平凡パンチ女性版2号(1966年8月10日発行)「へんな学校ルポ イラストレーターゴーゴーゴー」セツ・モードセミナーが初めて雑誌で紹介された。キリスト像と裸体の人形の前でGOGOを踊る生徒たち。写真は、ある日の学校のスナップであるが、これが在学生の結婚披露パーティーだというからビックリだ。発案者は校長・長沢節。自らキリストの像を描き神父にもなった。 |
モデルを囲んでのデッサン。雑誌「オリーブ」創刊時に、メインキャラクターを描いていた、イラストレーターの上田三根子さんは、高校時代、この写真の中の絵を見て、セツ・モードセミナーへの入学を決意した。 上田さん『「平凡パンチ」という雑誌の表紙に大橋歩さんがイラストを描いていらして、世の中にはイラストレーションというジャンルがあるんだと、その時はじめて知ったのです。そして「平凡パンチ女性版」というのが出版されて、その中の記事でセツ・モードセミナーという専門学校を知り、パッと目に飛び込んで来たのが生徒たちが描いた絵。それを見て「私が描きたいのはこれ!」と、ずっと抱いていたもやもやが一気に晴れ渡ったことを覚えています。むさぼるように記事を読み、セツ・モードセミナーについて調べていくと、試験もないし、生徒はみんな楽しそう。なんて自由な学校かしら、私が行くのは、ここしかないわ、と何の迷いもなく入学手続きを取ってしまったの』 |
新宿区舟町15 丘の上
もしキミがこの番地をたよりに初めてセツ・モードセミナーを訪ねたとしたら……まず建物の美しさにびっくりするだろう。
学校というより教会といったほうがぴったりの外観だ。やや急な石段を登りきって中へ入ったキミは”オヤ マチガエタカナ”と思うにちがいない。が安心したまえ。ここでいいんだ。イタリア料理”ニコラス”の出店を通らなくては教室に行けない仕組みになっているのだから。
運よく学校の受付けが目の前に見えたらキミが選んだドアが正しい(入口がふたつあるんだよ)その受付けで声をかけるヒョロンと背の高いオトコが出てくるにちがいない。事務を手伝っているN氏だ。理事のT氏かもしれない。どちらにしても骨が服を着たようなヤセッポチのセイタカノッポ――そのほかにもうひとり足の長いヤセッポチの男がいる。校長の長沢節だ。キミも知ってのとおりファッション・イラストの第一人者、同時にユーカンなモード実践者でもある。
彼の憲法第9条に”ウンコとセックスの自由”というのがあるが、これをこの学校の旗印と考えてもいい。つまりガマンするナ。自己主張をするのにユーカンであれということを彼流にいっているわけ。ただし長沢節の考えているウンコの場は完備された水洗トイレであってデタラメではない。より高い社会生活に常につながりをもった上での自由をいっているのだ。これでこの学校のカラーが、ほぼわかるだろう。
次に授業風景をのぞいてみたまえ。モデルをかこんで真剣にデッサンにとり組んでいるたくさんの生徒。よく見れば長沢節か講師の河原淳、穂積和夫、高木弓といった顔もあるはず(金子さんも講師をしていた)。生徒といっしょに絵筆をもった先生がどうかするといちばんマジメな顔をしている。ここがよその学校とちがう。講義をするだけでなく先生が生徒とともに実習をする。その意味では学校というより塾といったほうが正しいかもしれない。
実習の他にセミナーの時間もある。現代風俗、時事問題、哲学、美学、気がむけばビートルズ(この年は)からワイダンまでディスカッションの対象になる。先生・生徒の垣根のない心の交流が、そこにはあって、キミもひとひざのりだしたくなるだろう。授業は三部制――夜の部の学生の中には夜食をしながらの無礼講も許されている。授業はキビシイ。だが、それだけではなく、遊ぶことにも、食べることにも、恋をするにも、積極的な楽しい学校である。
