累?不累?

「疲れたは、中国語で何というのですか。」

それは夜間のクラスで、発音練習が一段落し、「休息、休息。」と言った時のことだった。その日は練習もよくでき、合唱の練習のような発音練習の心地よい余韻を感じていたのだが、その言葉はまるで、オーケストラの演奏が終わって観衆に挨拶をしようとした途端、銅鑼か何かが落ちてガシャンと音をたてたかのように、意外に感じられる言葉だった。「疲れた」だって?全くなんてことだ。

 「疲れたなんて、マイナスの暗示をかけないほうがいい」等と、もっともらしい理由をつけて、その時は「疲れた」という中国語を教えなかった。

 例えば富士山に登ったらひどく疲れるが、しかし山頂での感想が「疲れた」だなんて、寂しすぎるではないか。「いい景色だ」とか「今日はよく頑張った」とか、他にいいことがいろいろあるではないか。

しかし、帰りの電車の中で、教室での出来事が妙に心にひっかかっていた。体中の骨が引き抜かれたようにぐったりと着席している人を前にして、なんとなく言葉の連想ゲーム「胡思乱想」を始める。

 まず、電車の中にある「累」の群を観察してみる。会社やお店を走り回り、疲れて電車で眠る人々、荷物棚に無造作に置いてある破裂しそうな鞄の群、鈍い痛みが残る肩の波、ショボショボしているウサギのような目・・・なんて寂しい風景だ。

しかし、ガイド試験という難関を突破した後の「累」だってあるではないか。茶室で茶を立てた後の清清しい「累」だってある。ふと、そんなことを思いながら疲労の中に沈んでいる自分を意識した。朦朧とした頭の中に「累」のもう一つの発音が響いてくる。「累lei3」、累積の「累」である。これはなかなかいい響きだ。この発見に気をよくして連想ゲームを再会すると、言葉は次々に頭を駆けめぐる。経験、知識、見聞、見識、知恵、胆識…。

「累」というレンガは、重くて肩こりを引き起こすが、これを積み上げていけば、それは大きな階段となり、いつしか楼を築き、黄河を臨む見晴らしに至ることもあるだろう。疲れることの積み重ねの先に素晴らしい世界が広がる。

マラソンやジョギングを経験した人なら、「仮疲労」というのを体験したことがあるだろう。走っている途中、非常に苦しい時期がやってくるが、それに耐えてしばらく行くと、ナチュラル・ハイの状態になり、大変爽快な気分が味わえる。何か学ぶ時にも、「累」をコツコツ積み上げていけば、どこかでその「仮疲労」がやってくるかもしれないが、疲労を乗り越えて続ければ、心地のよい涼風に包まれ、足も軽やかになり、ゴールのほうから自分の方へ近づいてくるに違いない。

酸甜苦辣のスパイスがあってこそ、人生はおもしろい。空腹の後の食事が滋味豊かなように、苦しみは喜びを倍にしてくれる。「累lei4」は「累lei3」へと姿を変えて、豊かな実りをもたらしてくれるのだ。

「三人行必有我師」という言葉がある。その質問した石井君という学生は結果的に沢山のことを考えるチャンスを与えてくれた。「鶴の恩返し」ではないが、次の日にクラスで「疲れた(我累了)」と「累積」の「累」を紹介した。

その日から2ヶ月ほど経ったある木曜日の夜、石井君は大きな旅行鞄を持って教室に入ってきた。「これから旅行?」と尋ねると、空港から家に戻らず直接教室に来たと、いつも疲れを感じさせない笑顔で彼は微笑んだのだった。

                     「累得軽松 
          累得愉快 
          累得碩果累累 
          累得難以忘懐」