y−toku long interview
〜我進我道〜
脱獄者からのメッセージ



―――新天地大阪で大学院生活を迎えることとなったわけですが、何かとま
どいや変化はありましたか?

「やっぱり、とまどいは当然あった。キャンパスの施設にしてもどこに何が
あるのか覚えなあかんし、システムも当然違うわけやから。ゼロどころかマ
イナスからのスタートっていう感じやった。院に入って環境も変わったけど、
自分自身地獄のどん底から這い上がるためにリセットしたい気持ちがあった
からいろいろなことをした。まず変えたのは髪型。顔相学では額を出す方が
良いっていうのを聞いて、前髪を上げた。それと名前の『徳』の字を旧字体
にした。今まで戸籍通りの旧字体は入試のときとか特別な場合にしか使わな
かったけど、大学院に入ってからは名前を書く必要があるたびに旧字体にし
た。生まれたときに授かった名前で、素に戻ってやり直したいっていう気持
ちがあったからね。」

―――で、大学院では勉強メインの生活になったわけですが?

「まあ、学生の本分は勉強って常に考えてやってきたけども、さらにその比
重を高めたっていう感じ。でも最初に指導教官を決める際に、何故か自分だ
けタライ回しにされてね。教官は基本的に自分の研究中心やし、少子化で大
学の再編・統合が進む中、教官も結果を残さないとやっていけない時代やか
ら、それは分かるけど・・・。でも少し納得いかない部分もあった。」

―――やはり大学と大学院では勉強は違う?

「基本的に延長線上になると思うんやけど、指導教官は正反対のタイプやっ
た。大学院に入ってからはどういうわけか過大評価されて、正直こんなに出
来るはずない、っていう所まで要求された。1対1のゼミやったんで自分が
やる以外になかったんやけど、1人でこなせる量には限界があるし。でも、
まあこれは大学院の宿命の一つやと思う。院まで進学して勉強する人間は当
然学部生より少ないし、そうなるとゼミの人数が少なくなるのも当然やしね。」

―――やはり自分で自分を追い詰めていった?

「まあ、そうしないと出来ないから。確かに研究者は経験や努力っていうも
のがあまり生きないし、才能やひらめきにある程度支配されるのは事実。で
も、その世界にどこまで食い下がれるかっていうのに挑戦してみたかった。
そやから自分みたいなタイプの人間はひたすら頑張るしかない。寝るときに
夢を見ると、『まだ夢を見る余裕があるのか・・・』って悔しかった。それ
だけ自分は頑張りきれてないんか、って思ったし。」

―――この男を見ていると何故か「プロジェクトX」を思い出す。決して光
は当たらないものの、悩み、苦しみ、努力する人間がここにも一人確かにい
るのである。そんな中で、どのようなリラックス法を持っているのか聞いて
みた。

「勉強の中にもリラックスはあるしね。数学を専攻していたけど、大学院で
はある程度専門外の勉強もしなくてはいけなかったから、そういう部分はう
まく流した。出席簿に名前だけ書いて帰っちゃったりね。力を抜く部分は大
学院に入って初めて覚えた。あとは、勉強とかで煮詰まってイライラしてく
ると、寺社に行ったり伊丹空港に行って飛行機を眺めたりして気持ちをコン
トロールした。
音楽もリラックス法の一つかな。ゆとりが無いときに音楽を聴くと何故か涙
が出てきてしまう。倉木麻衣の『冷たい海』なんかも、それまでは特に何と
も思ってなかったけど、あるとき聴いたら自分でもビックリするくらい涙が
出てきた。本能の部分で自分自身をコントロールしていたのかもしれないね。」

―――勉強以外の周囲の変化については?

「大学院入学直後は、新たな環境に飛び込んで自分のことを知っている人間
もほとんどいなかったし、気持ちを切り換えて『さあ、これから』って頭の
中では分かっていたけど、身体はそれを許してくれなかった。見知らぬ人と
話すと震えが止まらなくなってしまっている自分がそこにいた。そんな簡単
に対人恐怖症が消えるはずもなかった。それに、ゼミが教官と1対1やった
から、理解してくれる人間が身近にいなかったのもきつかった。
ゼミ自体も厳しかったしね。人の前で話す恐怖心っていうのは少なからずあ
ったから。ゼミの前日は本当によく眠ることは出来なかった。寝れても2,
3時間で、しかもその間に3,4回目が覚めたから、全く寝た気がしなかっ
た。」

―――恋愛については?

「また恋愛?(笑)。確かに、ここまでの地獄を経験してきたんやから、少
しは幸せを求めても良いのかな?っていう気持ちもあった。やっぱり周囲の
人間が恋人とつきあっているのを見ると羨ましかったし、自分も周りが羨ま
しがるような恋人とつきあいたかった。世間の人たちがやっているような普
通の恋愛を学生時代に経験したかった。一緒に映画見に行ったり、一緒に観
覧車乗ったり、一緒にレストランで食事したり・・・。でも身体がどうして
も受け付けてくれなかった。こんな自分自身に対して腹が立ったし、悔しか
った。そして、これを周囲の友達になかなか理解してもらえなかったのが虚
しかった。」

―――やはりこの男が受けた傷は笑って済ませられるような次元ではないよ
うな気がする。普通の恋愛が出来ない恐怖を背負い込んでしまっていても、
気丈にそれを話している姿には逆に申し訳なさを感じてしまうほどだった。
話を変えて。研究者から就職の道を選んだことについて話を聞いてみた。

「厳密に言うと、まだ研究者の道を諦めたわけじゃないんだよ。最近、都市
部の大学で需要の高い保険数学の道に進もうと思ってやっているわけで、た
またまそれを学ぶ場が保険会社っていうだけ。だから、将来もし大学から講
師の依頼とかあったら迷わず引き受けたいし、また、そういう依頼がくるよ
うに精進していかなあかんと思う。可能性は低いかもしれないけど、決して
研究者を完全に諦めたわけじゃないから。」

―――そこに至るまでの葛藤はあった?

