエ・シマのガレット・デ・ロワは、1月の最初の営業日〜1月末日までの販売。予約も受け付けていますが、絵柄の指定はできません。
これは「四葉のクローバー」=幸福 「ワンダフルハウス様が予約されました、大森由紀子さんのクリストフル・フェーヴ・ペンダント付きガレット・デ・ロワは、そちらにございます」
ガレット・デ・ロワは、日持ちするので地方発送も可能です。電話で予約して、商品代金+送料を銀行口座に振り込み、入金確認後の発送となるそうです。代引は取り扱っていないとのこと。1月になると、ビッダーズと楽天のパティシエ・シマのショップでも予約できます。銀座三越での催事もあり。
「あっ、ありました!\(^O^)/□」「ワンダフルハウス様のガレットのクープは、チーフ(島田シェフ)が特別に手をかけました和柄でございます」「フランス菓子なのに和柄!?(゚O゚)」
それでは、世界初のガレット・デ・ロワをお見せしましょう(^O^)/□
大森由紀子さん『ガレット・デ・ロワは、1月6日のエピファニー(公現節)のお祝いに食べる、パイ生地にアーモンドクリームが詰めてあるお菓子ですが、今では、1月を通してフランスでは食べられています。中に小さな陶製の人形が入っており、それを当てた人は、王様、あるいは王女様になって、王冠をかぶり、皆から祝福されます。そんなガレット・デ・ロワを、2006年、2007年とクリストフルとのコラボで、クリストフルの毎年変わるモチーフの、フェーブに仕立てたペンダント付きで販売させていただいていたのですが、2008年は、フランスの伝統菓子を守り続けるガレット・デ・ロワ・クラブの会長、「パティシエ・シマ」の島田シェフにお願いして、ガレット・デ・ロワとペンダントを販売することになりました。ペンダントフェーブはガレット・デ・ロワとは別になっており、ガレットの中には、アーモンドがひとつ入っています。それを当てた人がペンダントをゲットできます!!本来でしたら、ペンダントの通常価格が13650円なのですが、島田シェフの日本で最も美味しく、美しいガレット・デ・ロワもご一緒にお持ち帰りいただけるというちょっとうれしい?企画です。価格:1台 13650円(クリストフルのペンダントフェーブは、1個、通常小売価格13650円ですので、そのお値段で、ガレットも購入できるというお得な企画です!)。販売期間:2008年1月中。お受け取り:直接「パティシエ・シマ」に受け取りにいっていただくか、郵送も可(その場合は、送料別)
大森由紀子プロデュース!(^O^)/□
2006年1月、「クリストフル」社の純銀フェーブと、フランス菓子・料理研究家であり、クラブ・ドゥ・ラ・ガレット・デ・ロワ理事であり、「料理王国」の増刊号「スイーツ王国」の編集長であり、クリストフル親善大使でもある大森由紀子さんとのコラボレーションにより、「クリストフル・フェーヴ・ペンダント付きガレット・デ・ロワ」が誕生。初年度の2006年は大森由紀子さん自身がガレットを製作。2年目の2007年は、クラブ・ドゥ・ラ・ガレット・デ・ロワ理事であるジャン・ポール・チェボー氏とコラボレーション。そして3年目の2008年1月、クラブ・ドゥ・ラ・ガレット・デ・ロワ会長である島田進氏とのコラボレーションが実現しました。
クリストフル・フェーヴ・ペンダント付き!(^O^)/□
1830年にパリで創業した、銀製品の老舗「クリストフル(Christofle)」。パリの大統領官邸や、世界中の宮廷で使用されている銀食器は、まるで美術品のようです。
パティシエ・シマのガレット・デ・ロワ!(^O^)/□
おっ!? これがクリストフルのフェーブ・ペンダント?(^O^)\
ん? こんなクープは初めて見ました。太陽と…山は富士山?(・o・)\
