2回の大戦は18、19世紀を通じて首都パリの栄華を一身に極めたパレ・ロワイヤルを戦塵と共に葬り去ってしまいました。人々の散歩道はオペラ座からバンドーム広場へ、コンコルドを凱旋門に結ぶ、シャンゼリゼ並木大路へと移っていったのです。レイモン・オリヴェが仕入れの車まで売り払ってグラン・ヴェフールを落手した1948年は、わずかな住民達が組合を組織し、せめて上階だけでもパレ・ロワイヤルの名に相応しいアパルトマンにしようとする運動の始まった頃でした。この住民の中にジャン・コクトーと俳優のジャン・マレー、コレット女史、ベルル・ミレイユ夫妻、マキシム・ド・パリ店主のボーダブル氏、バルテルミー夫妻がいました。コクトーは、やんやの喝采と罵倒でフランス詩界を分けている最盛期。コレット女史は足にこそ多少の不自由があったものの筆舌健在。ベルルは20世紀の隠れた叡智とされていた思想家で、仲違いする前のアンドレ・マルローの良友でした。ベルル夫人のミレイユはプティ・コンセルバトワール・ド・シャンソンの校長先生として多くの人気歌手達を世に送り出しました。バルテルミー氏は辣腕の実業家で、後に秘蔵の娘クリスティーヌをミッシェル・ゲラールに嫁がせました。パレ・ロワイヤルはコメディーフランセーズ、テアトルパレロワイヤルの2劇場を有していたために、演劇界の歴々については枚挙にいとまがなく、戦後の不自由な中でも当時のパレロワイヤルは花咲ける文化村のような様相を呈していたのでした。「先生」と呼びかけるレイモン・オリヴェにコクトーは「お互いに君・僕にしよう。ここは村なんだよ」と言って、ちょっと甲高い声で笑いました。それは喝采と罵倒に割れる壇上で、華奢な手をくねらせて気取る詩人ではなく、若い料理人を励ます温かい隣人であったのです。この年、ミシュランは大戦で余儀なくされた冬眠から目覚め、翌1949年、グランヴェフールは文字通り降って湧いたように二つ星を授かることになったのでした。あれから57年…あれというのはグラン・ヴェフールが初めて三つ星を戴冠した1953年の復活祭の頃のこと…あれから57年後の2010年1月、クラブ・ドゥ・ラ・ガレット・デ・ロワ会長 島田進さんのお店「パティシエ・シマ」でサロン・ドゥ・ラ・ガレット・デ・ロワ番外編が開催され、ジャン・コクトーの仮面を戴冠したガレット・デ・ロワが披露されました。
2010年1月6日、エリゼ宮にてサルコジ大統領に直径1m20cmの大ガレット・デ・ロワが献上されました。 | 2010年1月12日、駐日フランス大使公邸にて、第7回サロン・ドゥ・ラ・ガレット・デ・ロワが開催され、フィリップ・フォール大使に直径1mの大ガレット・デ・ロワが献上されました。左から2番目がフィリップ・ビゴ氏、赤松広隆農林水産大臣、大使、フランソワーズ・モレシャン氏、右端が島田進氏です。 |
ラトリエ・ド・シマ | |
トントン トントン トントン♪ |
The Japan Times Sunday, January 17, 2010 |
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トントン トントン トントン♪ |
「この下手クソな太鼓の音は何だ?」 | バサッ! |
ガレット・セルパンティーヌ 特注品 |
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「明けましておめでとうございます」 | 「2013年ヘビ年の干支のガレット・デ・ロワ…ガレット・セルパンティーヌです」 |
「2013年1月に…」 | 「フランス大使館でお会いしましょう」 |
「それでは、3年後に…」 | バサッ! |
トントン トントン トントン♪(^o^)//(() |
「明けましておめでとうございます。私がワンダフルハウスです」 | 「私の隣にいらっしゃるのが島田進会長です」 |
フェーヴ 菓子職人 |
フェーヴ 太鼓を叩くクマ |
「本日は島田会長に新しいタイプのガレット・デ・ロワを製作していただきました」 |
「フランスからガレット・デ・ロワに詳しいお二方もお招きしております」 |
フェーヴ Le Promeneur 散策者 |
フェーヴ Le Garde Champetre 田園監視人 (田舎の駐在さん) |
