| 天 皇 名 | 第26代 継 体 天 皇 |
|---|---|
| 御 陵 名 | 三 島 藍 野 陵 (みしまのあいぬのみささぎ) |
| 御名・異称 | 男 大 迹 王 (おおどのおおきみ) 彦 太 尊 (ひこふとのみこと) |
| 生誕ー崩御 | 允恭39ー継体25年2月7日 |
| 即 位 | 継体 元年2月4日 |
| 皇 居 | 樟 葉 宮(くずのはのみや) 筒 城 宮(つつきのみや) 弟 国 宮(おとくにのみや) 磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや) |
武烈天皇8年(506)武烈天皇は崩御する、次の皇位継承者は誰になるのか?武烈天皇には皇子はいない、ではと、辺りを見まわしてみると・・・、やはり皇位継承者は居ない。
その理由は・・・、大泊瀬幼武尊が第21代雄略天皇に即位する際に身近に居る皇族をことごとく殺してしまった為なのだろうか・・・。
大和政権を支える豪族内の有力者の一人である大伴金村は周囲の有力者と相談の結果、丹波国に居る仲哀天皇の5世孫である『倭彦王』を迎える事に成った、そこで列を整えて倭彦王を迎えに行くと、驚いた倭彦王は自分を殺しに来たのではないかと怖がり逃げてしまった。
これに困った大伴金村は再び大和政権の有力者等と相談の結果、越前国に居た応神天皇5世孫である『男大迹王』に白羽の矢を立てた、男大迹王も最初は疑い迷ったが河内馬飼荒籠と諮った結果、第26代天皇に即位する決心をした。
| 御 父 | 彦 主 人 王 (ひ こ う し お う) |
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| 御 母 | 振 媛 (ふ り ひ め) |
| 皇 后 | 手 白 香 皇 女 (たしらかのひめみこ) |
| 皇 妃 | 尾 張 目 小 媛 (おわりのめのこひめ) |
| 所 在 地 | 大阪府茨木市太田三丁目 |
| 古 墳 名 | 太 田 茶 臼 山 古 墳 |
| 墳 形 | 前 方 後 円 墳 |
第26代継体天皇に即位した男大迹王であったが、どういう理由からか大和内に『皇居・宮』を営む事が出来たのは、即位後22年経った後であった、長年に亘り大和周辺の樟葉宮や筒城宮を転々とするのである。
それは何故なのでしょうか?
第25代武烈天皇が崩御した事で、『履中天皇系』と『允恭天皇系』の男子皇統は途絶えたと、『記・紀』には書き残されている、
しかし、現実に一人残らず皇統男子が居なくなってしまう事など起こりえるだろうか?第21代雄略天皇には多数の皇統男子は生まれて居ないと言えるだろうか?
そして、それら直近の天皇の血を引く男子を擁立する大和政権有力者等が居たとしたならば、いかに男大迹王が応神天皇5世孫と言えども、余りにも直近の天皇から血縁の遠い継体天皇を擁立する大伴金村等の派閥との対立が起きるのが当然ではないだろうか?その結果、長年に亘り継体天皇が大和に入る事が出来ずに、『皇居・宮』を大和周辺に転々とさせていた理由にならないだろうか?
しかし、正史にはそういう記録は無いのである・・・。
| 参 拝 日 | 平成14年4月15日(月) |
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| アクセス | JR京都線摂津富田駅北口 タクシー約5分 |
即位後22年経ち、第26代継体天皇はようやく大和に入り磐余玉穂宮を営む事が出来た、前天皇の娘である手白香皇女の入り婿になり、その間に生まれた男子を天皇に就けるという形で事は決着したのであろうか?
継 体 天 皇 系 図