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自言自語塩拿脚

柔らかい日差しのもと、木の葉の香りに包まれながら、息子の清海は、一心不乱にミルクを飲んでいた。やがてミルクを飲み干すと、満足げに「ぶるる」語で独り言を言い始める。これは、彼の最近のマイブームの一つのようだ。

   「独り言」と言えば、先日職員室で、中国人は独り言を言うか言わないかで盛り上がった。「自言自語」という言葉があるぐらいだから、言わないはずないと思うが、日本人ほどは言わないような気がする。教室で学生に聞いたら、はやり言っていると言う人が何人もいた。

  そんなやりとりの中で、ふと、小さい時、母がよく口にする独り言を思い出した。子どもの頃に聞いたそれは「yan2na2jiao2」と聞こえたので、「塩拿脚」かなと思った。ただ「脚拿塩」ならば、まだあり得るが、「塩拿脚」となると意味不明で、一体どういう意味なのか長い間謎だった。

   母は,横浜中華街生まれだったが、一九五三年、祖国を建設するという壮大な夢を持って、多くの華僑や留学生とともに中国大陸の土を踏んだ。未知の地である天津に定着し、五十数回の春秋を過ごし、今は、当時一緒に帰国した元留学生の父と静かな老後生活を送っている。

   母が「塩拿脚」をよく口にするようになったのは、一九六六年あたりからだった。外国に親戚がいるだけで周囲に疎外された時代である。外国生まれで、在日留学生だった夫、その上、国民党政府時代に公務員だった義父を持っている身では、様々な迫害を受けたとしても不思議ではない。そのつらさは、あの時代の中国に暮らした経験のない人には、なかなかわかってもらえないだろう。

   母は、技術関係の文章を翻訳する仕事をしていたが、ついに多くの「同類」と一緒に労働者の再教育を受けるため、工場に下放されてしまった。ペンを使う仕事から機械を操作する労働に換わり、「脱胎換骨」の改造を強いられたのである。その後、母は体を壊して、在宅療養となり、二度と前の仕事に復帰できないまま、定年退職を迎えた。

   「蛙の子は蛙」。こんな親を持った子がまっとうな道を歩めるはずがなかった。決して品行が悪かったり、成績が悪かったというわけではなかったが、いわゆる「出身が悪い」ということで、クラスの大半が加入している「紅領巾」(赤いスカーフ)をシンボルとする「少先隊」にもなかなか入れてもらえなかった。

   学校で厚遇される「出身のよい」子のことはもちろん羨ましかったが、かといって自分の親が向こうの親より劣っているとは思わなかった。少なくとも、沢山の本を読ませてくれ、たくさん字を書かせてくれた。そのおかげで、一緒に駆け回って遊ぶ元気な友達の他に、本という静かな友達にも沢山めぐり合うことができた。時には、その友達のお陰でずっと昔の時代や外国を行き来する喜びも得られた。

   当時、家から商店が集まった地域に行く途中に、小さな本屋があった。この店は、親に連れられて買い物を行く時に必ず寄る場所で、ほしい本はほとんど買ってもらった。家にはタンスがなかったが、本棚は三つもあった。特に部屋の隅っこにあったカーテンのかかっている厚みのある本棚には、日本語の本や写真集、雑誌などがあり、日本で撮った「松川事件」の写真などもあった。


   僕は、父母の不在中、母のベッドに登って頭を突っ込み、よく宝探しをしたものだった。親が日本から持って帰った日本語で書かれている『一千零一夜』の絵、白黒の写真集でさえ、幼かった僕に色とりどりの夢を見せてくれた。

   それにしても、周りの子がほとんど入っている「紅領巾」に入れなかったのは辛かった。しかし、真っ黒の「出身」である僕にも、ようやくあの国旗の一角と言われている赤いスカーフを首につける日が来た。学校のトイレ掃除をさせられても、「紅領巾」に入っている先輩の子供のお説教を聴かされても、また、何回も思想報告や申請書を書かされても、いやとも言わず、黙々とこなしていたためだろうか、許された理由は今となってはわからないが、「時刻準備着!」、入隊宣誓の言葉は、今でも時々思い出す。授業でも、時折、紹介したりしているが、僕は始めてその言葉を口にした日、天にも昇る思いだった。

    少年の面影は、文革の嵐と共に過ぎ去り、やがて僕も大学生となった。政治とは関わりの少ない理科系を受験したが、7点の差で敗退。浪人するか文系に行くかの二択を迫られたが、受験のための勉強がいやになったので文系に行くことにした。天津外国語学院に入り、母の故郷の言葉を専攻した。そうして日本語を習い始めて、しばらく経ったある日、唐突に「塩拿脚」の意味がわかる日が来た。

   「いやになっちゃう」だったのか.

   両親や兄弟から遠く離れ、未知の地で革命の洗礼を受けて苦悩していた母の思わずつぶやいた言葉。この言葉にどんな思いが込められていたのだろう。

   時折、異郷で、異国の言葉をつぶやくことで、心の平静を取り戻そうとした母の当時の心境を想像してみたが、しかし、どんないやなことがあったのか、なぜ独り言を口にしていたのか、母に確かめもせずに今日を迎えた。

   今となっては、再び尋ねようとは思わない。母と同じように、僕も異郷で毎日を送っているため、少し分かるような気もするし、また、決して分からないのかもしれない。父と穏かで静かな老後生活を送っている母にとって、それはもう過ぎた昔のことであるだろう。

   「あった…あった…」と清海が、また独り言を言い始めた。

   彼にとって、それは意味のない不思議な音でしかないのだろう。しかし、こちらには日本語の「有った」と聞こえる。何があったのだろう。彼はいったい何を見つけたのだろうかと想像してみるが、緑の木々のざわざわという音に、いつかまぎれてしまう。幼い息子の独り言も、母の独り言も、不思議な音の響きを僕に残して、新緑の風の中に流れていった。