「私達は今はなき幻の菓子を求めて、フランス各地の山中の村まで出向いて行って、訊ね歩き廻っております。昨年末からは、マルセイユを起点にトゥーロンからコート・ダジュールを徒歩でサン・トロペ→カンヌ→アンティーブ→カーニュ・シュル・メール→ニース→ヴィルフランシュ→ボーリュー・シュル・メール→モナコ→ロックブリュンヌ・カップ・マタン→マントンと移動し、マントン市内のパティスリー・ブランジュリーの全てを廻った後、ジャン・コクトー美術館に立ち寄った時にワンダフルハウスさんから『日本で新しいタイプのガレット・デ・ロワが作られることになりました』という連絡をいただき来日したのです(*^_^*)」 | 「ウオッホン!今回は1月末まで日本に滞在し、新宿伊勢丹のサロン・ドゥ・ショコラを見に行きます。2月には帰国してマントンのレモン祭りに参加する予定です」 |
「一昨日来日されたそうですが、どこのお店に行かれたのですか?(^-^)//(()トントン」 | 「青山のルコントと麹町のパティシエ・シマと尾山台のオーボンヴュータンと…」 |
ビゴの店 鷺沼店 | |
「鷺沼のビゴの店です」 |
Fougasse provencal フーガス・プロヴァンサル 左からトマト、チーズ、オリーブ 各320円 ビゴの店 鷺沼店 |
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「私達を喜ばせたことは、カーニバルの仮面を象ったといわれる南フランスの平たいパン『フーガス』が3種類もあったことです(*^_^*)」 |
「ウオッホン!ガレット・デ・ロワも何種類もあって、あんこのガレット・デ・ロワも私達を喜ばせましたが…」 |
Carrette des rois au chocolat et framboises カレット・デ・ロワ フランボワーズ・ショコラ 2000円 ビゴの店 鷺沼店 |
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「ウオッホン!四角いガレット・デ・ロワを“カレット・デ・ロワ”などと、本来からあるオリジナル菓子名を引用した上に、菓子の形を四角に変え、普通名詞であるオリジナル名も1文字変えて使用しているのに出会い、怒り心頭に発し、先ほどまで藤森二郎シェフと口論してきたところなのです」 |
オーボンヴュータン | |
「オーボンヴュータンでは今年は1月11日でガレット・デ・ロワの販売は終了していましたが…」 |
Pithiviers ピチビエ アントルメ 2400円 アンディヴィデュエル 320円 オーボンヴュータン |
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「ピチヴィエは年間を通じて販売しているそうです。アンディヴィデュエル(一人用)もありました(*^_^*)」 |
ピチビエ 2400円 オーボンヴュータン |
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「オーボンヴュータンのガレット・デ・ロワとピティヴィエの違いは、ピティヴィエは背が高くて、フェーヴが入っていない…ただそれだけだそうです」 |
Tarte pain complet タルト・パン・コンプレ アントルメ 2000円 アンディヴィデュエル 400円 オーボンヴュータン |
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「ウオッホン!タルト・パン・コンプレがあったのは感激しました。1960〜70年代のパリでは、いくつかの店で見かけたものでしたが、現在では私達フランス人自身でさえ知らない人が多いほど作られなくなってしまったのです。ブルターニュ地方のナントではパート・フィユテではなく、ビスキュイ・ア・ラ・キュイエールで作ったものを目にしたことがあります」 |
タルト・パン・コンプレ 2000円 オーボンヴュータン |
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タルト・パン・コンプレは、全粒粉のパンであるパン・コンプレを模ったお菓子。卵白を塗ったマカロン生地の表面はパリンとした食感で、中からはアーモンドとバターの風味が広がります。 |
