| 天 皇 名 | 第49代 光 仁 天 皇 |
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| 御 陵 名 | 田 原 東 陵 (たはらのひがしのみささぎ) |
| 御名・異称 | 白 壁 (し ら か べ) 天 宗 高 紹 天 皇 (あめむねたかつぎのすめらみこと) 後 田 原 天 皇 (のちのたはらのてんのう) |
| 生誕ー崩御 | 和銅2年10月13日 ー天応元年12月23日 |
| 即 位 | 宝亀 元年10月1日 |
| 皇 居 | 平 城 宮 |
天武元年(672)大海人皇子は古代史上最大の内戦と言われる壬申乱において、第38代天智天皇の皇子である大友皇子(第39代弘文天皇)を武力で倒し、飛鳥浄御原宮において第40代天皇として即位する、『天武天皇』である。
ここで皇統は乾いた大地を流れて来た一本の水脈が枝分かれし、片方の水脈の流れが本流と成るかの様に、天武皇統へと確実に進んで行くのである。
しかしながら、時間の流れと共に一本の系統内でも次第に枝分かれが進み、天武皇統内においても骨肉の皇位継承争いは起きてしまった。
| 御 父 | 施 基 皇 子 (し き の み こ) |
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| 御 母 | 紀 橡 姫 (き の と ち ひ め) |
| 皇 后 | 井 上 内 親 王 (い が み な い し ん の う) |
| 夫 人 | 高 野 新 笠 (た か の の に い か さ) |
| 所 在 地 | 奈 良 県 奈 良 市 日 笠 町 |
| 墳 形 | 円 墳 |
天武皇統内での皇位継承争いの結果、第45代聖武天皇の時に天武皇統の皇位継承男子は居なくなってしまう、そして遂には第48代称徳天皇(女帝)は男子を残す事が出来なかった・・・。
事ここに至り、白羽の矢は『白壁王』に立てられた、白壁王は第38代天智天皇の孫であり施基皇子の子ではあるが『天智皇統』である、しかも母と祖母の出自は良いとは言えない、更に今は『天武皇統』の時代であり、朝廷の実力者も『天武皇統』支持者で固まっているはずだ。
その時白壁王67歳である、白壁王は『天武皇統』全盛の中で皇位継承の争い事に巻き込まれないように注意深く行動して来たであろう、いくら『天智皇統』といえども、もしも朝廷内で権力を狙う派閥に担がれれば、必ず火の粉は降り掛かっていただろう。
| 参 拝 日 | 平成14年4月11日(木) |
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| アクセス | 近 鉄 奈 良 駅 北 口 よ り バ ス 奈 良 交 通 バ ス 4 番 乗 り 場 北 野 行 き に 乗 車 し 約 4 0 分 田 原 横 田 バ ス 停 で 降 車 し 徒 歩 約 2 3 分 |
その白壁王が第49代天皇に即位できたのは、これまでの朝廷内での白壁王自身の活躍で得られた実績と、第45代聖武天皇の皇女である井上内親王を迎えられた事、そして何よりも強力な一手は、朝廷内で勢力挽回を図ろうと画策する藤原氏一族の藤原永手に担がれた事のようだ。
しかしながら、朝廷内の政権実力者達の反発はかなり有ったであろう、『白壁王は天武皇統ではないし、出自も良くない』等との意見が朝廷内で議論されたのではないか、そこで藤原永手が出した妥協案は・・・、
白壁王と井上内親王の間に生まれた皇子を立太子させて次期天皇にすると、ならば生まれきた皇子は『天武皇統』になるから・・・・。
光 仁 天 皇 系 図