富士山の左肩から、まばゆい程の光を放ちながら昇ってくる太陽…うわーっ!! これは、初日の出柄です!(゚O゚)\
クラブ・ドゥ・ラ・ガレット・デ・ロワ会長である島田シェフがWONDERFUL HOUSEのために1点だけ製作してくださった特別なクープ「富士山と初日の出」。まだ誰も見たことがないガレット・デ・ロワの登場です。
これは美しい…美し過ぎる…(゚O゚:)\
店でガレット・デ・ロワを買うと、必ず紙製の王冠が付いてきます。ガレットの中には1個だけ「フェーヴ」と呼ばれる小さな陶製の人形が隠されていて、食べる時にフェーヴが当たった人は王冠をかぶり、その日は王様(王妃様)として祝福を受けるのです。そしてこの幸運は1年間続きます。
今すぐ年賀状にして送りたくなるような絶景…最高の年明けです!!\(^○^)/ 「一富士二鷹三茄子」。これは初夢に見ると縁起が良いと言われることわざ。その中で堂々と一位に輝くのは、やっぱり富士山。「富士山と初日の出」とは、この上なく縁起がいい組み合わせですね。新年の初感動として、これ以上のものは、ありません。怖いほど美しいガレットを前に、ワンダフルハウスは、なんだか神々しい気持ちになりました。
ガレット・デ・ロワの伝統を正しく伝え、日本で一人でも多くのパティシエ、ブーランジェに作ってもらうための啓蒙活動を目的にした会「クラブ・ドゥ・ラ・ガレット・デ・ロワ」が、フランス大使館の協力を得て結成されたのは2003年のこと。駐日フランス大使が名誉会長、島田シェフが会長をつとめておられます。お正月に大統領に直径1メートルもあるガレットを献上するフランスにならい、駐日フランス大使に直径1メートルもあるガレットを献上する会「サロン・ドゥ・ラ・ガレット・デ・ロワ」を1月に開催しています。2008年度は1月10日、東京都庭園美術館開催されました
金箔によって、さらに輝きを増した太陽と、金粉によって一段と美しく輝く富士山。
「クリストフル スターリングシルバー製アネモネペンダント」(13650円)フェーヴはクリストフルの銀製で、2008年はアネモネ。ペンダント・トップになるように長短2種類の皮紐も付いています。
「クリストフル Christofle」は、1830年の創業以来、フランス王ルイ・フィリップ、ナポレオン3世らに愛され、世界の王室が認める銀製品のブランドとして確固たる地位を持ち続けています。クリストフルが誕生し、育まれたフランスでは、衣・食・住をバランスよく楽しみ、生活と結びついた文化を大切にしています。ガレット・デ・ロワもフランスで親しまれる文化の一つです。
日の出の30分位前から徐々に山の裏側が明るくなってきて、富士山の輪郭がオレンジ色に浮かび上がってきました…
その光が金箔とクリストフルの純銀のアネモネフェーブの輝きで一際強くなった時、富士山の左肩からまばゆい程の光を放ちながら太陽が昇ってきました…
最高の一瞬を収めることができました!\(^○^)/ 島田シェフ、大森さん、アルマーニさん、ありがとうございました。
「大森由紀子プロデュース クリストフル・フェーブ・ペンダント付きガレット・デ・ロワ2008」(パティシエ・シマの直径25cmのガレット・デ・ロワ、クリストフル限定純銀製フェーヴ付 13650円)左からクラブ・ドゥ・ラ・ガレット・デ・ロワ会長 島田進さん。クラブ・ドゥ・ラ・ガレット・デ・ロワ理事、クリストフル親善大使大森由紀子さんクリストフルジャポンCEOイヴ・アルマーニさん
美しいフィユタージュです!(^O^)\
何層にも折り重ねたパイ生地「フィユタージュ」。
ガレット・デ・ロワが切り分けられました。ワンダフルハウスのガレットにアーモンドは入っているでしょうか?
