麻    雀

「さすが焼鳥好きな国だ。」あちこちで「麻雀」と書かれた看板を見て早合点した僕は、日本人の友達の前で大恥を掻いてしまった。

 それは十数年前のこと、麻雀発祥の国に生まれた私だったが、麻雀には暗かった。ゼミの先生に「胡君、社会勉強をしなくちゃ」と言われ、半強制的に雀荘に連れられて、生まれて初めて祖先伝来の文物に触れたものの、以後二度と「パイ」に手を伸ばすことはなかった。

 僕にとって、「麻雀」は「大脳門」という綽名を持っていた正真正銘の鳥の「麻雀(ma2 que4)」に他ならない。雄か雌か分からないままあの世に飛んでしまったのだが、そのやんちゃな性格から判断するとどうも雄のようなので、便宜上「彼」にしておくことにしよう。

 「彼」が家に来た時は、僕が六、七歳の頃だった。隣のおじさんが孫のために雀の雛を何羽か捕まえて持ち帰ったのだが、その中に、彼はいた。ツルんとした体を震わせ、大きな嘴を開けている雛たちの中、そいつだけは、羽も生えそろい、暴れていた。「こいつは飼っても、人に懐つきそうにないから、放してしまおう」とおじさんは言ったが、僕はそれを譲ってもらうことにした。

 さっそく祖父に鳥籠を買ってもらい、中に入れたが、「彼」はもらった餌に見向きもせず、羽をバタつかせ、柵に何回も頭をぶつけた。このままでは死んでしまうのではないかと心配だったが、祖父は「大丈夫。疲れるまでほっとけばいい。」と言ったので、少し安心した。しばらくして、「隣の子の雛を持って来て」と祖父に言われたので、そのとおりにした。すると「彼」は雛の鳴き声を聞いているうちに段々とおとなしくなり、表情も柔らかくなってきた。「鳥語」を知っている人がいると聞いたことがあるが、その時、鳥たちの間で交わした「鳥語」は、何だったのだろうと思わずにいられない。

 どれぐらい時間が経ったのか覚えていないが、「彼」は、暴れては静かになるということを何回か繰り返していた。普段あんなに優しい祖父が、この時に限って、「まだ餌をやってはいけない」、「うとうとしたら、起こして寝かせないほうがいい」などと理不尽な指令を出した。僕は可哀想だと思いながら、祖父の言うことを忠実に守った。そのうちに「彼」が僕を見る目つきは日に日に友好的になり、触っても嘴で突っついたりすることもなくなってきた。「彼」はようやくあの鳥籠を自分の住処だと認識したようだった。

僕が鳥の鳴き声を真似してみたら、答えたりもした。「鳥語」を知らない僕は、自分が彼に言っていることの意味も分からぬまま語ったが、「彼」には確かなメッセージが伝わったらしく、時には歓喜と思われる声で答えてくれた。

 「彼」の羽毛は、次第に色が濃くなり、鳴き声も大人っぽくなった。しかし、額を籠の柵に激しくぶつけたため、毛は抜けたままだった。生まれつき額が広い僕に似ているため、「お前の鳥もお前に似ているね」とからかわれ、「彼」も「大脳門」(da4 nao3 men2)というあだ名で呼ばれることになった。祖父は幾つかの芸を「彼」に教えた。「大脳門」は自分で鳥籠のドアを開け閉めするとか、占いのカードを引くような手品も覚えた。

 そんなある日、隣の子の雛は、粟の餌を食べ過ぎて、空を飛ぶ前に魂があの世に飛んでしまった。虫の知らせなのか、その時、「大脳門」はしばらく元気がなかった。やがて、観念したらしく、一人っ子の僕の掌で静かに眠ったり、時には肩にのって、心地よい鳴き声で鳴いていた。

 ある日の深夜のこと、数名の紅衛兵が突然家に現れた。「抄家chao1 jia1家宅捜索兼略奪)」に来たのだ。後で聞いたところによると、父の友人が批判大会などの苦痛に耐え切れず頭がおかしくなり、日本から帰国する時、父と銃を一丁ずつ持って帰ってきたと自白してしまったためだった。もちろん事実無根で、探しに探しても、ないものは出ない。僕は毛布にくるまって震えながら、その様子を見ていた。「大脳門」も寝なかった。普段は自分で鳥籠のドアをあけ、僕のところに飛んでくるのだが、その晩はじっと室内を見つめて、死んだように動こうとしなかった。紅衛兵は何十枚かの写真と手紙を戦利品として没収し、表情一つ変えぬ父を連れて、残念そうに家を出ていった。

その日以来、僕と「大脳門」の絆が一層強くなったよう気がする。僕が宿題をする時、彼は首を傾けて眺め、僕が暗記をする時は、リズムに合わせて鳴いたりもした。何か悩みがあった時は、僕の話を静かに聞いてくれていたので、今風の言い方で言えば、癒し系の友だちだったのかもしれない。

「大脳門」は大変きれい好きでお風呂に入るのが好きだった。お風呂と言っても、ちょっと深めのお皿に水を入れたもので、バタバタと楽しんでいた。好奇心旺盛な彼は散歩も好きだった。僕の友達に向かって鳴いたり、ある時は、にわとりにまで挨拶してしまい、つつかれて、死にそうになったこともあった。しかし「喫一塹、長一智(chi1 yi2 qian4zhang3 yi2 zhi4(失敗することで学ぶ)」の如く、段々分別が付くようになり、時折、籠から放してやると、襲われないよう木の枝に止まって、にわとりを嘲笑うような仕草で鳴くことすらできるまでに成長した。

友達に鳥籠を持ち、下で待っていてもらい、僕が10メーターぐらい高い共同ベランダで口笛を「ちゅちゅ」と吹くと、「大脳門」はちゃんと下から飛んで来てくれる。最初の時は、直接ベランダに到着できなくて、二階に住んでいる陳おばあさんの窓に臨時着陸してから、再飛行に挑んだ。その健気な姿は、僕の目には鷹のように逞しく見えた。今も、苦しいことがあると、陳おばあさんの窓で休んでいる「大脳門」のことを思い出す。彼は、訓練を重ね、とうとう二人で航空ショーをするまでに成長したのだった。もちろん、二階の窓などには寄らない直行である。

「大脳門」との別れは、祖父(「爺爺!」参照)が亡くなって間もなくやってきた。

いつも自分で鳥籠に戻っていたのが、夜になっても戻らなかった。「鳥語」を真似して呼んでみたが、祖父の寝ていたベッドの下で微かな声がしたような気がした。そのうちに出てくるだろうと思って、寝てしまったが、次の日も、鳥籠に彼の姿はなかった。慌てて、ベッドの下を探すと、箱と箱の間の狭い通路で、「大脳門」は硬くなっていた。その通路は狭いことは狭いのだが、無理に向きを変えようと思えばできるし、後ろへ下がろうと思えば出られたはずだった。しかし、「彼」は前進しか選ばなかった。きっと。「彼」は前進しつづけ、自分の一生に「。」を打ったが、僕には「!」、「?」と「…」が残った。

「麻雀雖小、五臓倶全(ma2 que4 sui1 xiao3, wu3 zang4 ju4 quan2)」と言われているが、「大脳門」にも魂があったと信じたい。「寧死不曲(ning4 si3 bu4 qu1)」の魂だ。あれから何十年も経ち、彼のことを覚えている人も少なくなったが、僕には、今も、彼のことが懐かしく思い出される。大脳門は、幸せな人生を送っただろうか。いつかまた生まれ変わっても、僕の大切な「大脳門」でいてくれるだろうか。