爺爺(いぇいぇ)!

 おばあちゃんは歌うように泣いた。
 普段は声が小さくて、品のいいおばあちゃんがあんなにも感情丸出しに泣くことに驚いた。
爺爺(おじいちゃん)が亡くなった悲しみも、おばあちゃんのその歌声にすっかり吸い取られてしまった。僕はただただこの歌声がおじいちゃんには届かないことが残念に思えてならなかった。

 あの家の息子は口が不自由なんじゃないかと噂されていたほど寡黙な父は、淡淡と葬式の段取りをして、弔問に来た人に丁寧な日本式のお辞儀をした。母はいつものようにテキパキと振るまい、ずっとおばあちゃんのそばにいた。
 おじいちゃんは普段使っていた簡易ベッドに寝かされて、その顔は、幼い私に昔話や神話などを読んでくれているうちにいつのまにか寝てしまった時と少しも変らず、安心感を覚える安らかな顔であった。明日も物語を話してくれるのではないかという気もした。或いは毛沢東語録を持ってきて、「習字の時間ですよ」と優しく声をかけてくれるかもしれないとも思った。

 僕が字を人並みに書けるのは、おじいちゃんに「紅宝書」(毛沢東語録)をさんざん書き写させられたお陰だと思う。今も字を誉められると、おじいちゃんの顔が浮ぶ。字は僕とおじいちゃんを今も繋いでいる。「文革」の頃、大人達は、僕ら子供と同じように勉強が嫌いなようで、本を読ませたり、字を書かせたりはあまりしなかったのだが、おじいちゃんは違っていた。結構本を読んで聞かせてくれたし、読まされたりもした。特に字にはうるさかった。自分を批判する凶器、その時代の「聖経」である「紅宝書」を持ってきて、「これなら、いくら書いても誰にも言われまい」と言わんばかりに私の前に開き、小学生用の習字ノートを渡して、「きちんと書くんだよ」と武漢訛りの標準語でやさしく習字をやらせたが、その言葉には書かざるを得ない厳しさがあった。お陰で、学校に行く前なのに、もうずいぶん沢山の漢字を覚えていた。言葉の意味までははっきり分からなかったけれど、おじいちゃんの説明で大変納得させられた覚えがある。ついには、小学校に行ってから重要だと思われている個所は全部暗記させられたが、習字の時間は楽しかった。いつも何かご褒美が待っているのを知っていたからだ。それは周りの子供の羨ましがる表情だったり、大人達のお世辞だったりした。中でも最も魅力的なご褒美はというと、寝る前おじいちゃんが話してくれる物語、そしてよく書けたら買ってあげると約束してくれた「抜糖」(粘々で、指でのばしたりして遊んているうちに段々堅くなる飴)だった。
 おじいちゃんは昔、ある町の政府で会計の仕事をやっていたし、その上二人の息子を日本に留学させたこともあったので、批判大会の舞台に立つ資格は十分ありすぎるぐらいあって、何人かの友達と会の常連になり、一時期芸能人並みの忙しさだった。温厚なおじいちゃんは批判大会から帰った後、ひどく疲れた様子だったが、誰かの悪口を言ったことはなかった。相変らず「字は練習した?」と聞いてくる。おじいちゃんの大変さと比べて、字を書くぐらいは大したことではないし、しかも、物語も聞けるし、「抜糖」も待っているから、あまり逆らったことはなかった。
 外では、おじいちゃんと会っても、お互いに他人みたいに、相手を避けるようにしたり、見て見ぬ振りをしたりして、あまり挨拶をしなかった。いつそうなったのかは定かではないが、おじいちゃんはあの世に行くまでそうだった。別に人の前で挨拶をするのは決まりが悪いとは思っていなかったが、「界限(センヲヒク)」(境界線をきちんと引く、関係を断つ)したと思われたいためだった。おじいちゃんも同じ考え方を持っていたらしかった。でも、その「界限」(境界線)は家に一歩でも入れば、溶けるようになくなり、「血濃于水(血は水より濃い)という言葉が証明された。
 今にも雨の降りそうな暗い雲のたちこめた日だった。おじいちゃんが何人かに連れられ、批判大会に出かけたのを庭で見た。もちろん挨拶はしなかった。暫らくするとおばあちゃんはおじいちゃんの名前を逆様に書いたプラカードを持って、纏足の小さな足で急いで三階から降りてきた。名前には大きく真っ赤な×印が付いている。それは街道委員会の代表の指示に従って、おばあちゃんが自分でつけたのだった。×印の線はまっすぐではなかった。
 1時間ぐらい経って、にわか雨が降り出し、その後、土砂降りになった。サッカーをして遊んでいた僕は、慌てて帰宅した。家に戻って暫らくすると雨に濡れたおじいちゃんとおばあちゃんも戻って来た。夜はおじいちゃんの咳で目が覚めた。気管支炎の持病を持っているおじいちゃんの咳は普段よりも激しかった。
 次の日も確かまた批判大会に出かけた。今度は、あまり一緒に行きたがらないおばあちゃんも進んでお伴をした。その日から何日も経たないある夜、おじいちゃんの咳が聞こえなくなった。永遠に。
 火葬場の人が担架でおじいちゃんを9平米の家から運び出した時、おばあちゃんの泣き声が一段と高くなり、その声にはオペラの歌手のような迫力があった。「この無情な人、一人で行ってしまった。どうして私を連れて行かないの。」それは誰か見知らぬ人の歌う悲しい歌のようだった。一緒にあの世へ行けない口惜しさのようでもあり、悲しみを越えた静かな鎮魂歌のようでもあり、天国へ行ったおじいちゃんへの祝福の歌のようにも聞こえた。周りにはハンカチで目を押さえている人、うつむいている人、おばあちゃんを慰める人、それに魯迅先生の「藤野先生」という文章に描かれていたような、同胞の死を無表情に見ている人もいた。僕はおじいちゃんと一緒に人ごみを背に、火葬場に向かった。
おじいちゃんがいなくなると、狭かった部屋は急に広々として見えた。