「ピエール・エルメ氏が、ガレット・デ・ロワをコレクション化して、2010年4月〜11月にかけて、毎月1種類ずつ変わりガレット・デ・ロワを販売し、8種類全部を購入した人にはシークレット・フェーブをパリから送る…さらに抽選で当選した人をエルメ氏のシークレット・パーティーに招待する…というセンセーショナルなニュースが先日駆け巡りましたが、フランス人であるあなた方は、このニュースを聞いてどう思われますか?(^-^)//(()トントン」 | 「そのニュースは初めて聞きました。それはピエール・エルメ・ジャポン限定のことではないでしょうか?(*゚O゚*)\」「ウオッホン!1月以外にガレット・デ・ロワを販売するなどということは、フランスでは考えられないことです。これは“カレット・デ・ロワ”以上にスキャンダラスな出来事で、エルメ氏に抗議しなければなりません」 |
「私が思うに、エルメ氏はマカロンのクリエーションに行き詰まりを感じて、タブーを承知でガレット・デ・ロワのモード化に着手してきたのではないでしょうか。4月から11月まで発売される8台のガレット・デ・ロワには、エルメ氏がマカロンで培ったノウハウを惜しみなく駆使してくることが予想されます」 | 「ウオッホン!ガレット・デ・ロワがマカロンやボンボン・ショコラのようなモード的な菓子に変貌して、クレーム・ダマンドやクレーム・フランジパーヌを詰めた従来のガレット・デ・ロワは古臭いものになってしまうとでも言うのか?」 |
「その通りです。アンドレ・ルコント氏の無着色で何もはさまない生地だけのマカロンの復刻は、ピエール・エルメ氏の行き過ぎたマカロンに対して鳴らした私の警鐘ならぬ警太鼓だったのですトントン♪」 |
「ところで、マントンのジャン・コクトー美術館にいた私達をわざわざ東京に呼び寄せたからには、よっぽど素晴らしいガレット・デ・ロワを見せてくれるんでしょうね?(*^_^*)」「ウオッホン!新しいガレット・デ・ロワとは何だ?ワンダフルハウス君、俺達を驚かせてみろよ」 | 「たった今、新しいガレット・デ・ロワが運ばれてきました(^-^)//(()トントコトントコ」 |
「こ…このクープは人の顔!?(*゚O゚*)\」「ウオッホン!ガレット・デ・ロワに顔があるぞ!」「葉っぱも載っています!(^O^)//(()トコトコトーン」 |
罵声と怒号と賞賛でアトリエが大混乱に陥る中でサロン・ドゥ・ラ・ガレット・デ・ロワ番外編の幕が切って落とされました。 |
島田会長が壇上に登壇し、飛び交う野次に対して睨みを効かせました。 |
この瞬間、ピエール・エルメ氏よりも3ヶ月先行して、宗教色を排除したヌーヴェル・ガレット・デ・ロワが誕生したのです。 |
「おおっ!?あれは!?(゚O゚)//(()」 |
「ジャン・コクトーだ!(*゚O゚*)\」 |
「ウオッホン!これは…ミュゼ・ジャン・コクトーの入口に飾られているコクトーの自画像だ!」 |
島田会長「コクトーのオリジナルは縦に細長い長方形で、ガレット・デ・ロワは丸型なので難しかったのですが…」 |
1636年に建てられた海に突き出した岩場にそびえ立つ小さな砦がジャン・コクトー美術館。廃墟となっていた要塞を市長にかけあって譲り受け、海岸で拾った小石をはめ込んで作られたモザイク画などを製作し、コクトー自らが修復して美術館として完成させました。 |
パティシエになる以前は画家になるための修行を積んでいた島田会長が、「ジャン・コクトーとコクトーが愛した2人の男のために この世に存在しないガレット・デ・ロワを!」というオーダーに対して、20世紀のフランスを代表する詩人のヴィジュアル・アートに挑みました。“芸術の境界を越えた男”ジャン・コクトーが、ついにガレット・デ・ロワの世界にまで進出してきたのです。 |
ガレット・デ・ロワ “ジャン・コクトー” レイモン・ラディゲ風 特注品 |
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人間の顔と植物が見事に融合されています。単純な線で構成されたコクトーの素描はガレット・デ・ロワのクープには最適で、線の芸術の奥深さを感じさせます。 |
コクトーの映画には粉々になった花びらが元に戻ったり… |
死者が生き返るシーンが度々描かれました。それらはコクトーが好んだ「フェニクソロジー」(不死鳥術)というもので、ジャン・コクトーにとって映画とはそうしたフェニクソロジーを実現できる魔法のメディアであったのです。 |
ガレット・デ・ロワにコクトー風のフェニクソロジーを採り入れ、20歳で亡くなったレイモン・ラディゲがガレット・デ・ロワとなって蘇りました。 | |
「肉体の悪魔」と「ドルジュル伯の舞踏会」…わずか2作品だけを遺して1923年12月12日、20歳の若さで急逝したレイモン・ラディゲ。葬儀を取り仕切ったのは、コクトーの姉のような存在だったココ・シャネル。ラディゲが亡くなったショックからコクトーは、その後の10年間を阿片に溺れていくことになります。 |
