皇 子 名 第17代 履 中 天 皇 の 皇 子
磐 坂 市 辺 押 磐 皇 子
( いわさかいちのべのおしわのみこ )
御 墓 名 磐 坂 市 辺 押 磐 皇 子 墓
( いわさかいちのべのおしわのみこ
のはか )
御 父 履 中 天 皇
( りちゅうてんのう )
御 母 黒 媛
( くろひめ )
所 在 地 滋 賀 県 八 日 市 市 市 辺 町



 『 磐 坂 市 辺 押 磐 皇 子 御 墓 』

 『当地に所在する古墳二基は、明治八(1875)年教部省によって市辺押磐皇子(磐坂皇子)・帳内佐伯部売輪(とねりさえきべのうるわ/仲子・なかちこ)の墓に治定され、現在は宮内庁書陵部の管理下にある。
 東側の古墳は墳丘の直径15メートル・高さ3.5メートル、西側は直径6.5メートル・高さ1.9メートルを測り、ともに横穴式石室を有する円墳で、古墳時代後期に築造されたと推定される。

 日本書紀によると、安康天皇三(455)年に天皇が暗殺された後に有力皇子たちの抗争が続き、允恭天皇の子大泊瀬皇子は履中天皇の子市辺押磐皇子を近江来田綿(くたわた)の蚊屋野(かやの)に誘い出して殺害し即位する(雄略天皇)、市辺押磐皇子の二遺児億計(おけ/兄)・弘計(をけ/弟)は雄略天皇の追及を逃れて播磨に潜伏するが、やがて都にのぼり顕宗(けんぞう/弟)・仁賢(にんけん/兄)天皇となる、顕宗天皇のとき、狭々城山君倭?(ささきやまのきみやまとぶくろ)の妹置目(おきめ)の記憶により市辺押磐皇子及び帳内佐伯部売輪(とねりさえきべのうるわ)の遺骨が発見され、この蚊屋野の地に二つの墓が築かれたという。

 これらの記事から、この二つの古墳が磐坂市辺押磐皇子及び帳内佐伯部売輪の墓と安められた。』

** 『 』内は現地説明版を記載 **

参 拝 日 平成14年7月30日(火)
アクセス 近 江 鉄 道 市 辺 駅 よ り
徒 歩 約 18 分

 磐坂市辺押磐皇子は第17代履中天皇の皇子、母は履中天皇妃で葦田宿禰(あしだのすくね)の娘の黒媛である。同母皇子女に御馬皇子(みまのみこ)と青海皇女(あおみのひめみこ / 飯豊皇女・いいどよのひめみこ)がいる。***飯豊皇女は履中天皇皇孫との説もある***

 『日本書紀』によると安康天皇3年冬10月1日、安康天皇は生前、市辺押磐皇子に皇位を継承して後事を託したいと思っていた。その事を知って恨みを持っていた大泊瀬皇子(後の雄略天皇)は、人を市辺押磐皇子のもとへ使わして、市辺押磐皇子を騙して、狩猟をしようと約束し、「近江の狭狭城山君韓?(ささきのやまのきみからふくろ)が『いま近江の来田綿(くたわた)の蚊屋野(かやの)に猪や鹿が多くいる、その頭上の角は枯樹の松に似て、その集まった脚は灌木の株のようだ。呼吸する息は朝霧に似ている』という。願わくは皇子と孟冬(はじめのふゆ)の陰の気を生ずる月(10月)の寒風が万物を厳しくいためる朝に、野に逍遥していささか情(こころ)をたのしませて騎射しよう」と言った。

 市辺押磐皇子は大泊瀬皇子(雄略天皇)に従って狩猟をした。この時、大泊瀬皇子は弓を引き絞って馬を走らせ、偽って「猪がいた」と呼び、即座に市辺押磐皇子を射殺してしまった。帳内佐伯部売輪(とねりさえきべのうるわ / 仲手子・なかちこ)は、市辺押磐皇子の屍を抱き、息をはずませ慌ててどうしてよいか判らず身もだえして呼び叫び、屍の頭の方や脚の方をと行き来していた。大泊瀬皇子は帳内佐伯部売輪(とねりさえきべのうるわ)も殺してしまった。そして同じ穴に埋めてしまった。

 顕宗天皇の元年2月5日、顕宗天皇は詔して「先王(市辺押磐皇子)は、大難に遭って荒野に命を落とした。朕は幼年であり、逃亡して自ら身を隠した。そこで広く御骨を求めたがよく知るものが居ない」と言った。
 この月、もの知りの老人を召し集めて、天皇が自分で一人一人問うた。ある老女が進み出て、「置目(おきめ / 置目は老女の名前。近江の国の狭狭城山君の祖の、倭?宿禰の妹。)は御骨を埋めた所を知っています。よろしければお示ししましょう」と言った。

