
サッカー場
135号大院に立って、一瞬目を疑った。こんな狭苦しいところだったのか。30何年前二十人あまりの少年達が空気の抜けたサッカーボールを奪い合い、走りまわった場所は、周りを四階建ての宿舎楼に囲まれた小さな空き地だった。もともと三階建てだったが、無理やりに積み木のようにもう一階を建てられた。昔の思い出がこの狭い空間に圧迫されて、メモリの少ない頭を駆け巡る。体の他の機能が麻痺状態になるにまかせ、しばらく、この生理的欲求に抵抗しないことにしよう。
ここは僕がこの世に訪れた最初の場所で、産声を上げた初舞台だった。窓のいっぱい並んだ煉瓦の壁の色は少しはあせて、共同ベランダには人影がないが、相変らず何かしらが置かれていて、欠けていたところも修理されないまま、この何十年もの歳月の経過は全く感じさせなかった。セピア色の静止画面のようだ。次第にその画面が動き出し、自分がそこで走り回っている姿が見えてきた。夕方の五時頃だろうか、サッカー試合の最中だ。
サッカーの試合は、午後三時ぐらいから夕飯までの日課になっていた。ファミコン、テレビ、カラオケなどの娯楽のない時代では、サッカーは我ら文革少年にとって、なくてはならない遊びだった。
チームの編成は常に流動的で、ジャンケンで決まることが多かった。その辺にある煉瓦を拾って、ゴールを作り、審判の笛も聞かず(そもそも審判も必要ではなかった)、試合が始まる。
そのサッカー場の真中には電信柱があった。敵がボールを奪いに来た時は格好の障害物だが、味方にボールをパスしようとしたら、なぜかよく電子柱に跳ね返される。ボールが敵のほうに行ってしまったり、自分の体に物凄い勢いで飛んで来たり、場合によっては、味方のゴールキ−パーの頭上、股の下、或いは一直線にゴールに入ったりして、罵倒されたこともあった。まったく不可思議な柱であった。時には、下級生がたくさん参戦した場合など、人ばかりがあっちこっち転がって、本当のボールはどこにあるかも分からないほどだった。今でも、女子高校生がバスケットをやっているのを見て、何か懐かしい気がしてならない。共同ベランダ端にいかにも危なさそうに座っている子から悲鳴のような大きな声援が聞こえる。お喋りしながら、試合を見ている女の子の視線も微かに感じられる。
試合はますます白熱していく。庭にあった何本かの木にぶつかった記憶がある。リーダー格だった徳強という人の額の皺に今にもかすかに浮かび上がっている傷跡はその衝突の激しさを物語っている。
攻防を繰り返しながら、時間が経っていく。試合の始まりの曖昧さとは違って、終わりはいつも何かはっきりとした出来事でやってくる。その何かの中には、ガラスを割られた家の主人の怒鳴り声か、庭の外にボールが飛んでいった後聞こえた急ブレーキの音、ボールの破裂の音、怪我した子の泣き声、或いは「武闘」に行く人を乗せているトラックのラッパの音だった。そして、ベランダや窓から響いてくる「ご飯だよ(chi1fan4le)」という親の合唱でやむを得ず「収兵」する時もある。声が擦れるほど絶唱する親混声合唱団ははぼ毎日決まった時間に公演を行う。サッカーの試合は疲れてやめることはめったになかった。上級生に場所を取られて、バレーボールの応援に回させられることがあったが。
いくら試合が激しくても、大差のついた試合はなかったような気がした。片方が極端に強かった時には、上級生の方は試合を止めて、「勢均力敵」(力が伯仲している)になるように新たにチームを再編成するのが普通であった。勝敗は大事なことだが、好敵手同士の戦いが、選手の競争意識を更に強くさせ、ゲームの面白さが増し、観衆にも最善のプレゼントだというのはその当時の不文律であった。「弱肉強食」の論理とは違うルールで少年たちはサッカーを楽しんでいた。我らは遊びの天才だと今さらながら誇らしい。
ドリブルの技術が優れて、学校のチームに抜擢された子もいた。例の電信柱と何本の木とそして敵の大群などを相手に自由自在にボールを運ぶのは至難の技であった。彼らの足にはボールがくっついているようで、何人もの子がそれを離そうと思っても、一向に離れない。そして、何回もガラスの弁償をさせられた親の戒めを心に刻みながらプレーをしているおかげで、度胸の強さ、観察の鋭さ、、気配りなどのバランスが技術と一緒に磨かれたため、何人もの学校級スターが誕生した。もちろん、手で人を退け、「猪突猛進」するやつもいた。
サッカーをやる時は、学校の宿題だった毛沢東語録の暗記や路上宣伝用の歌の準備などは頭になかった。文革の真最中なのに、政治的な空間も時間も意識せずに楽しんでいる集団が他にあっただろうか。そう言えば、壁に書かれているスローガンなどに思いきりボールを蹴っても、誰にも文句を言われなかった。字が薄くなったら、「街道委員会」のおばあちゃん達が、刷毛で小さなバケツにあるペンキをつけて、また字をなぞって書く。サッカーのメンバーには幹部の子、労働者の子、農民の子、元資本家の子など混ざっており、出身(親の身分)でチームが編成された覚えもなかった。僕は、最も出身のいいと言われている労働者の子にボールを蹴られて、失明しそうになったことがあったが、自分の出身が悪いからやられたとは思わなかったし、またその子の親が子供を連れて、何回も申し訳なさそうに謝りに来てくれた。いつサッカーの試合に復帰したか忘れたが、それ以後、自分がボールを蹴る時は、手加減、いや、足加減をするようになったような気がする。たまには他の棟に行って試合をすることもあったが、帰った後、その試合の好し悪しについて、ベランダに集まって、チョークの粉がすっかりとれた運動靴を洗面器の中で洗いながら、話すのも楽しみの一つだった。
ボールが僕の方に飛んできた。足で止め、蹴ろうとすると 「おじさん、こっちだよ」と一人の子供の声が聞こえた。はっと我に返った。ボールで遊んでいた子供の方へ返した。
なくしかけたパズルのかけらは、こんな古いアパートの片隅にあった。昔のパズルを一つ一つ見つけようと、僕はまた早朝の天津を歩き出した……新たなパズルのかけらに出会える予感とともに……