ジャン・コクトーを少年時代から憧れの対象としていた三島由紀夫は『ラディゲの死』で、この当時のいきさつを書いています。 『一九二四年、ジャン・コクトオは三十五歳である。紺碧海岸の東端の町ヴィルフランシュに滞在しているあいだ、毎晩港の前へ一人で来て、腰を下ろす習慣がついた。…中略…前の年の十二月十二日、巴里ピッシニ街の病院で、レイモン・ラディゲが死んでから、コクトオの心は不断の危機に在った。もともとこの詩人の精神は、軽業師のような危険な平衡を天性としていたのであるが、はじめて平衡を失しそうな危機に立ち向かったので、軽業師にとっては、このことは直ちに死を意味する』 |
ジャン・コクトー氏「このガレット・デ・ロワは目に見える自分の血と目に見えない血によって作られています」「血!?(*゚O゚*)\」 |
「ウオッホン!表面が少し赤いぞ。島田シェフ、これは?」「フランボワーズのピュレを塗ったのです。試作するヒマがなかったので、いきなり作ったのですが、この色には満足していません」 |
三島由紀夫の『ラディゲの死』の冒頭の文章は、以下の部分へと続きます。 『奇蹟自体にはひとつも気づかずに、薔薇が突然歌い出しても、朝の食卓に天使が堕ちてきても、鏡の中から、水のきらきらする破片を棘のように体中に刺されて、潜水夫がよろめき出て来ても、馬が大理石の庭にその蹄の先で四行詩を書き出しても、当然のことのように、少しも驚かずに見ていられたのだった』「バラ!?(゚O゚)//(()」 |
「これはコクトーのホモセクシャル的な性向をイメージして製作されたバラのガレット・デ・ロワだったのです!(゚O゚)//(()トントン」 |
両眼と唇は3つのフランボワーズの輪切りで出来ています。これはコクトーがラディゲに贈るためにオーダーしたと言われているカルティエのトリニティ・リング(3連リング)をイメージして付けられました。3つのフランボワーズの輪切りは、それぞれ「友情・忠誠・愛情」を現しています。 | |
ガレット・デ・ロワには、シュロの葉、月桂樹の葉、オリーブの葉、四葉のクローバーといった葉っぱをモチーフにしたクープが描かれますが、このクープは「レモンの葉」。ジャン・コクトー美術館のあるマントンがレモンの産地で有名だからです。 |
レイモン・ラディゲが20歳の若さで急逝してから14年後の1937年、23歳のジャン・マレーはデュラン主宰の劇団で役をもらおうと必死に稽古をしていました。そこへ新しい劇団を作ったという女の子がやって来て、 「男性俳優が足りないの。私たちの劇団に参加しませんか?」と誘います。 「来年もデュランの劇団で役をもらいたいからデュランに逆らいたくないんだよ」とマレー。 「困ったわ。仲間になってくれると思ったんだけど」 「残念だな。脚本は何?」 「ジャン・コクトーの『オイディプス王』」 憧れのコクトーの作品ならば話は全然違います。マレーはすぐに前言を翻し、彼女と共にコクトーのオーディションを受けに行きました。 マレーのコクトーに対する第一印象は「驚くほど痩せていて、とても優雅」。 マレーの演技を見たコクトーは、すぐに主役のオイディプス王をマレーにすると言い出します。 マレーは“夢見心地で”役を引き受けますが、他の劇団員が大激怒。 コクトーに「彼はよそ者だから」と直談判し、いったん決まった役をマレーから取り上げ、マレーは合唱隊員の端役に回されてしまいます。 すると、『オイディプス王』の稽古中にコクトーがマレーのところにやって来て、次回作の戯曲『円卓の騎士』の主役を打診すると、 「信じられない! 信じられない!」とマレーは、喜びのあまり飛び跳ね、駆け出しました。 端役をあてがわれた『オイディプス王』の幕が開くと、マレーは「ジャン・コクトー」のネームバリューの凄さをまざまざと見せ付けられることに。 記者やカメラマンが現れ、あらゆる新聞や一流雑誌にマレーの写真が掲載されたのです。 ところが、そんな最中コクトーが姿を消してしまいます。2ヶ月間まったく連絡なし。マレーは次回作での自分の役が不安になります。 (この空白の2ヶ月の間に、まだ助監督だったルキノ・ヴィスコンティが触手を伸ばし、パリでマレーにイタリアでの仕事を申し込んでいます) マレーの不安が絶頂に達した頃、コクトーからの電話が鳴りました。 「すぐ来てくれ。重大事が起きた…」 |
