夕暮れのそよ風に舞う芭蕉の葉団扇となりて涼しさくるる



    雨上がりの道を歩いていたら、芭蕉の木が目に飛び込んできた。生きている芭蕉の葉を見たのは初めてだった。近くの幼稚園の柵越し。太くしっかりとした幹から伸びた大きな円形の葉は晩夏の夕方の微風に揺られ、傍を通っている人に静かに手を振っているようだった。

離れたところには高く聳える大木。芭蕉の木の下には名の知らない草が茂っている。大木の葉の間から漏れてくる光線が芭蕉の葉の濃淡を浮かび上がらせている。深い緑は思念を呼ぶように陰り、浅い緑は心を和ませてくれる。

夕日の柔かい光をうけ、葉から雫が光を宿しながら音も無く、落ちてきた。昔、芭蕉団扇で涼んでいた庭の情景が目に浮び、その時の涼風に包まれたような気がした。

 故郷の天津では夏の夕方によくにわか雨が降る。千軍万馬の勢いでやってきて、天地を飲み込んてしまう凄さがある。雨が過ぎ去った西の空では夕日が空を赤く染め、ゆっくりと庭に涼んでいる人々に別れを告げる。まるで、日中の耐え難い暑さをもたらしたお詫びでもしているようだった。

庭には晩御飯を早めに済ませた人が集う。片手に大きなお茶の茶碗、片手に芭蕉団扇で、様々な出来事に花を咲かせる。茣蓙を引いて、家族で西瓜を食べている人もいれば、電信柱の下で、トランプに夢中になっている人もいる。なぜ、その下でやるかと言うと、しばらくすると暗くなるので、電信柱の電灯でトランプのゲームを思う存分楽しみたいからである。

 「析曾笥嗽肇埃氏阻。」誰かの声で、共同ベランダに座っている人は一斉に下を見る。

 庭の大門のほうから、老夫婦が手を組んでゆっくりと歩いてきた。老婦人は金絲鏡(細いフレームの眼鏡)をかけ、清楚な身なりで、老紳士はステッキを手に堂々とした風貌だった。二人の帰宅で暑さに煽られた庭の賑わいが幾分弱まって、一陣の涼風が吹いてきたようだった。私はベランダの端に座っていて、祖父母を見ていた。人の視線を全く気にせず、歩いている姿を見て、少し恥ずかしい気もしたが、誇りにも思えた。

 おばあちゃんは文革時代の価値観で言えば、間違いなく出身が悪い。少女時代に私塾にも通っていたし、結婚した後、使用人を使っていたことがあったそうだ。昔の生活について、多くは語ってくれなかったが、残っているアルバムを見れば、暮らしぶりは想像つく。写真があっただけでも、羨ましがられている時代に父と叔父を日本に留学させるぐらいの裕福な家庭の奥様だった。父が留学帰りに何人かの友人と一緒に天津に残るように引き止められたので、おばあちゃんは湖北省の武漢から天津にやってきた。訛りがひどくて、最初の頃、隣近所の天津の人とはほとんどコミュニケーションが取れなかったが、なぜか、日に日に周りの人の聴解力がどんどん上がってきた。おばあちゃんはお喋りだったのだ。

 僕の生家は宿舎のような作りで、台所、洗面所、トイレは皆共同だった。周りに住んでいる人は、昔遊女をしていた人から町工場の女工、国営会社のお偉いさんまで様々であった。おばあちゃんは結構「串門」(他の人の家にお邪魔して、世間話をすること)もして、天津の人と仲良く付き合っていた。昔の生活と比べて、大分違っていたが、「比上不足、比下有余」「不要身在福中不知福」という言い回しをよく口にしていた。

 しかし、まったく同化されたわけでもなかった。その一つは月に一回おじいちゃんと「鴻葉」というレストランでデートを楽しんでいたことだった。「鴻葉」はバスで二十分ぐらい離れた市の中心街の路地にあり、賑やかな表通りとは打って変わって、静かな、品のいい南方料理の店だった。当時は外食と言ったら、正式の宴会、誕生日のお祝いぐらいで、月に一度はちょっとした贅沢だった。二人がレストランでどんな会話を交わしていたかわからないが、その南国の雰囲気が漂っている店で、昔食べたことのある料理を口にすることは異郷でのストレスを癒してくれたに違いない。二人は帰りにいつも私たちのために料理一品と叉焼饅頭を持って帰ってきた。僕にとって特別なご馳走で、祖父母に慈愛の眼差しを感じながら、食べるのが幸せだった。

 おばあちゃんの料理もとても美味しかった。食材の極めて乏しい時代で、あの手この手を使って、家族のためにいろいろ工夫をした。母は横浜生まれの広東人で、実家が料理屋のため、料理は上手なのであるが、仕事を持っているので、食事はほとんどおばあちゃんの役目だった。家の料理は南方系だった。天津の人の主食は小麦を中心であるのに対して、家はお米が主食だった。当時は、配給制で、小麦粉、お米、トウモロコシなど、一定の割合で配給されていた。最初は天津の人と物物交換していたが、その内、「波祉発」(外国からの送金額に合わせて、もらえる特別購買券)で買えるようになり、お米なら不足しなかった。お陰で、南スタイルの食生活は変えずに済んだ。

