皇 子 名第15代 応 神 天 皇 の 皇 子
菟 道 稚 郎 子 尊
( うじのわきいらつこのみこと )
御 墓 名宇 治 墓
( う じ の は か )
御 父応 神 天 皇
( おうじんてんのう )
御 母宮 主 宅 媛
( みやぬしやかひめ )
所 在 地京都府 宇治市 菟道丸山
墳 名宇 治 丸 山 古 墳
墳 形前 方 後 円 墳



日本書紀によると

応神天皇(おうじんてんのう)(誉田天皇/ホムタノスメラミコト)

2年、春3月3日。
   仲姫(なかつひめ)を皇后に立てた。后は、荒田皇女、大鷦鷯天皇(おおさざきのすめらみこと/仁徳天皇)、根鳥皇子を生んだ。これより先、天皇は、・・・(中略)・・・。 つぎの妃の、和珥の臣(わにのおみ)の祖である日触使主(ひふれのおみ)の娘、宮主宅媛(みやぬしやかひめ)は、菟道稚郎子皇子(うじのわきいらつこのみこ)、矢田皇女、雌鳥皇女(めとりのひめみこ)を生んだ。・・・(以下略)。

15年、秋8月6日。
 百済王が、阿直伎(あちき)を遣して、良馬二匹を貢(たてまつ)った。軽坂の辺りの厩で養った。阿直伎に飼うことを掌らせた。それで、その馬を養ったところを、厩坂とよぶのである。阿直伎はまたよく経典を読んだ。太子菟道稚郎子皇子が師した。 
 天皇が阿直伎に問うた、「汝より勝れた博士が、ほかにいるのか」。答えて、「王仁(わに)というものがおります。これが秀れています」といった。そこで上毛野君の祖の、荒田別(あらたわけ)、巫別(かむなわけ)を百済に遣して、王仁を徴した。阿直伎は、阿直伎史(あちきのふひと)の始祖である。

16年、春2月。
 王仁が来した。太子菟道稚郎子皇子が師して、諸典籍を王仁に習った。通達しないものはなかった。王仁というのは、書首(ふひとのおびと)らの始祖である。

28年、秋9月。
 高麗王が、使を遣して朝貢した。そして上表した。その表は、「高麗王が、日本国に教える」とあった。太子菟道稚郎子皇子は、その表を読んで怒り、高麗使を、表の形が無礼だと責め、そくざにその表を破った。

40年、春正月8日。
 天皇は、大山守命(おおやまもりのみこと)、大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)を召しだし、問うて、「汝たちは、子が愛しいか」といった。答えて、「たいそう愛しい」といった。また問うて、「長と少とでは、いずれがいちばんか」といった。大山守命が、答えて、「長子におよぶものはございません」といった。このとき、天皇に不悦の色があった。大鷦鷯尊は、いちはやく天皇の色を察し、答えて「長者は、多くの寒暑を経て、もはや成人となっています。さらに不安はありません。ただ、少の子は、まだその成否がわかりませんので、少の子はたいそう気がかりでございます」といった。
 天皇は大いによろこび、「汝の言うところは、まことに朕の心に合っている」といった。このとき、天皇にはかながね菟道稚郎子皇子を太子に立てようとの情があった。それで二皇子の意を知りたいと欲い、この問いを発したのである。こういうわけで、大山守命の答言をよろこばなかったのだ。