ほとんど泣きそうになって、オテル・ド・カスティーユに住んでいたコクトーのもとへ駆けつけるマレー。 阿片の匂いの充満する部屋でコクトーから打ち明けられた重大事とは、彼がマレーを熱愛しているということだったのです。 思いもかけない展開に戸惑いながらも、とっさに、 「ボクもです」 と答えるマレー。 その時の彼は、それが自分の出世欲からくる“嘘”だと自覚していたのですが… |
『円卓の騎士』の稽古に入る前に、マレーはコクトーから数週間南仏で過ごさないかと誘われます。 「彼(コクトー)と見たすべての景色、地方、町々はとても素晴らしかった。彼のおかげで、これまで見たことも、想像したこともない美しさを教えられた。そして彼はツーロン旧市内の家屋の、素朴な優雅さを湛え、そして美しいノッカー付きの小さな扉口の前で私の足を留めさせた」「私たちは何時間も街を歩き回った。美しく非凡なものすべてに対する彼の熱狂ぶりが、それまで誰にも教えられなかった数多くのことを学ばせた。それは寸暇もない勉強となった」「私は幸福だった」「私はジャン(コクトー)を愛してしまったのだ」(『ジャン・マレー自伝 美しき野獣』石沢秀二訳 新潮社) |
ガレット・デ・ロワ “ジャン・コクトー” レイモン・ラディゲ風 特注品 |
ガレット・デ・ロワ “ジャン・コクトー” ジャン・マレー風 特注品 |
「コクトーが愛した2人目の男…ジャン・マレーのガレット・デ・ロワの登場です。 |
1939年夏、ジャン・マレーとジャン・コクトーは南仏の港町サン・トロペでバカンスを過ごしていました。戦争が始まったことを知って、慌ててパリに帰ると、なんとマレー自身も動員されていました。動員センターで軍服を受け取り、コクトーとココ・シャネルと一緒にマキシム・ド・パリで食事した後、すぐにマレーは出征する羽目になります。 高級家具に囲まれた南仏での優雅なヴァカンスからいきなりテント暮らしの軍隊駐屯地へ…「この戦争は私には理解できなかったし、ましてや受け入れられなかった」(マレー自伝) マレーが動員されると、パリに残ったコクトーは駐屯地のマレーに会うための面会許可証を手に入れようとあらゆる友人たちのもとのを訪れ、片っ端から頼み込んでいました。季節は冬に向かっていたので、シャネルはコクトーの駐屯地への旅行に備えて防寒用のコートやジャケット、セーター、手袋などを用意。シャネルは常にコクトーを経済的に支援していました。 コクトーがマレーと出会った頃、2人はいつも高級レストランで食事をしていましたが、実はコクトーにはあまりお金が無くて…コクトーからの支払いが滞るとレストランはシャネルに勘定を回し、シャネルが払っていました。コクトーとシャネルの付き合いは長く、ラディゲが死んだ時、葬儀代を出したのもシャネルでした。 だから「コクトーとシャネルは婚約者」と新聞に書かれたこともありますが、コクトーに対するシャネルの感情が普通の人々が想像するような恋愛感情でなかったことは確かです。 なぜなら、シャネルはコクトーが愛する青年に対しても、ほとんどコクトーと同じように支援していたから。マレーもずいぶん助けられ、自伝で「彼女は私に対して、常によき妖精であり続けた」と書いています。 |
ガレット・デ・ロワ “ジャン・コクトー” ジャン・マレー風 特注品 |
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ジャン・マレーの穏やかで太く、呪術的ですらある声が聞こえてきました 「奇跡…」 |
「奇跡――それはこの大きな謎を前にして、2重の生を生きること、しかも1つでしかないこと。 ぼくたちの顔立ちが織りあわされる。 類似は別種のもの。類似は精神から発散する。 もう1人のジャンが、ぼくにかわって姿を現す。 君はぼくだ、ぼくは君だ。 マレーがその魂でぼくを照らし、ジャン・コクトーになりかわる…」 (マレーが晩年に、コクトーの言葉をつなぎあわせて構成した1人芝居『コクトー/マレー』の台本より) |
「葉っぱのクープの上に本物の葉っぱが乗っている!(*゚O゚*:)\」「ウオッホン!ガレット・デ・ロワの上にデコレーションを施すなんて…美しいクープが隠れてしまうではないか!(`■´)/」 |
「ガレット・デ・ロワはデコレーションをしない分、綺麗にくっきりと筋を出すのがパティシエの腕の見せ所なのです。このガレット・デ・ロワは邪道です!(*`O´*)/」 | 「ウオッホン!ジャン・コクトーなど私は嫌いなのだが、このガレット・デ・ロワは、もっとスキャンダラスだ!フランス大使館を通じて抗議させてもらいますぞ!<(`■´)>」 |