ガレット・デ・ロワの人気の理由は、中に1個だけ「フェーヴ」と呼ばれる陶製の人形が入れられ、それが当たった人が王様、王妃様になれるというゲーム的な要素にあります。
クレームを詰め過ぎず、平たく焼くのが正統派パリ・タイプのガレット・デ・ロワ。
ガレット・デ・ロワといえば、パティシエ・シマのようなフィユタージュ・タイプをイメージしがちですが、フィユタージュのガレットは、もともとロアール川より北、パリを中心に親しまれてきたもの。ロアール川以南で親しまれてきたのはイースト生地で作られる素朴なもの。生地を王冠(クーロンヌ)状に成型することから「クーロンヌ・デ・ロワ」と呼ばれます。様々な地方菓子によってフランス菓子が形成されていることを考えれば、ガレット・デ・ロワが決してワンパターンではないというのも頷けますね。
こんがり焼き色のついたフィユタージュに、クレームダマンド(アーモンドクリーム)が詰まっているだけのシンプルな造りです(^-^)\
島田シェフ「クラブ・ドゥ・ラ・ガレット・デ・ロワでは、若手職人たちのガレット・デ・ロワ・コンテストを年に1回主催しています。ガレット・デ・ロワは、フィユタージュでアーモンド・クリームを包んで焼くという非常にベーシックなお菓子。まず正統派スタイルを正しく継承させるのが会の主旨と考えています。そこでコンテストでは、”外観・焼き具合・味・さっくり感・デコレーション”の5項目に分けて、各20点ずつの100点満点の採点法で厳正な審査を行なっています。いずれもフランス本国のガレット・デ・ロワ協会による審査基準と同じ。(若手職人には)是非チャレンジしてほしいものです」
それでは、クラブ・ドゥ・ラ・ガレット・デ・ロワ会長が作ったガレット・デ・ロワを審査してみましょう(^0_0^)\ まず外観とデコレーションですが…一筋の乱れもない美しい模様! 深い焼き色と白い線のコントラストが鮮やかで熟練の貫禄が漂っております。 次は焼き具合…
羽根のように軽いフィユタージュとコクのあるクレーム・ダマンド…絶妙なバランスです!
島田シェフ「ガレット・デ・ロワは、食べ手にとっては楽しいお菓子。作り手にとっては伝統菓子を伝えていくための象徴として大切にしたいお菓子なんです」
最後は味とサックリ感…それでは、いただきます!(^○^) おおっ! サクサクと崩れるフィユタージュの繊細さ)^Q^(…アーモンドクリームのほの甘く優しい味わいがクセになります
「Bonjour!(^O^)/」 「私はフランスのクマです。フランスでは、このようにガレット・デ・ロワの中にフェーヴが入っています。」
日本では、保健所からの指導により、ガレットの中にフェーヴは入れられなくなりましたので、代わりにアーモンドを1粒入れてあります。アーモンドの入った1片を引き当てた方に、1年間のお守りとして、別添えのフェーヴを渡されるのです。 ムッシュー・ワンダフルハウスのガレットの1片にアーモンドは、入っていませんでした。アーモンドを引き当てたのは私です\(^O^)/
色とりどりの可憐な花を咲かせる「アネモネ anemone」。ギリシャ語のアネモス(風)、アネモネ(風の花)に由来し、早春の風が吹き始めないと花を付けないことによります。花言葉は「はかない恋」。 この花には、こんな悲しい伝説があります。
クリストフルのアネモネ・フェーヴは、フランスのクマに手渡されてしまいました(T_T)/~~~ 2007年の婦人画報に1年間に渡って連載された「日本のパティシエ12の名菓」。1月号は「パティシエ・シマのガレット・デ・ロワ」。