24日。
 菟道稚郎子皇子を立てて、嗣(ひつぎ)とした。同日、大山守命に任して山川林野を掌らせた。大鷦鷯尊には、太子の輔として、国事を執行させた。





仁徳天皇 即位前紀

 41年春2月に、誉田天皇(ホムタノスメラミコト/応神天皇)が崩じた。このとき太子菟道稚郎子皇子(ウジノワキイラツコノミコ)は、位を大鷦鷯尊(オオサザキノミコト)に譲り、まだ帝位に即かなかった。それで大鷦鷯尊に諮って、「天下に君となって、万民を治める者は、天のように覆い、地のように容れるべきです。上がよろこぶ心で百姓を使うなら、百姓もよろこんで、天下は安らかです。いま我は弟です。また知識も賢さも足りません。どうしてそれでも嗣の位を継ぎ、天業に登ることができましょう。大王(おおきみ)は、容姿が幼いときから秀で、仁や孝は遠くきこえ、また年長でもあり、天下の君となるのにじゅうぶんです。先帝が、我を太子に立てたのは、才能があるからではなく、ただ愛しがっただけです。また祖廟や国家に奉えるのは重い事で、僕は不肖で、ふさわしくありません。兄が上で、弟は下、聖なるは君で、愚は臣、これが古今の通則です。とうか、王よ、ためらうことなく、帝位に即くべきです。我は臣となって助けるだけです」といった。

 大鷦鷯尊は答えて、「先の皇は、『皇位は一日といえども空にすべきではない』といいました。それで、あらかじめ明徳を選んで、王を太子に立て、嗣という幸いを与え、民を授けたのです。その寵の章をとうとび、国に知らせました。我は賢ではないけれども、先帝の命を棄てて、弟王の願いに従うことはできません」といった。
 固辞してうけず、それぞれが譲りあった。

 このとき、額田大中彦皇子(ヌカタノオオナカツヒコノミコ)は、倭の屯田・屯倉を手に入れようとして、その屯田司である、出雲臣の祖、淤宇宿禰(オウノスクネ)に、「この屯田は、もともと山守の地だ。そこでいま、吾が、治めよう。おまえはつかさどってはならぬ」といった。淤宇宿禰は、太子に申し上げた。太子は、「おまえは、すぐ大鷦鷯尊に申し上げなさい」といった。・・・(中略)・・・。

 そののち、大山守皇子は、先帝が廃して立てなかったのをいつも恨んでいたが、かさねてこの恨みがあった。そこで謀って、「我は、太子を殺して、あげくに帝位に登ろう」といった。大鷦鷯尊は、前もってその謀りを聞き、ひそかに太子に告げ、軍備をととのえて守らせた。で、太子は軍をととのえて待った。大山守皇子は、その軍備を知らずに、数百の兵士をひきつれ、夜半に、出発した。明け方に、菟道につき、川を渡ろうとした。このとき太子は、粗末な着物をまとい、檝櫓を取って、ひそかに渡し守に混って、大山守皇子を乗せて渡した。川中にきたとき、渡し守にたのんで、船を踏んで傾けた。大山守皇子は川におちて沈んだ。

   さらに浮いて流れながら歌った。

 威勢のいい人
 宇治の渡しで 棹を取って 
 速ばや渡る人こそ
 わたしのお婿さんに来てほしい

 しかし伏兵が多く起ちあがり、岸に着くことができず、とうとう沈んで死んだ。その屍体をさがし求めさせると、考羅(かわら)の渡しにうかんだ。太子は、その屍体を視して、歌った。

 威勢のいい人よ
 宇治の渡しで
 渡り場に 立っている マユミの木
 それを伐ろうと 心では思うが
 それを取ろうと 心では思うが
 本のあたりには 君を思い出し
 末のあたりには 妹を思い出し
 心痛むことを そこに思い
 可憐なことを ここに思い
 伐らずに来たよ マユミに木

 那楽山(ならやま)に葬った。

 さて、もはや宮室を宇治におこし、そこに居たが、なお位を大鷦鷯尊に譲ろうとして、それで久しく皇位に即かなかった。そこで皇位が空のまま、すでに3年になった。ときに海人がいて、鮮魚の包みを持ち、宇治の宮に献上した。太子は、海人に令して、「我は天皇でないから」といい、すぐさまひき返して難波に進上させた。大鷦鷯尊はまたひき返して、宇治に献上させた。こうして海人の包みは、往来のあいだにしおたれくさってしまった。もういちどたち返って、他の鮮魚を取って献上した。譲るのは前日とかわらなかった。鮮魚はまたくさった。海人は、たびたび立ち返るのに苦しみ、鮮魚を棄てて泣いた。それで、諺に『海人でもないのに、自分のものがもとで泣く』というのは、これが起源である。