「ジャン・コクトーという存在は、同時代の良識あるフランス人男性からは非常に嫌悪されることが多かったのですが、不思議なことに女性から嫌悪の眼差しを向けられることは無く、逆にほとんどの場合大いに好かれました。特に社会的地位の高い働く女性、貴族の血を引く教養のある裕福な女性がコクトーを支援しました。現代の日本人女性ならコクトーのようなある種の男性や、このような時代の先を行くガレット・デ・ロワを理解できる人も多いだろうと思います(^-^)//(()トントン♪」 |
「おおっ!?女性のお客さんが2名いらっしゃいましたよ!(^O^)\(()」「おおっ!?(*^O^*)\」「ウオッホン!?<(^■^)\」 |
「並木麻輝子さんと平岩理緒さんです!\(^○^)/(()トントントーン♪」「こ…これは凄い!\(*^○^*)/\(^■^)/ウオッホーン!」 | |
並木麻輝子さんは料理ジャーナリスト、ヨーロッパ郷土料理・菓子研究家。ル・コルドン・ブルー・パリ校の製菓・料理上級課程修了。『エル・ア・ターブル』ほか、グルメ雑誌、ガイドブックで執筆他、アドバイザー、講演など多岐にわたり活躍中。300人以上の食愛好家が集まる「並木組」主宰。当日は伊勢丹新宿店で開催されていた「サロン・デュ・ショコラ」のイベントの一つ「伊勢丹×ELLE a table サロン・デュ・ショコラ・トークセミナー」の合間を縫って来てくださいました。本日のトークセミナーのゲストはマダガスカルにカカオ畑をもつ“カカオの冒険家”フランソワ・プラリュ氏だそうです。 | |
並木組の一員でもある平岩理緒さんは2002年テレビ東京の「TVチャンピオン」デパ地下選手権で優勝。現在はスイーツを中心に食の情報を発信するジャーナリストとして活動。スイーツファンのためのコミュニティサイト『幸せのケーキ共和国』主宰。当日は浦和ロイヤルパインズホテル朝田晋平シェフの取材の後、「サロン・デュ・ショコラ」での仕事のために浦和→新宿への移動中にお立ち寄りいただきました。 |
バレンタインのチョコレート作りで忙しく、伊勢丹のサロン・デュ・ショコラには行く時間が無い島田シェフ。昨年10月に行なわれた本場パリのサロン・デュ・ショコラにはコンクールの審査員として行かれたそうで、その時の話などが披露されました。「ジャン・コクトーやレイモン・ラディゲ、エリック・サティ、アポリネール、ピカソ、モディリアーニ、シャネルなどの多彩な芸術家達が出入りしていたパリのサロン文化を彷彿させる会話です!(^O^)\(()」 |
このような会話や交流の中で切磋琢磨しながら菓子を作らせていった…いわゆるサロン文化から生まれたガレット・デ・ロワがカットされました。 |
一昨年までパリのピエール・エルメでスーシェフを務めていた島田徹シェフも登場。「ワンダフルハウスさん、ムッシュ(島田進シェフ)が僕に『ガレット・イスパハンの材料は何を使っているのか?』って聞いてきましたよ」「ということは、島田会長が初めて作ったバラのガレット・デ・ロワはエルメ風なのでしょうか!?(゚O゚)//(()トントコトントコ」 | |
ガレット・デ・ロワといえば、フィユタージュにクレームダマンドを入れて焼き上げた新年を祝うお菓子。「ガレット・デ・ロワ=1月のお菓子」「ガレット・デ・ロワのアパレイユ=クレームダマンドという常識に島田徹シェフの師匠であるピエール・エルメ氏がメスを入れてくることになりました。なんと8種類ものテイストを月替わりで発売するというのです。ピエール・エルメ氏「日本ではガレット・デ・ロワを食べる習慣が少ないと聞いています。そこで、日本限定で月ごとに1種類ずつ違う味を出すことにしました。毎月違う味が登場するので、皆さんで楽しんで食べていただければと思っています」 | |
ピエール・エルメ ガレット・デ・ロワ日本限定特別コレクション 2010年4月〜11月発売 各2940円 |
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4月 ガレット・キャレ・ブラン(メープルシロップ入りアーモンドクリーム、洋梨とクランベリーのコンポート) | |
5月 ガレット・イスパハン(バラ入りアーモンドクリーム、ライチ、フランボワーズ) | |
6月 ガレット・モザイク(ピスタチオとシナモン入りアーモンドクリーム、グリオッティーヌ) | |
7月 ガレット・ヴィクトリア(ライム皮入りアーモンド、ココナッツクリーム、カラメリゼしたローストパイナップル) | |