 僕は小学校に入ってからようやく毎日吾家で食事できるようになった。その前は週に一度しか家に帰れない。「長托」(長く幼稚園に預けたままにする預け方)生活を送っていた。僕は一人っ子で、祖父母と一緒に暮らすと甘やかされかねないという理由で、幼稚園に寄宿させた方がいいと父母が決めたそうだ。唯一の孫なので可哀相だと反対したが、結局息子夫婦の決定に従ったそうだ。周りの人には大分不思議がられていたようだが、僕にとっては、友達がいっぱいいる幼稚園も楽しかった。

 小学校の授業は午前か午後の二部制だった。もともと学校が多いわけでもななかったし、文革の混乱もあり、そして、ベビーブームも手伝って、二つの学年の児童が同じ学級に入ることになったためだった。学校は近いので、食事は家で食べるのが普通だった。晩ご飯は父の帰りを待って一緒に食べるようにしていた。おばあちゃんはお嬢さん育ちなのに、なぜあんなに料理が上手なのか未だに謎だったが、とにかく美味かった。夕飯の仕度を美味しく、過不足なく、しかも食べ残りがないようにするのがなかなか難しかった。冷蔵庫のない時代では、おばあちゃんは並なみならぬ知恵で乗り切っていた。

 ある日、おばあちゃんが怪我をしたので、僕がご飯を作る羽目になった。おばあちゃんは傍で、野菜と肉の切り方から、作る順番まで細かく指示した。お陰で、何とか料理のようなものが出来上がった。自分の舌は拒絶反応を起し、なかなか喉を通らなかったぐらいまずい料理だった。しかし、おばあちゃんを始め、一家は美味しそうに平らげてくれた上に悲しいほど誉めてくれた。その日は、いつもより早く食卓を離れ、自分の部屋に戻った。その料理のまずさと誉めながら食べてくれる家族の愛情に混乱し、耐えられなかった。

そして、僕は文句一つも言わない家族のため、少しはましな料理を作ろうと決心した。

 その後、おばあちゃんが食事を作るとき、よく手伝うように心がけ、注意深く観察するようにした。料理の切り方一つで味が変わり、火加減や塩加減によっては、千差万別の味わいが生まれる。その変化に富むプロセスに心引かれた。一家の料理を作るのは大仕事なのに、おばあちゃんはいかにも楽しそうにこなしていた。僕の料理好きもおばあちゃんの遺伝子がそうさせたに違いない。時々、僕は自分から作りたいと言って作ってみた。おばあちゃんは傍に座って、僕が指示をほしがっている時だけ、的確に出してくれた。僕は気分によって、料理を少しずつ違ったやり方でやりたがったが、自分のやり方と違っても、あまり干渉しなかった。どんなものができても、美味しいと誉めてくれた。家族は僕の最高のお客さんだった。

 食事の後、おばあちゃんは芭蕉団扇を持って、共同ベランダか隣の家にお喋りに行く。僕は庭に遊びに行くか、自分の部屋に戻って、宿題をやるか本を読む。寝る前に、洗顔をして、足を洗う。当時、お風呂は、租界地にある館に住んでいる幹部の家か、ホテルにはあるが、一般の家庭では洗面器と「洗脚器」でお風呂代わりにするのが普通だった。おばあちゃんは綺麗好きで、毎日必ず足を洗うようにしていた。一時期、おばあちゃんは腰を痛めたので、僕は「洗脚」の手伝いをしたことがあった。おばあちゃんの足はとても小さかった。所謂、纏足の足だった。三寸金蓮という言葉は当時知らなかったが、足の指の部分は尖っており、普通の人の足の半分ぐらいの大きさだった。痛いかと聞いたことがあったが、もう慣れてきたと答えた。小さい時、大きくならないよう、しかも形を整えるため、毎日長い布で足を巻きつけられ、とても辛かったと言った。男性社会の犠牲とも言われているこの纏足は当時いい女の条件だった。自害行為とも言えることをしてまで、美を追求する凄さは、他の国の女性に少しも劣っていない。その小さな足に潜まれた神秘と蓄積されたエネルギーは女性の我慢強さの源のようでもあった。

 その日、おばあちゃんの足を洗い終わり、お湯を捨てようとしたら、電気が突然消えた。当時は停電は日常茶飯事でした。おばあちゃんは慌てる様子もなく、蝋燭を点して、そして「馬灯」を廊下にかけるように僕に言った。仕事帰りの人や夕涼みから帰る人のためだった。先日、父から「朝夕暗いうちは家の前の階段の電気をつけることにした。これは母の真似で、この行動でわが母を記念。ささやかながら、善事だと自負」というメールが届いて、その頃のことを思い出した。

 部屋に灯された蝋燭の灯火は、ほのぼの揺れる。父はバケツに漬かった西瓜を出した。何度も取り替えた水道の水で冷やした西瓜はひんやりしており、蝋燭の光りの下で食べると一段と美味しく感じる。父は日本での習慣で西瓜に塩をつけて食べるが、友達の家ではお砂糖をつけて食べる人もいる。

 おばあちゃんの部屋は南向きで、時にはおばあちゃんの部屋に茣蓙を引いて、寝るときがある。その日は、僕はおばあちゃんの部屋で眠りについた。おばあちゃんの芭蕉団扇から送られてきた涼風に吹かれて。