平凡パンチ女性版から14年後、アンアン1980年2月21日号(No.245)に「現代の”自由学校”セツ・モードセミナーが生んだファッショナブル人脈図」が掲載された。長沢先生の一声で、卒業生が集まり、先生の部屋で「おもちパーティー」を行った。金子功、花井幸子、山本耀司、川久保玲…等、デザイナー、イラストレーター、スタイリスト、モデルなど錚々たるメンバーが集まった。「ギャルズライフ」に描いてた頃の上田三根子さんも後列のほうにいる。オリーブ創刊は2年後のことである。 | |
金子功…昔から「サロン・ド・シャポー」の先生の絵が好きで、高校を出たらすぐに上京して入学しました。22年くらい前かな。その頃は授業が週に2回でね(もったいないから文化服装学院にも席をおいたけれど)同級生には荒牧君(マドモアゼル・ノンノン、パパス)がいました。花井さん、ユミ・シャローさんたちが上級にいて、3年間目いっぱい、一度も休まずに通いました。教室にいるだけで、かっこいい人の間にいるだけで楽しかったから。自分もそういうふうになれるのでは、と思ったりしてね。そういう空気や先生といたときのすべてが、デザイナーになる力になりました。 | |
金子國義…入学金を払って、ちゃんとした生徒として入ったのは、僕が日大芸術学部の生徒でもあった頃。だいたい23年くらい前かな。「スタイル」という雑誌に載っていた節さんの絵が好きで、友人と2人で入学して試験を受けました。当時は予科と本科があって、試験を受けてどちらに入るか決まるシステムでね。僕は高校時代、石膏デッサンをやっていたから、すぐに本科に入りましたが、友人が予科だったから、じゃあ、ということで、僕も予科に通いました。当時は先生の描いた絵を模写するという授業内容で、僕は速く描けないし、線が違うしで、上手な生徒ではありませんでしたね。ただ、そういう場所が、シャレた人たちの集まる場所が、好きでした。2度目は四谷シモンたちと行ったなあ。ちょうど「ELLE」が出始めた頃で、ファニー・ダルナのイラストが流行っていました。スタイル画好きな連中と一緒に通ったけれど、そのときは講義も始まっていたな。 | |
四谷シモン…僕はファッションやイラストには、ほとんど興味がなかったのに、金子國義たちと連なって通いました。もう20年以上も前になるかな。なにしろ当時、長沢節といったら大スターで、あの骨っぽいイラストレーションで一世を風靡したんですからね。僕は絵を勉強するというより、長沢節に会い、教室のカッコイイ雰囲気にひたりたいという気持の方が強かったですね。当時は僕らが何も知らない、というので骨の仕組みや動きを学ぶ骨学の授業もありました。今でも、先生とは個人的につき合いますよ。朗らかで楽しくて、あの若さ! 素晴らしいと思います。精神の中に、何か確固たるものを持つ稀有な人ですね。 | |
山本耀司…21年前、高校生のとき半年間通ったんですが、何故入学したのか原因ははっきり思い出せないんです。画家にあこがれてはいましたけれどもね。当時、長沢先生の絵が一番斬新に思えて、すごいなあと感銘していましたから、それでかな。学校全体も、あの頃の若い人が自由にやっている、革新的な雰囲気がありましたね。それが好きだというわけでもないけれど、活気が感じられました。僕はそれほど先生と親しく口をきいたことはなく、先生との会話で覚えているのは、石膏デッサンのときでしたが、キャンバスにしがみついて描いている僕に「坊や、すこしは離れてタバコくらい吸ってみるもんよ」という言葉。デザイナーを始めてから話す機会も増えまして、話してみると本当に良い人でね。 | |
早川タケジ(「TOKIO」など全盛期の沢田研二の衣裳デザインは有名。)…昔から絵が好きで「映画の友」なんかに似顔絵を送ったりしていたんですよ。だからセツには入学したいと思っていました。実際に入ったのは13年程前「モノ・セックスショー」(スカートをはいて銀座を歩いた)のモデルに誘われてから。その頃はメンズ雑誌(「メンズクラブ」「平凡パンチ」)のモデルをしていて、周りの人間はごく普通の格好をした人ばかり。みんなトラディショナルな服を着ていました。そんな中からセツに行って、ピンクのコーデュロイのスーツを着ている長沢先生を見たときは、驚くというか、とても面白かったな。そういう自由な感覚を学んだことが、今の仕事にずいぶん影響していますね。 |