?月 ガレット・モンテベロ(ピスタチオ入りアーモンドクリーム、フランボワーズ) | |
?月 ガレット・キャレマン・ショコラ(チョコレートガナッシュ、かりかりチョコレートのキューブ) | |
11月 ガレット・ユ(柚子と一緒に10時間蒸し煮したリンゴ、抹茶) |
「おーっ! ピエール・エルメ氏のガレット・イスパハンに比べると普通っぽい!(゚O゚)\(()」 |
高貴な甘いバラの香りが漂ってきました 〜(~Q~)//(()トトトーン♪」 |
島田会長が初めて作ったバラのガレット・デ・ロワのルセットは、クレームダマンドをローズシロップとローズリキュールで風味付けして、フランボワーズを入れたものでした。 |
コクトーは映画について「詩を運ぶ素晴らしい車」と言っていましたが、彼にとっては映画のようなメディアでさえも詩の伝達手段の一つに過ぎなかったわけです。コクトーは自分が描いた素描に対しても「文章を解いて、違う形に繋ぎ直したようなものさ」と言ってのけました。つまり、ジャン・コクトーはまず詩人であって、演劇・映画・音楽・絵画などの作品は、詩人の余技であり、別な形の詩であったというわけなのです。 |
「そしてこれもガレット・デ・ロワの形をした詩というわけです!(^O^)//(()トトトーン♪」 |
「爽やかな柑橘系の匂いが…これはレモンのガレット・デ・ロワです! 〜(~Q~)//(()トトトーン♪」 |
島田会長のルセットはクレームダマンドにレモンカードを混ぜて、さらにレモンの皮と柚子の皮を刻んだものを混ぜ、リモンチェロで風味づけたものでした。 |
ガレット・デ・ロワ “ジャン・コクトー” ジャン・マレー風 特注品 |
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ジャン・マレー風のガレット・デ・ロワは、マントンの「フェット・デュ・シトロン Fete du citron(レモン祭り)」をイメージして作られました。 |
ジャン・コクトー美術館のあるマントンは、フランスのレモンの生産量の7割を占める生産地です。マントンのレモン栽培の歴史は17世紀、まだモナコ領地だった頃にイタリア北部からレモンの栽培が伝わったことに始まります。温暖な気候、そして高い山があるおかげで強風、特に冬の北風の被害を受けずに済み、栽培が盛んになりました。2月にはレモンだけでなく様々な柑橘類(オレンジ、ライム、グレープフルーツ、キンカン、セドラ)がたわわに実ります。それでこの時期にレモン祭が開かれるようになったのです。 |
レモンカードとは、レモンジュースとレモンゼスト、卵黄、砂糖、バターを混ぜてクリーム状に仕上げたレモンの酸味が効いたレモンカスタードクリーム。 |
レモンゼストは、レモンの皮の黄色い部分を摩り下ろして作ります。 |
「ウオッホン!?クレーム・ダマンド・シトロンの端っこが黒っぽくなっているぞ。島田シェフ、これは?」「材料の何かが焦げたものだと思います」 |
「一口頬張ると、酸味のあるクリームが口中に広がり、後からホロホロとくずれるフィユタージュのバターの甘みと混じり合って、この上なく美味(^Q^) 少し苦味のあるレモンの皮とリモンチェロとの相性も素晴らしいのです」 |
「しっかりした甘みと爽やかな酸味が見事に調和したガレット・デ・ロワ・オ・シトロンは、南仏マントンの陽射しを浴びたレモンの美味しさを連想させます」 |
ガレット・デ・ロワ “ジャン・コクトー” レイモン・ラディゲ風 特注品 |
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レイモン・ラディゲは1903年パリ郊外サン=モール=デ=フォッセ生まれ。幼少の頃は学業優秀でしたが、思春期にさしかかる頃からフランス文学の古典の魅力に取り憑かれ、文学にしか興味を示さなくなります。14歳の頃、『肉体の悪魔』のモデルとされる年上の女性と出会い、結果として不勉強と不登校のため学校を放校処分に。その後、自宅でギリシア語とラテン語を習いながら、徐々に詩作に手を染め、15歳の時に詩人のマックス・ジャコブに詩を評価され、ジャン・コクトーに紹介されます。コクトーはラディゲの才覚を見抜き、友人の芸術家や文学者仲間に紹介してまわります。数多くのコクトーの友人との交友を通して、ラディゲは創作の重心を徐々に詩作から小説に移し始め、自らの体験に取材した長編処女小説『肉体の悪魔』の執筆にとりかかり、コクトーを介した出版社とのやりとりと改稿の末に、ベルナール・グラッセ書店から刊行されます。このとき出版社は新人作家としては異例の一大プロモーションを敢行したため文壇から批判を浴びますが、作品は反道徳的ともとれる内容が逆に評判を呼んでベストセラーとなり、ラディゲは一躍サロンの寵児としてもてはやされることになります。 |
