| 皇 子 名 | 第19代 允 恭 天 皇 の 皇 子 坂 合 黒 彦 皇 子 ( さかあいのくろひこのみこ ) |
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| 御 墓 名 | 坂 合 黒 彦 皇 子 墓 ( さかあいのくろひこのみこのはか ) |
| 御 父 | 允 恭 天 皇 ( いんぎょうてんのう ) |
| 御 母 | 忍 坂 大 中 姫 命 ( おしさかのおおなかつひめのみこと ) |
| 所 在 地 | 奈良県 吉野郡 大淀町 大字今木 |
日本書紀によると、安康天皇3年秋8月9。第20代安康天皇は眉輪王に暗殺された。(安康天皇は大草香皇子を殺し、その妻であった中帯姫を皇后とした。眉輪王は大草香皇子と中帯姫の王子である。)安康天皇が暗殺されたその日に、大泊瀬皇子(雄略天皇)のもとに大舎人が駆けつけ「穴穂命(安康天皇)は眉輪王に殺されてしまいました」と言った。大泊瀬皇子(雄略天皇)は大変に驚いたが、すぐに兄皇子たちを疑い、鎧を着け刀を帯びて自ら将となり兵を率いて八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)のもとに迫り問うた。八釣白彦皇子は大泊瀬皇子(雄略天皇)が自分を殺そうとしていると思い、恐怖して座ったまま押し黙っていたままだった。大泊瀬皇子はそれを見て刀を抜いて八釣白彦皇子を斬り殺した。
そして次に、大泊瀬皇子(雄略天皇)は坂合黒彦皇子のもとへ行き問い迫った。坂合黒彦皇子も大泊瀬皇子(雄略天皇)が自分を殺そうとしている事を知り、恐怖して黙ったままだった。大泊瀬皇子(雄略天皇)はいよいよ怒り、眉輪王を殺そうと思い、眉輪王を弾劾した。眉輪王は「臣(わたくし)はもとより天位を求めず、ただ父の仇を報いただけだ」と言った。坂合黒彦皇子は大泊瀬皇子(雄略天皇)に疑われる事を深く恐れて、ひそかに眉輪王に語り、二人して隙をみて脱出し葛城円大臣の宅(いえ)に逃げ込んだ。
大泊瀬皇子(雄略天皇)は使いをつかわして二人の身柄を引き渡すように求めた。これに対して葛城円大臣は使いをもって返報して「およそ、人臣(じんしん)が事あるとき、逃げて王室に入ると聞いています。しかし、君王が臣(しん)の舎(いえ)に隠匿(かく)れるのを見たことがありません。まさにいま、坂合黒彦皇子と眉輪王とが、深く臣(わかくしめ)の心を恃(たの)み、臣の舎に来ました。どうして二君を送り出すのを忍ぶことができましょうか」と言った。これにより大泊瀬皇子(雄略天皇)は再びもっと多くの兵をおこし、葛城円大臣の宅を包囲した。
葛城円大臣は庭に出で立ち、脚結(あゆい)を求めた。ときに大臣の妻が脚結を持ってきて、悲しみで心を傷つけつらい思いで歌った。
臣であるわが背子は
栲(たえ)の袴を 七重はき
庭にお立ちになって
脚結を撫でておいでです
葛城円大臣は装束の整えもすっかり終わり、軍門に進み跪いて拝礼して「臣(わたくし)は、たとえ殺されてもさらさら命を聞くことはありません。古人が、匹夫でもその志を奪うのはむつかしいと言ったのは、まさに臣に適っています。大王よ、臣の娘の韓媛(からひめ)と葛城の宅(いえ)七区を奉献して、罪をあがなうよう伏して請い願います」と言った。しかし、大泊瀬皇子(雄略天皇)は許さず、火をつけて宅を焼いてしまった。ここに葛城円大臣と坂合黒彦皇子と眉輪王は共に焼け死んでしまった。
ときに坂合部連贄宿禰(さかあいべのむらじのにえのすくね)は、皇子の屍を抱いて焼き殺された。その舎人らは焼かれたのを取り収めたが、ついに骨を選ぶのが難しかった。一つの棺に盛り、新漢(いまきのあや)の槻の本の南の丘に合葬した。
| 参 拝 日 | 平成14年11月12日(火) |
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| アクセス | 近 鉄 又は J R 吉 野 口 駅 よ り 徒 歩 約 23 分 |
古事記によると、第20代安康天皇(穴穂命 / アナホノミコト)は大日下王(オホクサカオウ)の子の目弱王(マヨワオウ)に殺される。この時大長谷命(オホハツセノミコト)は、ヒサゴバナに髪を結ったヲグナ(14歳か15歳)であったと。
大長谷命は、兄の穴穂命(安康天皇)が殺され、殺した目弱王が都夫良意富美(ツブラノオホミ)の家に逃げ込んだ事を聞き、すぐに同母兄の黒日子王(クロヒコオウ)の許に駆けつけて言った。「目弱王が大君を殺しました。どうすればよいだろうか」と。しかし穴穂命(安康天皇)よりも年上の黒日子王は驚きもせず、なにも行動を起こそうとしなかったので、大長谷命は「一つには大君であり、一つには母を同じにする兄弟であるというのに、どうして頼みにする心もなく、己の弟が殺されたと聞いて驚きもせず何もしようとしないのか」と言うと、黒日子王の襟首を摑んで外に引きずり出し、太刀を抜くやいなや斬り殺してしまった。
次に、大長谷命はもう一人の同母兄である白日子王(シロヒコオウ)の許に到ると、黒日子王に言ったと同じ事を聞いた。ところが白日子王の態度も黒日子王と同じだった。そこですぐさま、白日子王の襟首を摑んで引きずり小治田(おわりだ)まで連れて行き、穴を掘り生きたまま埋めてしまった。白日子王は恐怖のあまり、腰のあたりまで土に埋められた時に、二つの目の玉が飛び出してしまい死んでしまった。
二人の同母兄を殺した大長谷命は、自ら軍(いくさ)を興して都夫良意富美の家を囲んだ。そこで、都夫良意富美も軍を興し戦った。互いに射掛ける矢は、まるで沼に生えた葦のごとく乱れ飛んだ。その中で大長谷命は、飛んでくる矢を払うために矛を杖にして前に進み出て、都夫良意富美の家に向かって声をかけた。「吾が契りを交わした乙女子は、もしや、この家にいるのか」と。すると、都夫良意富美がその言葉を聞きつけ、自ら外に出てきて佩いた太刀を腰からはずし、八(や)たび額を土につけながら申し上げた。
「先の日に声を掛けていただいた私の娘の韓比売(カラヒメ)は家の中に居ります。その娘韓比売は、私の持っております五所(いつところ)の屯倉を副えて差し上げます。 しかしながら、私の身は大長谷命様にお仕えする事はできません。理由は、往古(いにしえ)より今に至るまで、臣や連が御子の宮に隠れたということは聞いておりますが、いまだ、御子が臣の家にお隠れになるということなど聞いた事がないからです。 とくと考えてみますと、賤しいわたくし都夫良意富美が力の限り戦ったところで、とても大長谷命様に勝つ事などありえないでありましょう。それは解っておりますが、私を頼みにして賤しい臣の家にお入り下された御子は、たとえ私が死ぬとしても見棄てることなどできるわけがございません」と。
都夫良意富美は大長谷命の軍と戦ったが矢尽き力尽きたので、目弱王にいかに問うた。目弱王は「今は、吾を殺したまえ」と言った。都夫良意富美は目弱王を刺し殺し、己の首をも切って死んだ。
坂 合 黒 彦 皇 子 系 図