アンアン1983年9月16日号No.396
ピンクハウス・ストーリー

マガジンハウス版ピンクハウスの歴史本。金子さんとユリさんが六本木の自宅でアンアンのバックナンバーを見ている。衣裳制作・金子功、モデル・立川ユリ、この組合せが創刊(1970)から約2年間アンアンを飾ったが、その頃の写真が何枚か載っている。ユリさん秘蔵のピンクハウスデビュー当時のカーディガン、ニコルの頃のピンクハウスのワンピース(今のタグとはロゴタイプが違う)など博物館行きの貴重品が目白押し。

ピンクハウス・ストーリー
金子功・金子ユリ 僕も服もずっと変っていない。
山口から出てきた僕の憧れは”三愛”。東京はキラキラしてた。
文化へ入るのが1年でも遅れていたら、いまの僕はなかった。
アドセンターのころ、ユリと出会った。そして3年後に結婚。
アンアン創刊!衣裳制作とスタイリストを担当。
女の子の夢を全部集めたブチック、それが”ピンクハウス”。
僕の服がいつの日かアンチックドレスと呼ばれるように……。
若い女の子の重ね着は楽しい。センスで着こなして。
日本人の体型に合ったルーズなパターン――隠してこそセクシーだ。
そして1982年、大人の女性のためのINGEBORG誕生。
僕が服作りを楽しめなくなったら、ピンクハウスは終る。
立木三朗さん(カメラマン)「ユリってもしかすると、モデルの天才かもしれないね。」
松村真佐子さん(ヘアメークアーチスト)「憧れていた金子さんと組んでドキドキの毎日だった。」
大橋歩さん(イラストレーター)「ピンクハウス以前の服、全部とってあるんですよ。」
高木三佳さん(スタイリスト)「着るほどに味が出てくる服。年月を超えて手にしても新鮮。」
山本照美さん(学生)「ピンクハウスは私にとって、”性格に合った服”なんです。」

山口から出てきた僕の憧れは”三愛”。東京はキラキラしてた。

ピンクハウス、金子功、そして金子ユリ。なぜかこの3つの固有名詞には甘い香りが漂っている。「女の子がいちばん女の子らしく、可愛く見える服」。ピンクハウスの服の持つ優しさは、金子さんの優しさそのままだという人も多い。
そんな服作りをする金子さんが最初に心動かされたもの、それはイラストだった。「ファッション界へ入ったきっかけは、高校生のころ、”サロン・ド・シャポー”という帽子屋さんの袋に描かれた、長沢節さんのイラストを見たことかな? ものすごく感動したのを覚えてます」 でも、金子さんの感動はそれだけでは終わらなかった。高校卒業後、進学のために上京した金子さんにとって東京はものすごく刺激的で、きらびやかな街に映った。そしてその頃、全盛を誇っていた「三愛」も、憧れの対象のひとつだったという。


文化へ入るのが1年でも遅れていたら、いまの僕はなかった。

金子さんが文化服装学院に入ったのは1957年。同級生には、コシノジュンコ、高田賢三、そしてマドモアゼルノンノンの荒牧太郎さんらが……。今にして思えば、日本のファッション界を大きく揺るがすことになる人たちが、ずらりと揃っていた。
金子さんは、文化へ入学と同時に、長沢節さんの、セツ・モードセミナーへも入学している。
「当時、いろいろな人と出会ったことを今、とても大切に考えています。あの頃は本当によく遊び、よく勉強していたと思う。遊びといっても、ボウリングがはやり始めた頃だったから、コーラを飲みながら、ボールを持つというのが、とってもカッコいいことだった。あとは仲間と、茅ヶ崎の海へ繰り出したり……。欲しい服を売ってない頃だったから、アメ横でTシャツを買うのが一番おしゃれなことだった。物のないなかで探す楽しみがあったね」


アドセンターのころ、ユリと出会った。そして3年後に結婚。

文化服装学院、セツ・モードセミナーを卒業した金子さんは、広告制作会社、アドセンターに入社。ここに10年ほど勤めることになる。金子さんの仕事は、今でいえばスタイリストのアシスタントといったところ。もちろん、その当時は”スタイリスト”などという言葉もなかったけれど。今でも、ピンクハウスのショーの時など、スタイリストにたのまず、すべて金子さん自身がスタイリングする、というのもそのせいかもしれない。そして、立川ユリさんとの出会いも、アドセンターにいた時だ。
週刊誌の撮影で会ったのが始まり。その後1年ほどしてCMの仕事を境に、付き合うようになった。「金子さんが作る服が可愛くて、いくつも作ってもらいました。週2回は仮縫いしてたのよ。ギャラの大半を洋服代に使ってた」(ユリさん)そして19歳と25歳のカップル誕生。