この時、島田シェフは初日の出をイメージした和風のクープを初めて製作したのでした。 それから1年後、今度はWONDERFUL HOUSEのために、富士山を追加して初日の出柄の第2弾を製作してくださったのです。テーマは「日本のお正月」。新年の初めに家族で囲み、分かち合って食べるお菓子としてふさわしいですね。
お菓子本のコレクターでもあるワンダフルハウスが、日本におけるガレット・デ・ロワの歴史を紐解きましょう。時を遡ること38年前、雑誌「ミセス1970年4月号」に「ドンク DONQ」のガレット・ブルトンのプチガトーとアントルメが掲載され、その文中にガレット・デ・ロワに関する記述を見つけたのです(^0_0^)\ このことから、1970年1月の時点でドンクではガレット・デ・ロワを発売していた、と推察できます。
1905(明治38)年、神戸に創業したドンクは、本格的なフランスパンを初めて日本に広めたことで知られています。1971年には東京・青山に都内1号店を出しました。
ところで、「ガレット・ブルトン」とは何でしょう? パティシエ・シマの店内を探してみましょう(^-^)\ あっ、ありました!\(^O^)/ 表面はガトー・バスクに似た格子模様ですね。ガレット・ブルトンヌを含んだパティシエ・シマの焼き菓子セットはこちらでも買えます。
「ガレット・ブルトンヌ Galettes Bretonnes」(262円)太陽と風の力だけで、ゆっくり結晶させた自然海塩「ゲランドの塩 Fleur de sel(フルール・ド・セル)」と発酵バターを効かせたフランス・ブルターニュ地方の伝統菓子の登場です。
フランス西海岸ブルターニュ地方にゲランド塩田はあります。 太陽と風の力、粘土の地層を活かした構造を持つゲランド塩田で、9世紀から機械をほとんど使わない伝統的手法を用い、塩職人(パリュディエ)の手により「ゲランドの塩」は生産されます。自然環境を最大限に活かしたこの製法で作られる「ゲランドの塩」は、古くはブルボン王朝時代から今日に至るまで、フランス料理の名シェフたちから高い評価を受け続けています。とがった塩辛さのない深い味わいが素材の味を引き立てるのです。
発酵バターとゲランドの塩の豊かな風味(^Q^) 時間をかけてじっくり焼き込んだ香ばしさ。ホロッと崩れるようなサクサク&ボロボロ&ザラザラした素朴な食感です。
島田シェフ「フランス屈指の塩の産地であるブルターニュは、フランスで唯一、大部分のお菓子を有塩バターで作る地方です。英仏海峡に突き出したブルターニュ地方は、イギリスとの歴史的な繋がりが深く、ガレット・ブルトンヌはイギリスの厚焼きビスケットとよく似ています。さらにブルターニュは、ヨーロッパの先住民族であるケルト人が住む地方。普通のフランスとは異なる独自の文化と言語が残っています。シーフードの本場でもあるので、パリから遊びに行く人も多く、お土産の定番がガレット・ブルトンヌです。バターの風味をよくとらえた焼き菓子ですから、バターの品質が重要な決め手になり、日本でも香りの強い発酵バターが生産されるようになってから、がぜん作りやすくなりました。無発酵バターで作った時に比べ、コクと旨み、香りのすべてがグッと良く焼き上がります」
ガトオ・ド・ロア?(゚O゚)\…これはガレット・デ・ロワのことです!
