停 電
二月ほど前、アメリカ・カナダで大停電があった。このニュースを聞いた時、心が妙にざわつく感じがして、三十年余りも前のことを思い出した。
文革時代、天津市内のとあるアパート、135号大院もよく停電していた。ただニューヨークの停電と違うのは、誰も慌てる者などいないということだ。電力不足の停電は日常茶飯事だから。
停電となると、一瞬、沈黙が訪れる。沈黙を強いられる時代にあって、その沈黙だけはどこか心地よく、しばしその静寂を楽しむように誰も動こうとしなかった。しばらくしてから、父がいつもの親指ほどの太さの赤い蝋燭を取り出し、何回も擦ってやっと火がつくマッチでそれに火を点ける。
窓に目をやると、どの家の窓からも蝋燭の灯火が暖かそうな光が漏れていた。その灯火の中を人の影がゆっくり動く。幾つかの人影がゆらゆらと揺れるうち、それは次第に丸くなって一部屋に集まってゆく。
乏しい蝋燭を囲んで、丸い輪になると、それだけで少しばかり家族の絆が強まったような気がする。祖母の手料理も、暖かく揺れる灯火に照らされ、一層美味しそうに見えたものだった。蝋燭の独特な香りも、食卓の常連である白菜の味を損なうどころか、不思議にうまく引き立てていた。
食事が済んでから、父が影絵芝居をしてくれることもあった。蝋燭の前に手をかざし、狐や犬などの影を壁に映すのだ。それは、今にも飛び出しそうに生き生きと動いて私をわくわくさせた。
「蝋燭だと目が悪くなるから、宿題はやめなさい。」
停電になると、祖父からありがたい恩赦も出る。ただし、毛沢東の詩を暗記するオマケが付いているのは仕方がない。幸いなことに毛沢東の詩には幾つかの過激な表現があるとは言え、今も文才のある詩だと評価されているため、怪我の功名で漢詩が好きになり、幾つかを覚えた。ちなみに日中学院の「校歌」である《長征》もその時のオマケだった。
停電はその時代、日常的な風景だったが、しかし、135号大院の数棟の停電は警察沙汰になるぐらい不可解なものだった。
周りの建物からは、弱いながらも正常に電気の光が漏れているのに、どういうわけか、135号大院の数棟だけが度々停電の不幸に見舞われていたからだった。
その停電の原因は、何を隠そう我一味の仕業だった。停電を起こすと言っても、ブレ−カ−のレバーを降ろすだけの子供じみた悪戯だった。ただブレ−カ−の位置が大人でも手の届かないところに取り付けてあるので、10歳前後の我われは一苦労な作業であった。
我一味は4,5人から成る秘密組織だった。少し背が高く力のあるやつは梯子の役で、軽くて背の小さいやつは肩車に乗ってブレーカーを落とす役だった。私は学校の陸上部にいて、逃げ足も速かったため、いつも梯子の役割を果たしていた。
一度、捕まりそうになり、実行犯を肩に乗せたまま一目散に逃げた覚えがある。もちろん、その日は捕まらなかったが、最後は「善有善報、悪有悪報」、悪行の報いを受けたためか、単に疲れただけなのかわからないが、小石につまづいて倒れ、ひざ小僧が血だらけになった。当然、肩に乗ったやつも鈍い音を立てて地面に放り出された。それは砲丸投げの砲丸のようだった。彼がしばらくの間、僕との共同作業を頑なに拒んだのは言うまでもない。
しかし、我らの悪戯はそう長くは続かなかった。その一件の一部始終が共同ベランダで涼しんでいたおじいさんに見られ、街道委員会のおばさんに通告されてしまったからだ。おじいさんの目がよくなかったため、誰の家のどの子とまでははっきり分からなかったが、先生たちは警察と一緒に家庭訪問をして犯人探しに奔走した。
我われ一味は、残念ながら一枚岩ではなかった。裏切り者が出て、内部から崩壊し、全員、学校の一室に呼ばれた。その上、情けないことに、早く遊びに行きたい一心で、皆、罪を潔く認めてしまった。しかし、その犯行の動機は「好玩」としか言いようがなかった。結局なぜやったのか誰にも分からなかった。停電の後、あちこちの部屋の様子がどうだったかなど、とりとめのない供述を繰り返すほかなかった。
劉おじさんのパンツは花柄だとか、李おばさんの家はお粥ばかり食べているとか、張君は毎日部屋で自転車をピカピカに磨いていたとか、目にした光景をあれこれと並べたてていると、先生や警察の口からは欠伸が漏れ始めた。その戦術が功を奏したのか、それとも、我われ一味のメンバー構成が複雑で、造反派の子も、黒五類の子も入っており、政治がらみの事件とは考えられなかったためか、始末書を書く約束で、我らは自由の身となった。或いは、先生たちが私たちを暖かく見守ってくれたためだったかもしれないが、とにかく大停電事件は大したニュースにもならず、犯人一味は大したお咎めもなく放免されたのだった。
我々は、停電の時に目撃した幾つかの極秘情報も持っていたが、誰も口にしなかった。
それは、例えば、外では他人のように振舞っていた親子が食卓では仲良く談笑していたことだった。つまり、政治的に悪いというレッテルをはられた親がいると、子といえども、親と一線を引いて、自分の政治的姿勢を守らなければならない。外では実際そのように冷淡に振舞うのだが、家では仲良く談笑をしているという、今考えてみれば当たり前のことを、停電の静けさの中で僕らは目撃していた。
停電騒ぎのみならず、悪戯の種を探して歩き回っていた僕らが入手した極秘情報は他にもいろいろとあった。発禁された本にカバーをつけ、そのカバーには流行の書名を書いている人を知っていた。政治的に批判された人の家族が棗や胡桃を批判大会のリーダー格の人に上納し、手加減をしてくれるよう賄賂を渡していることも知っていた。
大人たちは悪い子を捕まえると、余罪はもちろん、芋蔓式に他人の罪まで吐かせようとするものだが、僕たちは告げ口を望まなかった。第一、余計なことを言って、それを追及されたら、拘束時間を無限に伸ばすことになるに違いないことを直感的に知っていた。
今となっては、なぜ停電を引き起こすような悪戯をしたかわからない。
暗闇という非日常に包まれるのは心地よかったし、蝋燭の細い灯火がもたらしてくれる家族の輪は暖かかった。或いは、電気のブレ−カ−を落とすという極秘任務を遂行し、戦争ごっごの夜間バージョンを繰り広げて、スリルを味わうのは無条件に楽しかった。単に反抗期だったのかもしれないし、退屈だっただけかもしれないが、あの時代に戻れるなら、あの時の自分に聞いてみたい。君はなぜそんなことをやったのかと。
「好玩(おもしろい)・・・」きっとあの頃の僕は、戸惑いながら、そう答えるほかないのだろう。「好玩」は「好玩」じゃないか。なぜ「好玩」なのかなんてわからない。暗闇に包まれる瞬間、引き起こされる光景、スリルと達成感、暖かな光、家族の輪・・・言葉で説明しようとした途端、たくさんの真実がこぼれ落ちてしまうような気がする。黙り込んだ僕の脳裡には、停電のわくわくするような光景が一度に駆け巡っている。言葉に翻訳するなんてできそうもない。きっとそういうことなのだろう。