お手本
ある日、詳細な生け花の解説書を見ながら花を生けた。形はそれなりにできたが、花に魂が入っていない。これは自分にもわかった。
翌日、先生と先輩のいる教室で同じ花材を使って、生けてみたが、不思議なことに前日生けたのより、花は幾分か生気が宿っているような気がした。先生に見ていただくと、日本的になってきたと褒められ、「ここはもう少し」とおっしゃられて、一箇所直していただいたところ、見違えるほどよくなった。花が私に声をかけてくれそうなほどに表情が出た。不思議なことだ。先生の手を通じて現れた日本文化の繊細さ、そして奥深さに心を打たれた。
私は料理を作るのが好きだが、お手本と称する料理本を見ながら、全く同じように作った料理は今一つ冴えなかった。一番褒められた料理はやはり、昔、祖母に手をとり足とり、教わった料理と、料理本を参考程度に見て、祖母の伝授を守りながら、自分なりにアレンジした料理だった。私の料理が美味しいかどうかは別として、料理好きになったのは祖母のお陰で、料理本の細かい説明を読んだからではなかった。
材料があれば、調理法が細細と書かれていようがいまいが、腕のあるコックなら、舌鼓する、きちんとした料理をテーブルに並べることができよう。
教科書編集作業をしながら思った。日中学院には、調理本に頼らず腕を振舞うコックのような先生はいくらでもいる。それぞれの持ち味を出せる、「色香味倶全」の料理を作れるコックのようなお手本先生が。自分もそのような先生に少しでも近付こうと努力しなければならないと決心を新たにした。
先日、学生と一緒に「隋園別館」(本館がないのはミステリアスだが)でクラス会をした。ウエイターが綺麗な「春餅裁き」で、食べ方を説明してくれた。もちろん、彼は食べ方の説明書を読んでいないし、客のほうも説明書を持っているわけでもないが、学生は聞いたとおりに、それぞれ春餅に「甜面醤」を塗り、アヒルの皮(なぜ日本では北京ダックは皮しか食べさせてくれないかも謎だが)やキュウリ、葱などを入れて巻いて美味しそうに食べた。また、違う食べ方で味わいたいとチャレンジ精神旺盛な人も出てきて、実に楽しそうだった。