雑誌ミセスにドンクのガレット・ブルトンが紹介され、その文中にガレット・デ・ロワが登場してから3年が経過しました。「婦人画報1973年7月号」で、作家の加賀乙彦さんが書いた「フランス菓子こそわが青春」の文中に再びガレット・デ・ロワが登場したのです。そしてこの記事は、元祖日本人パティシエであり、「東京カド」の創業者であり、日本人として初めてパリへのお菓子留学を果たした高田壮一郎さんのパリ留学時代を完璧に描いていていて、日本の洋菓子史に残るべき作品となっています。まだ自由渡航が許されていない時代、菓子職人としては戦後初の政府認可私費留学生としてフランスに渡った一人の菓子職人を通して、精神科医や版画家、文学者、音楽家など、年齢も職業も違う日本人貧乏留学生たちがフランス菓子やヨーロッパ中のショコラを極めていた、という事実に驚嘆させられます。
婦人画報1973年7月号 味の散歩 「フランス菓子こそわが青春」 加賀乙彦
パリの日本館にいた時、高田壮一郎君という青年と知り合った。この人は、お菓子の研究に来ていたので、フランス文学者やら画学生やら音楽家やらの多い留学生仲間では異色で、その点では目立ったが、それだけでなく、生活様式がすこぶる風変わりであった。
何しろ早起きなのである。朝は4時か5時、夜更かし朝寝坊と相場が決まっている留学生たちが、やっと眠ろうとする頃、彼はやおら起き上がり、爆音も高らかにスクーターに乗って出発する。行き先はオペラ座近くのカドというお菓子屋で、ここで勤めながら製菓の実際を学んでいたのである。
早起きである以上、早寝せねばならぬ。この早寝が日本館では実に難しかった。何しろ床が薄く、上の部屋で誰かが歩けば、音は下に筒抜けである。上でフェルトの靴で静かに歩く人物でも住んでくれればよいのだが、間の悪いことに入居したのが斎藤寿一君という絵描きであった。この斎藤君は、あだ名が”アハハの大将”と言われるほどよく笑い、しかも声の大きい人で、彼が日本館の玄関に入って来ると6階の私の部屋まで笑い声が聞こえたほどなのである。陽気な斎藤君は大の社交家で、その部屋には人の出入りが絶えない。夜ともなれば、留学生どもが、わいわい談笑しに来る。アハハの大将は大勢に囲まれて、数階に響き渡る大音声で笑いこけたことはもちろんである。
下で早寝しようとベッドに入り、眼をつぶっているお菓子屋こと高田君は天井が騒々しいので眠れない。眠れなければ早朝から始まる(パリの菓子屋は5時始業が普通だそうだ)仕事に差支える。上にいる連中もそれはわかって音を自粛してはいたのだけれども、若気のいたりで、いつの間にか声高に喋り、足踏みならしという事態になる。ある夜などは、斎藤絵描きが、床に画用紙を広げて鉛筆の点描で絵を描くのを、みんながさんざめきながら見物していた。すると突如、床を突き上げるようにドンドンと音がした。斎藤君が鉛筆でトントンと紙を叩くと、下からドンドンと反響する。
要するにたまりかねた高田君が長い紙筒で床を突き上げたのである。上の連中は急にひっそりとし、斎藤君は夜は絵を描くのをやめてしまった。
この勤勉で神経質な高田君は、しかし、さすがお菓子屋だけあって、料理が上手で、彼の作ったれスパゲティを代用したウドンカケなんてのは、私たちの間では絶品であった。それに店から素晴らしいフランス菓子を持って来てはみんなに食べさせてくれるのである。大体、これらの菓子は彼が写真を撮る材料として持ち帰るのであるが、意地汚い私たちは、彼の写真撮影が終わるのを待ちかねたように手を出す。彼はまた実に気前よくみんなに振舞うのであった。
貧乏留学生でパリに来ながらろくなフランス料理を食べていなかった私たちは、フランス菓子だけは、第一級品を食べることができた。元来、辛党で菓子など軽蔑していた私が、フランス文化を論じるならばフランス菓子を知らねばならぬなどと、聞いた風なことを考え、酒飲みのくせにフランス菓子だけには目がないのは、この時の体験によるのである。