「おもちパーティーをやるよ」という長沢節さんのひと声で、ある週末の昼下り、四谷三丁目にいろんな人が集まった。長沢節を師と仰ぎ、その自由思想を吸収して大人になった人たちの、さしずめ同窓会である。いるいる、デザイナー、イラストレーター、スタイリスト、モデルetc。え?この人も!?と意外に思う顔もある。
その前身の「セツ・スタイル画教室」時代を入れると、セツ・モードセミナーは今年(1980年当時)で創立25年になる。この間に、いろんなタイプの個性派人間が生まれ、社会で活躍している。彼らを育て送り出したセツとは、いったいどんな学校?そして、どういう人が出入りしたのか、ちょっと聞きかじってみたくなった。
セツの第一歩は、東京・高樹町の幼稚園の片隅で、寺子屋のような形で始まったという。「先生のファンが集まって、強引に教室を開校させた、というのは、毎年欠かさず元旦の朝おせち料理を先生に運んだくろすとしゆきさんだ。毎日アトリエまで押しかけてくるファンの若者たちを撃退するのに根負けした長沢氏の、プライバシー保護のための手段だったわけ。それがいつのまにか、いろんな制約なしの、みんなで楽しく本当の勉強ができる場所が自然とできあがっていた。
第1期生の穂積和夫、河原淳氏がいつまでも教室をやめようとしない、長沢氏いわく「面倒だからいっきに先生になってもらって」、場所も高樹町から四谷三丁目へ移り、現在の「セツ・モードセミナー」ができたわけだが、根本的なものは変わらなかった。
長沢節の絵や思想に共鳴する人であれば、だれでも門をたたける。恐怖の入学試験もないから、相変らずいろんなタイプの若者が入って来る。「他の美術校とは違う独特の雰囲気がありましたね。外国風のしゃれた空気というのかな。当時はそういう場所は他になかったし、その空気の中にいるだけで楽しかった記憶がありますよ」というのは23年程前、高樹町時代に通っていた金子國義さん。その頃ユミ・シャロー、岩崎トヨコさんたちがいて、当時のおしゃれな人のたまり場だったとか。吉田大朋さんも、多分この頃の生徒らしい。「吉田君から『僕も通っていたんですよ』と聞いて、驚いたよ」と長沢氏は笑い飛ばす。
「先生の特技のひとつは、ひょろっと細い男の子以外は生徒を覚えないことだね」というのは四谷シモンさん。これはセツに通った人、全員一致の意見でもあるらしい。
ひょろっと細くもなく可愛くもない生徒は、絵が上手であるとか勉強熱心である、個性的である、先生とよくしゃべるとかでないと覚えていてもらえないハンデがあるわけで、これが有名な”セツの細い子エコヒイキ”なのだ。そして面白いことには、生徒たちはそういう先生を理解して、納得している。
というのも、そこには長沢氏が頑固に持ち続けている、ムダのない身体しか作り出せない美しい線、という美の哲学があるからだ。授業時間以外の彼の言動の中からも、そのようにして生徒は自然と、セツ哲学を学んでいく。この学校の卒業生に共通しているのは、何を学んだ……という意識のないうちに、いつの間にか長沢校長の、美学だけでなしに生き方、考え方の姿勢が自分の中に入ってしまった、というところだろう。かなりの影響を受けた人が多い。
13年程前(1967年頃)話題を呼んだ「モノ・セックスショー」でモデルをやった峰岸達、池田和弘、早川タケジさんたちは、スカートをはいて銀座を歩いた。面白い体験だったという。
「世間の眼や先入観にとらわれない、自分の姿勢を大切にする――という良い意味の個人主義を学びましたね」というのは池田さん。先生は決して強制しないけれど、そういう考え方が学校にいる間に自然と伝わってくるという。