小説『肉体の悪魔』は、第一次世界大戦の時に始まり、17歳のフランソワと年上の人妻のマルトの恋を描いてます。この小説は三島由紀夫が絶賛するはずで、17歳の少年が書いたとは思えない見事な文体をしています。ラディゲはランボーとよく比較される早熟の天才ですが、17歳の少年フランソワの恋する心の不安や揺れや優柔不断や恐れや子供らしい無邪気さがよく描かれています。1947年、小説が映画化された際にフランソワを演じたのが、コクトーの3番目の愛人と言われていた当時25歳のジェラール・フィリップ。早熟な、子供と大人の中途半端ともいえる17歳の微妙な年齢の、複雑な心情に揺れるフランソワ役を見事なまでに演じきりました。 |
レイモン・ラディゲ風のガレット・デ・ロワは、ラディゲだけでなく、ジャン・マレーもジェラール・フィリップも含めたコクトーの歴代の愛人たちをイメージして作られました。 |
「このクレーム・ダマンド・ロゼの中には、たくさんのバラの花びらのエキスと共に、コクトーに愛された3人の男たちの悪魔のような美しさがエキスとなって入っているのです! (゚O゚:)//(()ドンドンドーン♪♪♪」 |
「このガレット・デ・ロワ・ア・ラ・ロゼは、コクトーの大部分の作品と同じく古代ローマ・ギリシャ神話から取られた題材なのです。古代ローマでは、 食事の前にバラの香りがするお風呂に入り、バラの香油を体に塗って身だしなみを整えるのが習慣でした。そのように入念な準備を終えると、天井からバラの花びらの雨が降る、バラで埋め尽くされたサロンに出向くのです。花の王冠を被ったローマ人は花びらをどっさり浮かべたバラ酒を飲み、バラがお腹に詰められた白鳥のローストに舌鼓を打ち、デザートにまでバラを使いました」 |
「バラの首飾りと王冠を付け、花びらを詰めた枕に寝ていた皇帝ネロなどは、バラの香りを立たせるため、孔雀の羽根にローズウォーターをふりかけて飛び回らせていました。クレオパトラもバラを愛したローズ・マニアで、シーザーやアントニウスをもてなした時にはバラの花びらを膝の高さまで敷き詰めたといいます。3世紀に治世したヘリオガバルス皇帝はバラ酒で満たされたお風呂に入り、その中で泳ぎさえしました。10世紀に入るとギリシャ文化を継承したイスラム圏でバラの栽培が盛んになり、中世になるとローズウォーターやバラの花を使ったレシピが増え、リチャード2世の宮廷料理人は王を喜ばせるためにローズプディングを考え出しました。ローズソースの魚料理もこの頃にあみ出されたメニューです。シェークスピアも戯曲にバラのレシピを登場させています。ポンパドゥール夫人やマリー・アントワネットもバラ好きで知られ、いつの時代も世界中の人々を魅了し続けてきたバラが、現在ではガレット・デ・ロワで堪能出来るのは大きな喜びです (^Q^)//(()ドンドンドーン♪♪♪」 |
「1961年、既にお菓子を熟知していたガストン・ルノートル氏は『お菓子を変えなければならない』と思いました。当時のお菓子を振り返ると、バタークリームがビッシリ詰まったようなとても重たいものでした。それぞれのバタークリームはショコラ、プラリネ、キルシュ、カフェなどで香りづけされていましたが、結局ベースは同じ重たいバタークリームだったのです。ルノートル氏は、お菓子に“軽さ”を与えようと思い、フルーツのムースを砂糖を少なめにして作ったり、クラシックなバタークリームをはさむ代わりにクレーム・ヌガティーヌやグランマルニエ風味のクリームなどを使って特徴づけました。砂糖を少なくして軽さを求め、それぞれの商品に個性を与えたのです。つまり、フランスの伝統菓子を大切にしながら、新しい味の開発に取り組み、そこからヌーヴェル・パティスリーの大きな流れが始まったのです」 |
「2010年1月、ガストン・ルノートル氏の弟子であるピエール・エルメ氏によって色々な味のガレット・デ・ロワが通年販売される…というニュースが流れる東京で、1961年当時のルノートル氏と同じ志を持って、フランスの伝統菓子を大切にしながら、新しいデザインと新しい味の開発に取り組んだヌーヴェル・ガレット・デ・ロワが誕生しました(^o^)//(()トントコトンノトントン♪」 |