私たちはあらゆる種類の菓子を食べた。勤勉な上に完璧欲の強い高田君は、まだ写真に撮ってない菓子に出会うと必ず持ち帰ったからである。菓子だけではない。高田君はヨーロッパ中のチョコレートの蒐集もやっており、彼の目当ては美しく装飾印刷された包紙にあるので、中身は私たち回しとなるのであった。夏休み、高田君はヨーロッパ中を旅行してまわり、スクーターにチョコレートを積み上げて帰館する。すると私たちは、ひと月ほど毎日ヨーロッパ各地のチョコレートを食べ、国による味の差などを論拠にチョコレート文化論を論じ、興奮して不眠症になったり鼻血を出したりした。
とにかく高田君のおかげで、私たちはフランスというと料理ばかりをあげつらう味の文化論がいかに片手落であるかを学んだのである。菓子は料理をひきたてるばかりでなく、料理の基本とさえいえる。特にお祭りと結びついた季節料理では菓子が重大な役目をする。正月6日の公現祭ではガトオ・ド・ロアという小さな陶器の像入りのケーキが中心だし、クリスマスではブュッシュ・ド・ノエルという薪を型どったケーキが御馳走の元締めをしている。
そしてお菓子は童心の世界へと私たちを連れていってくれる。フランス文学によく描かれる幼年時代は、楽しいお菓子の思い出と結びついている。大作「失われし時をもとめて」はプチット・マドレーヌという貝殻形のケーキから始まっているのだ。
私と前後して1960年頃、高田君は日本に帰り、西ヶ原でカドという菓子屋始めめた。自家製のフランス菓子の専門店である。この店は年々に大きくなり、今では三越本店に出店を持つまでに発展したが、このカドのお菓子が素敵にうまい。昔パリで覚えた味覚を彼はそのままに再現してみせてくれる。菓子作りの年季が長いだけでなく、あの朝遅い日本館で、何年も早朝ひとり起き、爆音もさわやかに工場まで通いつめた熱心さがものをいうのだ。
高田君を苦しめたアハハの大将の斎藤君も帰国し、今は中堅の画家として活躍している。おたがいに多忙な身で何年かに一度顔をあわすが、私たちのは会って酒を飲むだけではない。必ずカド特製のケーキを食べる。ああ、フランス菓子こそわが青春である。
「東京カド CADOT」創業者の高田壮一郎さん(1934〜2005)は、東京農業大学卒業後の1956年、まだ自由渡航が許されていない時代に、菓子職人としては戦後初の政府認可私費留学生としてフランスに渡りフランス政府より戦後初の労働手帳を取得し、パリ2区にあった今はなきパリの名店CADOTに職人として入社。フランス菓子の製造技術を学び、1960年、帰国後に東京・駒込に開いたのが現在の店。以来、本格的なフランス菓子を製造し続け、カドのお菓子は、高田さんと幼なじみだった川端康成、三島由紀夫など多くの文士にも愛されました。文中にある、現在では定番とも言える貝殻型のマドレーヌの焼き型を日本に最初に持ち込んだのも高田さんでした。
加賀乙彦さんは1929年、東京都生まれ。1953年東京大学医学部卒。1955年から東京拘置所医務部技官。1957年フランス留学。パリ大学サンタンヌ病院、北仏サンヴナン病院に勤務し、1960年帰国。1960年医学博士号取得。東京大学附属病院精神科助手、東京医科歯科大学助教授、1969年から上智大学教授。1979年から文筆に専念。 1968年「フランドルの冬」が芸術選奨新人賞、1979年「宣告」が日本文学大賞を受賞。 1986年から文芸家協会理事。1997年から日本ペンクラブ副会長、2003年から同理事。2000年から日本芸術協会員、日本近代文学館理事
”アハハの大将”こと斎藤寿一さん(1931−1992)は 神奈川県生まれ。牧野司郎、加山四郎の二人に油絵を学ぶ。1958年パリ留学。「アトリエ17」銅版画研究所に学ぶ。1960年に帰国し、文化学院の講師に。1975年に川崎市文化賞を受賞。和光大学教授。