そこで顕宗天皇と天皇の兄の億計(おけ)は、老女を連れて近江の国の来田綿(くたわた)の蚊屋野(かやの)の中に行幸し、掘り出してみると、はたして老女の語ったとおりだった。穴に臨んで泣き叫び、心の底から言ってさらに嘆き悲しんだ。古より以来(このかた)、このような(ひどい仕打ちへの)恨みはなかった。仲手子の屍と御骨とが混ざって別けることができる者はいなかった。この時、磐坂市辺押磐皇子の乳母がいて、奏して、「仲手子は、上の歯が抜け落ちていました。これによって別けるがいいでしょう」と言った。そこで、乳母(の言葉)によって髑髏(どくろ)を区別したけれども、とうとう手足やあれこれの骨を別けるのは難しかった。そこで、蚊屋野の中に双陵を造立した。


 『古事記』によると、兄弟たちを殺し、目弱王(マヨワオウ)を殺した大長谷命(オホハツセノミコト)だが、すぐには大君にはなれなかった。なぜかと言うと、父(第19代 允恭天皇)の兄弟には御子たちがいて、大長谷命からみると従兄弟になるが、そのうちの男の御子には大江之伊邪本和気命(オホエノイザホワケノミコト)の御子の市辺之忍歯王(イチノヘノオシハオウ)がいた。しかもこの御子は、臣(おみ)や連(むらじ)たちからも好かれていた。それで、大長谷命か市辺之忍歯王かのどちらかが大君を継ぐことになりそうな雰囲気だった。

 そのようなある日、淡海(おうみ)の佐々紀(ささき)の山の君の祖(おや)で、名は韓袋(カラブクロ)が大長谷命に申し上げた。「淡海の久多綿(くたわた)の蚊屋野には、溢れるほどの鹿がいます。その立つ足は野原に蓬が茂っている様、差し上げた角は枯れ松の林の様でございます」と。

 それを聞いた大長谷命は企てが思いつき、狩猟(かり)の好きな市辺之忍歯王を淡海に鹿狩りに行こうと誘った。企てなどとは知らぬ市辺之忍歯王は喜び、二人はともに蚊屋野に至ると、それぞれに狩り小屋を作って宿り、明日の朝の狩猟に備えることになった。
 そして次の朝、まだ日も昇らない前に目を覚ました市辺之忍歯王は狩猟の事しか心にはなく、すぐに馬に乗るとそのまま大長谷命の狩り小屋のそばに行き、大長谷命の伴の者に、「御子はまだお目覚めではないのか、早くと申し上げよ、夜は既に明けたではないか。狩り庭に急がねば」と言うと、そのまま馬を走らせて行った。

 その様子を見ていた大長谷命の伴の者が「おかしな物言いをなさる御子でございます。どうぞ御心を許されぬよう。御体の守りをお固め下さい」と言ったので、大長谷命は狩り衣の下に鎧をつけ、弓を手に矢筒を腰に下げると馬に乗って出て行った。そして、すぐに市辺之忍歯王の馬に追い着いて並んだかと思う間もなく、矢筒から矢を抜いて市辺之忍歯王を射落としてしまった。そして、馬から降りると、すぐにその身体を斬り刻んで馬船(うまふね)に押し込んで土の中に埋めてしまった。塚も作らずに土を平に均した。あっという間の出来事だった。大長谷命は伴の者に言われなくても、はじめから殺すつもりで市辺之忍歯王を狩猟に誘ったのだった。

 袁祁之石巣別命(ヲケノイハスワケノミコト / 第23代 顕宗天皇)は、父の市辺之忍歯王の骨(かばね)を捜し求めていたのだが、ある時、淡海の国に住む賤しい老女(おうな)が参り出て言った。「御子の骨を埋めた所を私はよく知っております。また、御子の骨を見分けるのにはその歯を見れば判ります」と。市辺之忍歯王の歯は三枝(さきくさ)に似た八重歯だったのだ。
 そこで、老女が指し示した所を人を使って掘り起こすと、その言の葉の通りに父の骨を見つける事ができた。そこで、すぐにその骨を集め、埋められていた蚊屋野の東の山に御陵(みはか)を作って葬(はふ)り、韓袋(カラブクロ)の子らを墓守にした。そして、その骨の中から八重歯だけを別けて河内に持ち帰った。

磐 坂 市 辺 押 磐 皇 子 系 図

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