 太子は、「我は、兄王の志をやめさせられないのを知っている。どうして長く生きて、天下を煩わそうか」といい、自殺した。大鷦鷯尊は、太子が薨じたと聞き、驚いて難波から馳せつけ、宇治の宮についた。このとき太子が薨じて三日が経っていた。大鷦鷯尊は、胸を打ち大声で泣き、どうしていいかわからなかた。と、髪を解き屍にまたがり、「わが弟の皇子よ」と三たび呼ぶと、たちまちにして活き、自分で起きてすわっていた。大鷦鷯尊は、太子に語って、「悲しいかな、惜しいかな、なぜ自殺などしたのか。もし死者も知ることがあるとしたら、先帝は、我に何というだろうか」といった。太子は兄王に、「天命です。だれがよくとどめるでしょう。もし天皇のおもとに向うことがあれば、くわしく兄王が聖であって、しばしば譲ったことを、奏します。しかも聖王はわが死を聞いて、遠路を急ぎ馳けてきました。どうして労わずにいられましょうか」と申し上げた。そして同母妹の矢田皇女(ヤタノヒメミコ)進上し、「正妻には不足かもしれませんが、なんとか後宮の数にいれてください」といい、また棺に伏して薨じた。大鷦鷯尊は、白衣をきて、発哀し、大いに慟哭した。そして宇治の山の辺に葬った。


古事記によると

 さて、神から名を賜うた品陀和気命(ホムダワケノミコト/応神天皇)は、軽島明宮(かるしまのあきらのみや)に坐して天の下を治めたもうた。この大君は、品陀真若王(ホムダノマワカオウ)の三柱の娘を妻にした。・・・(中略)・・・。

 また、丸迩(ワニ)の比布礼能意富美(ヒフレノオホミ)の娘、名は、宮主矢河枝比売(ミヤヌシヤカハエヒメ)を妻として、生んだ御子は、宇遅能和紀郎子(ウヂノワキイラツコ)、つぎに妹の、谷田若郎女(ヤタノワキイラツメ)、次に、女鳥王(メドリ)、この三柱である。・・・(以下略)。

 ある時、品陀和気命(ホムダワケノミコト/応神天皇)大君は、御子の大山守命(オホヤマモリノミコト)と大雀命(オホサザキノミコト)呼び、「そなたたちは、年上の子と年下の子といずれを愛しいと思うているか」と問うた。そう聞かれて、大君の御子たちのなかでも年かさ積もった大山守命は「年上の子こそが、愛しいと思うております」と答えた。つぎに、大雀命は、大君がお尋ねになった心持を見抜いていたし、おのれは、御子たちの中では上でもなく下でもなくという歳でもあったので、「年上の子はすでに物の見分けのつく人になっておりますので、心に掛かることもないのですが、年下の子はいまだ人とは言えませんので、わたくしは下の子を愛しいと思っております」とこたえた。

 すると大君は、「大雀命よ、そなたの言葉は、われがつねづね思うていたのと同じであることよ」と仰せになり、すぐさま、御子ごとに果たす政を分け与えられた。「大山守命は、山や海の政をせよ。大雀命は、統べる国の政を受け持ち考えて大君に申し上げることをもっぱらにせよ。宇遅能和紀郎子は、日継となりて天の下を治めよ」と。そこで、大雀命は、大君の仰せに背くことなくお仕えした。



 ある時、品陀和気命(ホムダワケノミコト/応神天皇)の大君が近淡海(ちかつおうみ)の国に越えいでました時に。宇遅野の上に立って、目の前に広がる葛野を眺めながら歌を歌った。