そして、その2年後、雑誌「ミセス1975年1月号」で、日本の雑誌で初めてガレット・デ・ロワが紹介されたのでした。私ワンダフルハウスが驚いたのは、紹介したのがパティシエでも菓子・料理研究家でもなく、パリ在住のファッション・イラストレーター”ファニー・ダルナ”さんだったことなのです(゚O゚:)\ ファニー・ダルナさんといえば、1950年代から70年代にかけて「ジャルダン・デ・モード」や「ELLE」でスタイル画を描いていた女性。ダルナさんの時代の先を行くファッション・イラストレーションは、若かりし頃の金子功さんやKENZOさん、金子国義さんら、当時ファッション・デザイナーや画家を目指していた若者に大きな衝撃と影響を与えました。1975年の雑誌「ミセス」に”お菓子と花”をテーマに1年間に渡って連載されたダルナさんが手掛けた記事を見ると、お菓子や料理にも大変造詣が深く、花を活けること、テーブル上のコーディネート、ライターとしても天才的センスの持ち主であることがわかります。同時代の日本人菓子研究家・料理研究家の雑誌連載作品が、とても古臭く感じられるほどです。このガレット・デ・ロワは、ダルナさんが近所のパティスリーで1974年10月に作ってもらったもので、店名は記されていませんので謎です。クープはシュロの葉(または麦)で、葉っぱの左右で彫りのタッチが違う(左側の線が太く、右側の線が細い)のが特徴といえます。フェーヴは写っていませんが、文中に「真っ白くて、人の形をしている」という内容の記述があり、1980年代以前のパリのガレット・デ・ロワに入っていたフェーヴは、「塗装されていない」=つまり、顔はのっぺらぼうで、服も靴も身につけていない=「ただの白い人形だった」のです。
お菓子と花 1975年1月 ガレット・デ・ロワとブリューゲル風な花束 ファニー・ダルナ
「ボンナンネ(新年おめでとう)」と口々に交わして祝う大晦日が過ぎると、フランスの元日は寝正月を決め込む人が多いようです。昨夜シャンペンを飲みすぎた人や、ダンスに興じすぎた人や、たった1日の休日を大事にして(?)怠ける人や…。
クリスマス前からスキーや冬のバカンスに行ってしまう優雅な人もいますが、たいていの会社は2日からいつものように仕事が始まるので、日本のようにゆっくりしたお正月休みは味わえません。
でも、1月6日にはエピファニ(主顕節)のお祝いがあります。といっても、この日は会社も学校も、お休みではありませんが、家族そろった晩餐のデザートにガレット・デ・ロワというお菓子をいただく習慣があります。熱心な信者(カトリックの)でなくても、このころは町中のパティスリ(パン、お菓子屋さん)のウィンドーには、このお菓子が盛大に並ぶので、「あら、王様の日が来たわ」と誰でも気がつくのです。
エピファニの日は、王様の日ともいわれて、キリスト生誕の日に東方から来た3人の王様のための祝日なのです。ですから、この日にちなんでいただくお菓子をガレット・デ・ロワ(王様のガレット)と呼んでいるわけでしょう。このお菓子には面白い工夫があって、中に小さな陶器の人形が1つひそんでいるのです。その人形はたいてい赤ん坊だったり、少女だったり、子供の形をしている2センチぐらいのかわいい真っ白な人形です。
この日だけは、晩餐のテーブルに小さい子供たちも揃っています。ガレット・デ・ロワを食べるのを一番楽しみにしているのは子供たちなのですから。デザートにこのお菓子が出ると、人数分だけ切り分けて、それぞれお皿に乗せて分けた時、この白い人形が入っていた人が歓声をあげます。そして子供たちの中から1人だけ選んで、この人形をプレゼントします(たいてい一番幼い子)。その子は、金の紙で作った王冠をかぶせてもらって王様に選ばれたわけです。子供たちの笑い声と、にぎやかな騒ぎのうちに、王様の祝日の晩餐は楽しく過ぎていきます。
私の息子や娘たちが幼かった頃は、よくガレット・デ・ロワを楽しんだものです。ふと思い出して食堂の棚の引出しを探してみたら、小さな白い陶器の人形が2つ出てきました。たわいのない子供の楽しみの晩餐ですが、思い出だけは鮮明に残っています。
このガレット・デ・ロワは、自分で焼く奥さんもいますが、パテを3回も薄く薄くのばして巻く技術がちょっと面倒なので、ものぐさな私はたいてい買い求めます。写真のガレット・デ・ロワも近所のおなじみのパティスリが季節よりも3ヶ月も早くですが大張切りで作ってくれたもの。こんがり焼けた茶色と、飾りの切れ目の模様と、卵でつけた金色の照りが「うまくできた」と御自慢です。