「お弁当の作り方、コーヒーの上手な入れ方、歯のみがき方なども教わったわ」というのは本くに子さん。先生から生徒まで、みんながうれしそうに楽しそうにしているセツが大好きで、今でも通っているそうだ。
自由思想の自由な学校を求めて、そこで学びたいという人は今も昔も数多い。そこで何を身につけるか、当人の努力次第なのだが、「卒業生やかかわりのあった人などみると、いろんなタイプが出ているでしょ。それがとてもユニークだと思います。他の学校には見られない現象でしょう? そういう点でも、先生の姿勢というか、空気が、個性を引きだすのに大きな影響を与えたと思いますよ」と、くろすさんがいうように、長沢節独特の自由教育が成功したようだ。
学校側にわかっている人だけでも、その卒業生リストは賑やかで愉しい。たとえばこんな具合…。ファッション関係では、もとVANの石津祥介、「マドモアゼル・ノンノン」の荒牧政美(太郎)、「数々六」の松田すずろく、「ミッチ」の渡辺雪三郎、モグリ生徒のコシノジュンコetc。
イラスト界では、セツ・ゲリラの走りである柳生弦一郎、飯野和好、上野紀子、小川久子、渡辺明美、綿谷寛、現在(1980年当時)「プラスティックス」のメンバーとしても活躍中の中西俊夫、そしてモグリ生徒のコージズキンこと鈴木康司etc。
スタイリストでは、山口百恵担当の石井令子、アンアンの横地和子。靴のデザイナー「ファナティック」の渡辺ユミエや、ヘアー・メークの宮崎定夫。劇画の松尾美保子、バロン吉元、サンローランの専属モデルだった高島三枝子やカメラマンの田口顕二、商品企画の浜野安宏etc。
ブチックのオーナーでは、「スポーツトレイン」の庄司竹志、「DO!FAMILY」の立花順一etc。
最もユニークなところでは、風変りな絵を描いて目立っていたという女優の樹木希林、歌手の芦野宏、元「ガロ」の大野真澄、タレントの木原光知子、吉田未来、ミュージカル「ミスタースリム」の深水龍作……など。他にもファッション雑誌の編集者や、純粋絵画家、人形創作、手芸家と、その活躍の場は幅広い。
NEW! |
アンアン1980年2月21日号からさらに14年後、今度はアサヒグラフ1994年9月9日号(No.3773)に「セツ神話」という物凄いタイトルで長沢節及びセツ・モードセミナーの特集がされた。 長沢先生が、なんと!金子さんがデザインしたカールヘルムのワッペン付きキャップ(赤)を被っている!\(^○^)/ |
珍しく私服を披露。独特のスタイルである。シャツやジャケットの衿を立て、ジャケットの上からベルトをする。脇縫いなしのパンツ”セツパッチ”は、どこにも売っていない長沢節オリジナル。セツ・モードセミナーのファッション科の先生が縫い上げたものを思い切り短めに履き、紫などの派手な色のソックスで演出するのがポイント。海外の雑誌を見ながら、常にどういうファッションが可能か考えていたという。婦人服のプロだけに、自分のおしゃれのアイデアも女性ものからヒントを得ることが多い。「俺は宿命的にアンドロジナス(両性具有)なのね」 靴のコレクションも載った。ブーツがお好きなようだ。コンバースのハイカットも色違いで所有している。 |
千葉大原スケッチ旅行はセツの年中行事。初夏の週末、小さな港町はおしゃれな若者たちであふれる。「こんな絵になる場所は他にないよ」と長沢さん。南仏の風景に似ているそうだ。地元の人も「セツが来ないと夏が来ない」と言う。 しかし、この5年後の1999年6月23日、大原スケッチ旅行の最中、自転車で転倒し頭部を打ち脳挫傷にて死去。享年82歳。 |
「卒業生たちが語る、節とセツ」には、デザイナーの金子功、花井幸子、イラストレーターの穂積和夫と峰岸達の4人が登場。 |
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