散歩(2)

 

 「散歩」を辞書で調べてみると「随意走走」となっていますが、目的のある散歩と目的のない散歩があるように思える。

 健康のため、ダイエットのため、語り合うため、時間潰しのための散歩も楽しいし、ふらっと出かける散歩もなかなか趣きがあると思う。

 先日、授業で夫婦で電車に乗って都内へ行き、公園や道を散策するのが趣味だと話した同学の幸せそうな顔を思い出し、家内と何の計画も立てず、ただ散歩に行くだけの目的で家を出た。

 短パン、Tシャツという格好でリュックを持たずに出かけたが、今まで行かなかったところをブラブラしながら、前へ進む。閑静な住宅街を通った時、綺麗な花に目を取られ、思わず近付いた。見てみると、ピンク色の花びらに小さな蟻が黄色の花心へ歩いているのではないか、思わず虫眼鏡を取り出そうとしたが、ポケットには小さなデジカメしかなかった。何か失われたような虚しい気持ちを少しでも癒そうとして、慌てて蟻の姿をレンズに納めた。その蟻も「他郷遇故知」の如く、懐かしそうに私を見てくれているよう気がした。一陣の風に揺られて、花は意地悪そうに面会時間の終了を告げ、蟻もどこかに帰っていった。

 家内と話しながら、昔の療養施設である森へ足を運ぶ。幹の太い櫻の樹が天を支えるほど高く聳えて、空気の中で先のアスファルトの道と明らかに違う秋の香りが鼻に広がり、全身に伝わっていく。突然、規則正しく繰り返す鳥の鳴き声が聞こえてきた。音源を捜したら、鳥ではなく、スピーカであった。何のために流しているのか分からないが、綺麗な人工的な鳥声ぐらいなら、静寂のほうが樹はきっと喜ぶだろうと思った。

 しばらく、歩くと老人ホームを通ったが、鳥の声がして「喜鵲」のようなしっぽの長い鳥を見かけた。もちろん「喜鵲」を見るとよい運が来るという言い伝えがあるのだが、それよりも(自然な)本物の鳥声が聞こえて、ほっとした嬉しさが感じられた。

 どれだけ歩いたか分からないが、道を迷って、バス停の地図を見るとバスで隣の駅に行ったほうが速いと分かった。バスに乗って降りたら、スポーツセンターの前だった。家内が見学して、よかったら入会したいと言い出したので、一緒に見学もした。

普段なら、何となく過した日曜日だが、散歩のお陰で、家の近所を探索できたし、家にいる時より二人で沢山話しあった気もした。第一、動きの鈍い「太太」が運動する気になるまで言い出して、正に「怪我の功名」だった。

家族や友人との散歩も楽しいが、一人での散歩も面白い。

後楽園駅から学校まで10分もかからない道は私の散歩道だ。と言ってもただ学校に来る途中の道だが、飯田橋駅からより静かで緑が多いため、学校に来る時、後楽園から行くようにしている。

駅を出て、歩道橋を下りて、右には真っ直ぐな歩道が伸びていく。歩道の右には車を往来する道路があり、左には後楽園を囲む白い外塀である。道路と歩道の真ん中には街路樹が直立不動に立っており、一方、園内の木が外へ伸びており、優しい曲線を描いて、街路樹の直線に繋げ、緑のトンネルと作っている。道路から車の走る音がするが、一方では蝉の鳴き声や鳥の鳴き声が耳に入る。しかしながらその道を歩くと何故か大自然な声しか耳に響かず、現代文明の象徴でもある車の行き来は無声映画のようだ。

塀の角を曲がると、小さな道が続く。二人すり違ってやっと通る幅で、いくつかのS型が続いた小道である。少し道路から離れたためなのか、自然に「曲径通幽」という言葉を浮かべさせる。その幽玄な小道を通る度に、心が庭園のほうへ傾き始めるのを覚え、心も緑になっていくような気がする。

「草木みなものいうことあり」、道端の小さな草や花が私の足を留め、公園の塀より頭を出している楓は私の心を大自然に誘う。春の滴る緑、秋の燃える赤は幾ら見ても飽きない。紅葉の季節になると、風の向きにより、母なる大木の元に帰れず、塀の外に落ちている落ち葉は哀愁を感じさせずにいられない。

落葉舞ふ帰れるやはて風の向きただ待つばかりの母の懐

「ものいうことあり」ものは草木だけではない。塀の下の部分で再利用された江戸城外堀石材は歴史の重みを厳かに語られているような気がする。新しい外壁の白は段々深みが増しており、渋い瓦は柔らか丸みを帯びて、波打っている。

 S型の小道を歩きながら、よく「胡思乱想」するが、Sについて考えたことを挙げてみよう。

DNA螺旋状、太極のマーク、山の登山道、そうそう、後楽園(先楽園?)のジェットコースタ…そして、思想、思考、思郷、思念、志気、刺激、試練、詩情、至福など言葉の頭文字もSである。

 先日は、「折り返し地点」を迎えているという学生のメールを読んで「折り返し地点」はどこにあるのか考えさせられた。今年で45歳となった私は、90まで生きる欲望と体力がどう見てもなさそうなので、「折り返し地点」がどんどん遠ざかって行くような気がするが、しかし、最近は、人生の「折り返し地点」は、実はいくつもあり、誰でも「S」のような道を辿っている。時々「折り返し地点」を曲がり、後ろを見ながら、ゴールに向かっていくのではと思えるようになった。

 そして、あの最新型のジェットコースタを横から見れば、やはり「S」のような曲線となっているように見えるが、その上げ下げは、バイオリズム曲線のように繰り返している。自分が見える部分、見えない部分、又、人が見える部分、見えない部分、そういう様々な断片は「縁」という接着剤で繋がっているような気もする。

 散歩って、実に楽しい!「無為の為」の散歩は、天からの賜物である。