アンアン創刊! 衣裳制作とスタイリストを担当。

創刊の頃のアンアンを見ていると、モデルの着ている服の値段や店名が載っていないことに気つ゛く。そして、カメラマン名、モデル名と並んで、コスチューム制作者の名前がある。
これは当時、既製服がほとんどなかったため、わざわざ撮影用に衣裳を制作してもらっていたのだ。そこに金子さんの名前も、よく登場していた。その時のモデルは必ず、立川ユリ。
「アンアンは創刊準備のときから、お手伝いしてましたよ。アドセンター時代の後半になるかなあ? モデルはユリってきまっていたから、彼女に似合うものだけを作っていたな。2年間のレギュラーで、海外ロケにも、国内ロケにもずいぶん行かせてもらいました」
インドロケの翌日には、着物の撮影なんていう超過密スケジュール。金子さんはスタイリスト兼業で大忙しだった。


女の子の夢を全部集めたブチック、それが”ピンクハウス”。

アンアンの2年間のレギュラーが終わったあと、「アンアンが終ったら、やる仕事がなくなっちゃったから」自分で服を作りはじめた。ちょうどこの頃、ビギ、コシノジュンコ、ニコルなどのデザイナー・ブランドが登場。
松田光弘さんの誘いでニコルから1971年”ピンクハウス”が誕生。「ピンクって女の子の大好きな色でしょう? 女の子の好きなものがいっぱい集まっている家っていう意味で、僕が”ピンクハウス”とつけたんです」
その頃から金子さんのポリシーは変っていない。かわいい色、ゆれるもの、レース、リボン等々、女の子の好きそうなものを作り、金子さん自身、まず自分が好きになろうとしてきた。それから8年、ピンクハウスはニコルからビギへ移籍。金子さんの服は、以前にも増して光ってきたとは、誰もがいう言葉だ。


僕の服がいつの日かアンチックドレスと呼ばれるように……。

肌に優しいテレンとした生地、ローウエストのワンピース、どこか懐かしい水玉やリボンのプリント。ピンクハウスの服にはアンチックの香りがする。
「僕は、ヨーロッパにあるような、アンチックの白いブラウスが昔から大好き。僕の服も、なるべくアンチックみたいにしたいし、そうなってくれればいいな、と思っています」
ピンクハウスの服、といって思いつくものに、プリントのワンピースと同時に、フリルのついた白いブラウスがある。どちらも、金子さんの中にある、アンチック好きから生まれたもののよう。
デザインや素材がアンチック風。それだけなら、街にも溢れている。でも、ピンクハウスの服にはそれだけではないものがある。つまり、何年か前にしまい込んだ服を取り出してみても、今すぐにまた着られるのだ。着ている人には経験があるはず。
「服には今の服、昔の服っていう分け方はないと思っています。僕は、デザインでくずすより、着こなしで今風にできると考えていますから」


若い女の子の重ね着は楽しい。センスで着こなして。

ピンクハウスといえば、ミスマッチ。実はこの”ミスマッチ”という言葉は、アンアンが作り出したもの。金子さん独特のスタイリングは、それまでの、服のコーディネートという常識を、大きく変えてしまったのだ。たとえば代表的なのが、プリントの柔らかいワンピースにスタジアムジャンパーを合わせる、フワッとしたスカートには、パンプスでなく、男もののような靴とソックスを合わせるなどなど。
「自分では、特別な組合わせだとは、意識してないんですけどね。ただ柔らかい服だから、といって、合わせる物まで女っぽかったら、お嬢さんファッションになってしまう。それはイヤだったな」
本当は合うわけないんだけどね、といいながらも、こうして金子さんの作り出したスタイルは、やっぱり可愛かったし、だからこそ、これだけ広まって……。
「だけど、みんなスカーフとか、リボンの扱い方ヘタだよね。でもそういうのって、練習じゃなくて天性のセンスなんだろうな」
わァ! ミスマッチのセンス欲しい。


日本人の体型に合ったルーズなパターン――隠してこそセクシーだ。

金子さんは、ミニスカートを作らない。断固として、スカート丈はひざを隠す長さを守ってきた。ウエストも、そのラインを出さないルーズフィットのものばかり。
「僕はね、隠せばいいと思ってるの。日本人って、ひじやひざのかたちがきたないんだし、曲がってたり太かったり。そんなの見せないほうがいい」といわれてしまっては、着る側はつらいけれど、金子さんはこうもいっている。
「からだって見せるより隠すほうが、セクシーだと思うな。だから黒のタイツをはかせたりね。ほら、喪服のときに黒いチュール付きの帽子で顔を覆って、レースの手袋に黒タイツ姿って、最高にセクシーでしょう? ウエストなども、ぴったりしているより、ルーズなゆとりがあって、ふとした瞬間の動きでからだのラインが出るのが美しいんだ」
ピンクハウス、インゲボルグ共に、その考え方はつら抜かれている。
「ただそういう服を着て、ナヨッとした動きでは最悪。サッサと歩くのが色っぽいんだよね」