撮影した家はアンリ3世時代(在位時代1574〜1589。アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの子。フランスのルネサンス時代)の様式をそのまま伝える古く由緒ある元貴族の家で、その重々しい家具調度に合わせて、オランダ風な花束を作ってみました。オランダ風というのは、三角形に左右対称に大きく盛り上げる花のいけ方ですが、ダリア、菊、ミモザ、マロニエの葉などを金色の壷にいけていたら、編集の人から「ブリューゲルの花束みたい」と言われました。「あっ、そういえばブリューゲルはオランダ人だった…」と思い、それなら写真の色もブリューゲル調に…などとカメラマンと話しながら撮影したものです。

おっ!(^O^)\ 33年前のルコント六本木店です! ガレット・デ・ロワが写ってますよ!(゚O゚)\
パリ在住のスタイル画家ファニー・ダルナさんが日本の雑誌で初めてガレット・デ・ロワを紹介してから、わずか4ヶ月後、「ミセス1975年4月号」で、日本人が雑誌で初めてガレット・デ・ロワを紹介しました。紹介したのは、アンドレ・ルコント氏夫人であり、現在のルコント社長であり、クラブ・ドゥ・ラ・ガレット・デ・ロワ名誉会員でもあるルコント靖子さんでした。4月号なので、本が発売されたのが2月。つまり撮影したのは前月の1月。「それじゃあ、せっかくだから、ガレット・デ・ロワでも…」って感じのノリで、撮影の直前に目の前にポーンと置いたのが伝わってきます。それにしても、このガレット・デ・ロワ、かなり大きいですね。隣りにあるミートパイの直径が8cmであることから推定すると、直径30cm以上。厚さもかなりあります。当時、これだけのガレット・デ・ロワを注文できたのは、おそらくフランス大使館か、フランス人顧客。日本人客ではなかったと思います。ルコント六本木店がオープンした1968年12月にフランス大使館がブッシュ・ド・ノエルを注文していた…この事実から、フランス大使館は翌月ガレット・デ・ロワも注文した…つまり1969年1月の時点でルコントではガレット・デ・ロワを発売していた、と推察できます
おおっ!?(゚O゚)\ ガレット・デ・ロワの中に赤ワインと白ワインで煮込んだ洋梨が入っていますよ。 真っ白くて顔も手足も無いただの人形! これこそ本来のフェーヴです!(゚O゚)\
マダム・ルコントがガレット・デ・ロワを紹介してから11年後、「ミセス1986年1月号」で日本の料理研究家 中村成子さんが日本人としては2番目にガレット・デ・ロワを紹介しました。そしてそれは日本の雑誌に初めてフェーヴが載った瞬間だったのです。当時のフェーヴは真っ白いただの人形でした。1990年頃からフェーヴに髪の毛や眉毛、目、口、洋服が描かれるようになり、その後、手足も付けられて、フェーヴは現在の形に進化したのです。
最後に島田シェフのフェーヴ・コレクションを見せていただきましょう。ファニー・ダルナさんが日本にガレット・デ・ロワを紹介してから33年…ようやく日本でも(まだ一部の人たちにですが)ガレット・デ・ロワがブレイクしました。フェーヴもずいぶん華やかになったものです(^O^)\
最近のフェーヴは、コレクション・アイテムとしても大人気で、社会的・歴史的イベントをモチーフにした人形、お菓子やパン、動物、自動車など様々。ワールドカップの年はサッカー選手のシリーズが出たり、その年の時流も反映されます。時代と共に本国フランスでも宗教菓子としての意味は薄れ、現在では1月6日に限らず、年明け最初の日曜日から1月いっぱいガレットを並べる店も多いようです。
島田シェフ「フランス人は、それぞれ贔屓にしているブーランジェリー(パン屋)やパティスリー(お菓子屋)でガレット・デ・ロワを買います。1月中は自宅や職場で食べたり、お遣い物にしたりと何度も食べるんです。日本でもガレット・デ・ロワを通して伝統菓子、フィユタージュ菓子の美味しさを伝えていきたいですね」

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