 千もの葉の繁る 葛野を見ると
 百にも千にも余る 家々が見える
 国のすばらしい処も見えるよ 

 そして、そこから木幡の村に到りいました大君は、うるわしいおとめと別れ道のところで出逢うたのだった。そこで大君は、そのおとめに、「そなたは誰の娘ごであるか」と尋ねると、おとめは、「丸迩(わに)の比布礼能意富美(ヒフレノオホミ)の娘で、名は宮主矢河枝比売(ミヤヌシヤカハエヒメ)と申します」と答えた。すると大君はすぐさま、そのおとめに、「われは、明日ここを通ってもどる時に、そなたの家に立ち寄ることにいたそう」と言った。  

 それで、家に帰った宮主矢河枝比売は、その出来事をこまかに父に語った。すると、それを聞いた父の比布礼能意富美は答えた。「それは大君に違いない。畏れ多いことだ。わが子よ、お仕え申し上げなさい」そう言って、その家を飾り調えて待っていると、明くる日に、言葉どおりに大君がおとずれ家に入った。

 それで、大君のためにあつらえた供え物を出して奉る時、比布礼能意富美は娘の宮主矢河枝比売に大きな酒杯(さかずき)を持たせて、大君に差し上げた。すると大君は、その酒杯を受け取りながら歌を歌った。

 この蟹は どこから来た蟹
 ずっと向こうの 敦賀の蟹
 横歩きしながら どこに行くのか
 いちじ島から み島に着いて
 かいつぶりのごと 水に潜って出て息をして
 上り下りの ささなみ道を
 すいすいすいと わしがお出ましなされると
 木幡の道端 出逢うたおとめご
 うしろ姿は 小さな盾で
 歯の並びざま しいの実ひしの実
 いちいの生えた泉のそばの 丸迩の坂なる赤土を 
 上面は はだが赤っぽいので
 底なる土は どす黒いので
 三つ並ぶ栗の実の その中ほどあたりのいい土を
 頭を焦がす火は避けて とろ火でとろりとろとろと
 炒って作った眉墨を かくもだらりと画き垂らし
 出逢うたおとめご うるわしく
 ああであればと わしの思うとおりのおとめ子よ
 こうであればと わしの思うとおりのおとめ子に
 心も張り裂けそうに 向かいおうていることよ
 はだ触れ座っていることよ

 こう歌った後に、大君と宮主矢河枝比売は結びあい、生んだ御子は、宇遅能和紀郎子である。



 さて、品陀和気(ホムダワケ/応神天皇)の大君が亡くなった後のこと。大雀命は、大君の仰せに従って、天の下を宇遅能和紀郎子に譲ろうとした。ところが、大山守命は大君の仰せに従わず、どうしても天の下をわがものにしようと思って、その弟の御子を殺そうとする心があり、密かに兵を集めて攻めようとした。すると大雀命は、大山守命が兵を集めているという知らせを聞くとすぐに、使を宇遅能和紀郎子のもとに遣わして告げ知らせた。

 それを聞いて驚いた宇遅能和紀郎子は、すぐに、おのれの軍人を宇治河のほとりに伏せ隠し、また、近くの山の上に絹の垣を張りめぐらし、その中に布で覆った仮小屋を設え、相手をだますために、そばに仕える舎人の一人を御子の替え玉にして、下から見えるところにわざと呉床(あぐら)を置いて座らせ、百(もも)の官人(つかさびと)たちが大君に謁えるために往き来するさまも、御子がいます時と同じにして、さらに、その兄の大山守命が河を渡ろうとする時のために、船と楫(かじ)とを設け整えておいて、さねかずらの根を掘って臼で搗き、そのぬめぬめとした汁を集めて、しつらえた船の底に敷いた簀の子に塗りつけて、踏むと滑って倒れる設けをして、おのれは見すぼらしい麻布の衣と褌(はかま)とを身に着けて、上から下まで賤しい人の身なりをして船の楫取りとして船の中に立っていた。

 そこに、大山守命が、兵士を叢(くさむら)に隠し伏せ、おのれは衣の下に鎧を着て、河のほとりに到り、船に乗ろうとする時に向かいの山の飾りたてたところを見上げ、弟の御子がその呉床に座っているものと思い込み、まさか楫を持って船に立っているのが弟だとは思いもよらずに、船に乗るやいなや、楫取りの者に問うたのだった。