そして1982年、大人の女性のためのINGEBORG誕生。

青山の一角に構えた小さなブチック”ピンクハウス”から12年。金子さんの服のファンは、下はティーンエージャーから、上は開店当初、またはそれ以前からの人たちまでに、広がっていた。また、ピンクハウスの服自体、ひとつのブランド名だけでは表わせないほど、さまざまな顔を持ち過ぎてしまった。本当の少女のための服から、少女の心を持った大人の女の服まで……。このままでは、どんな服を作っても、ピンクハウスという大きすぎる枠の中で、金子さんの意図はぼやけてしまう。
「INGEBORGは、今までピンクハウスに含まれていた大人の部分を集めたもの。あえて分けるとしたら、30代から40代の人に向けるつもりで作っています。ピンクハウスはハタチくらいかな?」
とはいえ、いかに対象年齢が上がろうと、女の可愛さを引き出してくれる服であることに、変りはない。
金子ユリ 37歳。INGEBORGを着て彼女はもっとも美しくなる。


僕が服作りを楽しめなくなったら、ピンクハウスは終る。

「最近はデザイナーが、下に若いデザイナーを何人か抱えてることが多いですね。そうすると、あるシーズンから、ガラッと傾向が変わることがある。でもうちは全部、僕ひとりでやってます。僕の作りたいものは、昔から変わってないし、これからも変らない。それでもいま、これだけ若い人たちに僕の服を着てもらっているということは、幸せだし今を生きるデザイナーという実感があります。もし、僕のやり方で売れなくなってしまった時は、ピンクハウスなんか潰れちゃっていいんです。僕一代で終って、いいと思ってます」
まだ、ピンクハウスがこれほど知られていなかった頃は、量産できないがために、好きなものが作れなかった。それが今では、自分の好きなものを熱中して作れるようになったのが何より嬉しいという金子さん。なるべく長く、いまの状態が続くようやっていくつもりときっぱり。金子さんが、服作りを楽しめなくなるなんて、やっぱり考えられない。


大橋歩さん(イラストレーター)
「ピンクハウス以前の服、全部とってあるんですよ。」

もう12年くらい前になるかしら?金子さんが平凡パンチの、ファッションウイークリーというページでお仕事をしていらした頃、私もパンチの表紙を描いていて、お知り合いになったんです。金子さんの服は、その前から素敵だと思っていたんですけれど、私がN・Yに4か月ほど行くことになって、はじめて黒いウールのスーツを作っていただきました。その頃では珍しく身体にぴったりしたデザインのもの。行く先々でアメリカ人にとても、誉められました。以来、いくつも作っていただいて、今でも全部とってありますよ。
今はピンクハウスのイラストのお仕事をいただいてますが、大好きな服だけに、のめり込まずに自分なりの解釈で描いているんです。金子さんをとても尊敬しているので、一生懸命やらなくては申し訳ない気持ちなんです。


高木三佳さん(スタイリスト)
着るほどに味が出てくる服。年月を超えて手にしても新鮮。

ピンクハウスの服の魅力って、奇抜過ぎず、目立ち過ぎずに着られるということではないかしら? 着る人に溶けこんでしまう服ね。だから、どんな職業の人にでも、年齢のいった人にも歓迎されるのだと思う。素材にしても、プリントにしても、あれだけ特徴があるのに、押しつけがましさがないの。ひとつひとつのデザインが、とってもベーシックということも、その理由のひとつかもしれない。何年たっても、また着られる服だと思うし、それってとても素敵なことだと思うのね。
水玉やリボン、フリルなど女の子にとって永遠に好きなアイテム。ピンクハウスの服を着た人が可愛く見えるのは、当然のことかもしれませんね。


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山本照美さん(学生)
ピンクハウスは私にとって、「性格に合った服」なんです。

ピンクハウスの服を着始めたのは、2年くらい前から。そのずっと前から、憧れてはいましたけれど、もっと大人になってから着る服だと思っていたんです。ようやく着てもいいかな、と思ってはじめて買った時は、ものすごく嬉しかったですね。今はもう毎日、ピンクハウスばかり。月に10万円は買っているかな? アルバイト収入のほとんどを使ってしまっているほど。だから服も自分の部屋には納まりきらないで、姉のタンスなんか全部、私のピンクハウスばかりなんですよ。
私って、リボンやレースとかの可愛いものが大好き。性格も人に言わせると、いかにも女の子風らしいんです。だからなのかしら、着ていても自然ですね。

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