 批判大会はおじいちゃんがいなくても全然困ることなく、いつもの通り行われていた。
 批判大会は様々な人のためにあった。毛沢東に無条件に魂を捧げている人、たまたま司会者になり、何とか会を成功させたい人、自分も危なさそうで、人を批判することによって逃れたい人、生産的にも、創造的にも力を発揮できない人、何もやることがない人、批判することにより一切のコンプレックスを解消したい人、ただの欲求不満の人、ただの野次馬達、そして、たまたま自分か親が「旧社会」(一九四九年、新中国成立する前)に役人、資本家、地主であったりする人、たまたま外国に生まれたり、あるいは外国に親戚がいたりする人、党に愚忠を尽くして身の危険も顧みず忠言を呈した人、会の組織者や司会者の機嫌を損なうようなへまをやったことがある人、教養ぶっているインテリや技術者、教員などなど、とにかく運の悪かった様々な人間の「脱胎換骨」の儀式であった。
 あのたぐいの批判大会はある種の大衆芸能の一つとも言える。新聞を訛りたっぷりの天津弁で、しかも間違いだらけの読み方で聞かされたら、前世の憂いまで吹っ飛んでしまうに違いない。大人の笑う神経は抜群に鈍いか、あるいはその神経の働きをコントロールする力が特に優れているかのどちらかである。斜めに座っているおじさんのベルトからはみ出ているわき腹の肉の小刻みの痙攣に、それが微かに認められることもあった。そうやって押し殺した笑いは人目に見にくい局部に退化していく。
  しかし我ら青二才の子供達はこの大衆芸能に機敏に反応してしまう。稀に「老子英雄児好漢、老子反動児混蛋」(蛙の子は蛙)と批判され、ひどい目にあったこともあったが、しかし、笑うのは我ら黒五類の子だけではなかった。僕はまだきちんと座ったままで笑うけれど、中には、笑いこけて椅子から転げ落ち、泥だらけの足の指を隣の人の茶碗に突っ込んだ上、ドミノの最初の一枚の如く、後ろへ倒れて行く連鎖反応を起こし、笑いと罵声の渦を作った子もいた。しかも、そのヘマな奴は、司会者の子だった。そのおかげで、我々は批判大会から締め出された。
  漫才のような集会を聞けないのは残念だったけど、子供は遊びに忙しい。付き合ってなんかいられない。
  批判大会に出られないことは僕にとってもう一つのメリットがあった。
 時に批判大会の前に立たされている老人がおじいちゃんではないかと錯覚することがあった。ぼんやりとおじいちゃんのことを考えては、結局おじいちゃんがもうここにいないことを思い知らされる、そんな思いをせずに済むということだ。
 おじいちゃんは孫が「界限」を引かなくていいようにあの世に行ってくれた。父がおじいちゃんと「界限」をはっきりさせたかどうかはわからないが、葬式の時には、父はおばあちゃんと正反対に、普段と大して変わらなかった。ただ、おじいちゃんが家から運ばれた時は、火葬場の人に嫌がられるほど、動作がのろかった。父は感情を表に出さない質で、あの時代は、笑うことはめったになかったし、葬式の日も涙を見せなかったが、葬式の次の日の朝、布団を畳んだら、いつものように四時ぐらいに家を出ていった父の枕カバーは湿っていた。
 おばあちゃんは十何年か前におじいちゃんに会いに行ってしまった。僕もいつかおじいちゃんのいるところに行く定めとなっているが、今度、あの世の路上で会った時は絶対に大きな声で「爺爺!」と呼ぶと堅く決心している。絶対に!