 「この向かいの山に荒ぶる大きな猪がいると伝え聞いてきたのだ。わしがその猪を獲ろうと思うのだが、どうだ、お前はわしがその猪を取れると思うか」 

   すると、その楫取りの者は答えて言った。

 「叶(かな)わぬでしょう」

 すると、また問うて、

 「いかなる故か」

 「しばしば、あちらこちらから獲ろうとする方がみえて試されるのですが、どなたも猪を獲ることはできませんでした。それで、あなた様にも叶わぬと申し上げたのでございます」

 と楫取りの者は答えた。

 そして、大山守命を船に乗せて河の中ほどに渡り到る時に、舵取りはその船をわざと揺らして傾けさせ、大山守命を水の中に堕とし入れた。すると、大山守命はあわてて水の面に顔を出したが、水の流れが速くて、その流れのままに流れ下っていってしまった。そして、流れ下りながら歌を歌った。

 流れ恐ろしき 宇治の渡りに
 棹取りの すばやい者よ
 わが助太刀に早く来てくれ

 すると、宇遅能和紀郎子が河のほとりに隠しておいた軍人(いくさびと)が、あちらこちらからもろともに現れ出て矢をつがえて狙い定めたので、大山守命は岸辺に近寄ることもできず、そのまま流されていった。そしてついに、訶和羅(かわら)の前(さき)のあたりに到って水の中に沈んでしまった。そこで、宇遅能和紀郎子の手の者が、鉤(かぎ)の付いた長い棹を使って沈んでいるあたりの水の底を探ってみると、衣の中に着込んでいた鎧(よろい)に鉤が引っかかり、かわらかわらと鳴った。それで、そこを名付けて訶和羅の前と呼ぶのだ。

 そうして、水の底から骨(かばね)を引き上げた時に、弟の御子宇遅能和紀郎子は歌った。

 すばやい人のいる その宇治の渡りに
 渡りの瀬のそばに
 立っている 梓弓の木と真弓の木
 伐り倒そうと 心には思うけれど 
 根元をみると 君を思い出し
 梢をみると 妹を思い出す
 あれこれと心を痛め そこで思い出し
 愛しいことにも ここで思い出す
 伐ることもできずに来たよ
 梓弓の木と真弓の木よ

 そして、引き上げた大山守命の骨は、那良山(ならやま)に葬った。この大山守命は、土形(ひじかた)の君、幣岐(へき)の君、榛原(はりはら)の君らの祖(おや)である。

 さて、残ったのは大雀命と宇遅能和紀郎子の二人の御子。この二人の兄と弟は互いに天の下を治めるのを譲り合っていた。
 ある時、海人が貢ぎ物の海の幸を奉ろうとした。ところが、兄の大雀命のところに持って行くと弟のもとに届けよと言われ、弟の宇遅能和紀郎子のところに持って行くと兄のもとに届けよと言われる。互いに譲り合い、そのたびに、海人はあちらへ行ったりこちらへ行ったりしている間に、あまたの日を経てしまった。譲り合うといっても、一たび二たびのことではなかった。それで、海人は二人の御子の間を往き来するのに疲れ果て、おまけに貢ぎ物の海幸の魚(な)は腐りかけてしまうし、しまいには泣き出してしまった。

 海人なればこそ おのれの獲物に泣く

 という諺ができた。
 しかしながら、譲り合っていた二人の御子のうち、宇遅能和紀郎子はその後じきに亡くなってしまった。それで、日継を拒んでいた大雀命が、品陀和気(ホムダワケ/応神天皇)の後を継いで天の下を治めたもうことになった。


参 拝 日平 成 15 年 4 月 21 日 (月)
ア ク セ ス京 阪 宇 治 駅 よ り
徒 歩 約 4 分












菟 道 稚 郎 子 尊 系 図

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