安 寧 天 皇
畝 傍 山 西 南 御 陰 井 上 陵
天 皇 名 第 3 代 安 寧 天 皇
あんねいてんのう
御 陵 名 畝 傍 山 西 南 御 陰 井 上 陵
うねびやまのひつじさるのみほどのいのえのみささぎ
御名・異称 磯 城 津 彦 玉 手 看 尊
しきつひこたまでみのみこと
生誕~崩御 ?~安寧38年12月6日
即 位 綏 靖33年7月3日
皇 居 片 塩 浮 穴 宮
かたしおうきあなのみや
御 父 綏 靖 天 皇
すいぜいてんのう
御 母 五 十 鈴 依 媛 命
いすずよりひめのみこと
皇 后 淳 名 底 仲 津 媛 命
ぬなそこなかつひめのみこと
所 在 地 奈 良 県 橿 原 市 吉 田 町
墳 形 山 形
日本書紀によると
《磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまでみのすめらみこと)は、神渟名川耳天皇(かむぬなかわみみのすめらみこと)の太子である。母は五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)といい、事代主神(ことしろぬしのかみ)の少女(次女)である。
天皇は、神渟名川耳天皇の25年に、皇太子となった。年は21歳だった。33年の夏5月、神渟名川耳天皇が死んだ。その年の7月3日に、太子は天皇位に即いた。
元年、冬10月11日、神渟名川耳天皇を倭(やまと)の桃花鳥田(つきだ)の丘(岡)の上(ほとり)の陵に葬った。皇后(五十鈴依媛命)を尊び皇太后と呼んだ。
この年、太歳は癸丑(みずのとうし)。
2年、都を片塩に遷した。これが浮孔(うきあな)の宮である。
3年、春正月5日、淳名底仲津媛命(ぬなそこなかつひめのみこと)(または淳名襲媛〔ぬなそひめ〕という。)を皇后に立てた。(一書はいう、磯城の県主葉江(あがたぬしはえ)の娘、川津媛。一書はいう、大間宿禰の娘、糸井媛。) これより先、后は二皇子を生んだ。第一を息石耳命(おきそみみのみこと)といい、第二は大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)である。(一〔書〕はいう、三皇子を生む。第一を常津彦某兄(とこつひこいろね)といい、第二を大日本彦耜友天皇といい、第三を磯城津彦命(しきつひこのみこと)という。)
11年、春正月1日、大日本彦耜友尊(おおやまとひこすきとものみこと)を皇太子に立てた。弟の磯城津彦命は、猪使連(いつかいのむらじ)の始祖である。
38年、冬12月6日、天皇が崩じた。ときに年は57〔歳〕。》
※《 》内は(原本現代訳39)日本書紀(上) 訳者・山 田 宗 睦 ㈱ニュートンプレスから参照しました
古事記によると
《師木津日子玉手見命(しきつひこたまてみのみこと)は、片塩浮穴宮(かたしおのうきあなのみや)に坐して、天の下を治めた。
この大君は、河俣毘売(かわまたびめ)の兄、県主波延(あがたぬしはえ)の娘阿久斗比売(あくとひめ)を妻として、生んだ御子は常根国津日子伊呂泥命(とこねつひこいろねのみこと)、次に大倭日子鋤友命(おほやまとひこすきとものみこと)、次に師木津日子命(しきつひこのみこと)。この大君の御子たちは皆で三柱で、その中の大倭日子鋤友命が後を継いで天の下を治めた。
また、末の御子師木津日子命には、子が二柱坐して、一人の子と、その孫とは、伊賀の須知(すち)の稲置(いなき)、那婆理(なばり)の稲置、三野(みの)の稲置らの祖である。
また一人の子の和知都美命(わちつみのみこと)は、淡道(あわじ)の御井(みい)宮に坐したが、この方には二人の娘があって、兄(え)の名は蠅伊呂泥(はへいろね)、またの名は意富夜麻登玖迩阿礼比売命(おほやまとくにあれひめのみこと)、弟(おと)の名は蠅伊呂杼(はへいろど)という。
この師木津日子玉手見命(しきつひこたまてみのみこと)の大君の御年(みとし)は、四十(よそとせ)あまり九歳(ここのとせ)で、御陵(みはか)は畝火(うねび)の山の美富登(みほと)にある。》
※《 》内は口語訳 古事記 完全版 著者・三 浦 佑 之(みうら すけゆき) ㈱文芸春秋から参照しました