「特に周囲の人間の反応が厳しかった。それまで研究者になることを目指し
ていたときは散々バカにしていた周囲の友人が、企業に就職することを知っ
た途端、『えっ、研究者になるんじゃなかったの?』だもん。一体どうした
ら周りから認めてもらえるのか悩んだ。けど、それを後押ししてくれたのは
長嶋茂雄前巨人軍監督の勇退。まだ出来るのに、きっぱりと身を引くってい
う引き際の格好良さを感じた。ここでの人生のターニングポイントは長嶋さ
んに教えられたね。この勇気と決断力は見習うべきものやと思う。」

―――そしてアクチュアリー(保険会社の財務管理人)試験に挑戦しました
が?

「修士1年の時に、ちょうど小学校の同窓会が試験の前々日にあって、行こ
うと思えば行けたんやけどあえて断った。大学院入試、教育実習と2度の人
生の方向転換をして、もうこれ以上は経験したくなかったし甘えるわけには
いかなかったから。けど、これをきっぱり断ったことでアクチュアリー試験
への良い弾みになった。その後、試験前に tomiyanから遊びの誘いと
かしつこくあったけど全て断った。だって、これを断らないと同窓会を断っ
た意味がないから。」

―――修士1年のときにはアクチュアリーの5つある試験のうち2つに合格。
しかし修士2年では残念な結果に終わりましたが?

「決して手を抜いたつもりはなかったし、精一杯自分でもやったけれども、
やはり体調不良は否めなかった。試験3日前の24歳の誕生日に突然心臓の
あたりが痛くなり、立っていられないほど苦しくなった。その時は家にいた
んで、すぐさま受話機を握って救急者を呼ぼうかと思ったけど、もしこれで
入院とかってなったら試験を受けることが出来なくなるから、と思いとどま
った。それから試験日を含めて1週間くらいは心臓との闘い。本当に死ぬん
ちゃうかって何回も思った。けど今は自分の身体を信じるしかない、って思
って試験には挑んだ。確かに入社前からこんなに無理する必要はないのかも
しれないけど、最初に甘えてしまうとクセになってしまうからね。目眩はす
るし吐き気は止まらんし、最悪のコンディションやったけど逃げずに立ち向
かった部分だけは評価できるかな。
今振り返ってみると、病院には行ってなかったから詳しくは分からんけど頻
脈やったんかな、って思う。ちょうど修士論文の時期と重なっていたし、肉
体的な疲労に加え、直前には中学校時代の恩師が急逝したり小学校時代から
の友人が倒れて病院に運ばれたり、精神的にもピークにきていた。それに今
まで積み重ねてきた慢性的な疲労が重なって一気に爆発してしまったのかも
しれない。」

―――何故、無理してでも挑戦した?

「修士論文を早めに仕上げれば教官がアクチュアリー試験の勉強時間をくれ
るってことやったんで、必死にやっていたからね。結局、論文の完成が遅れ
て時間的な猶予は全く無かったけど。でも、人生のうちでこういったチャン
スは限られているから、その一つ一つを見極め、大切にし、重要な機会は逃
すわけにはいかないからね。大学4年の時、地獄のどん底を経験したときは
嫌な兆候が以前からあったにも関わらず、惰性のまま生活していたらズルズ
ルと深みにはまっていったから。やっぱりこういったのを見極めるのも大事
やと思う。」

―――やはりコンディションが良かったら受かっていた?

「いや、それは別の話。それやったら、コンディションが悪くても受かるく
らいの実力をつけておけばええわけやから。結局は自分の実力不足に尽きる。」

―――余計な言い訳をしないのもこの男の特長である。潔く自分の非を認め
る部分は簡単そうに見えてなかなか真似はできない。
最後に、大学院時代の総決算と言える修士論文について詳しく聞いてみた。

「大学院時代だけではなくて、18年間の学生生活の集大成やと思ってたか
ら、とにかくありったけの気持ちをぶつけて修士論文を仕上げた。それで、
他人の数倍の量になってしもたけど、自分ではその出来には満足している。
個人的にはお世話になった人たち全員に対する謝辞を修士論文に入れること
が出来なかったのが少し残念やね。阪大図書館に製本されて保存される以上、
プライバシーの問題とかあるから勝手に他人の名前を書き込むわけにもいか
んし。
それと、TA(ティーチングアシスタント)を引き受けたのも良かったと思
う。1回生の微分積分学を担当したけど、自分が勉強してきたことを全て次
の世代に注ぎ込んでやろう、と思って精一杯やった。修士論文とTAに関し
ては自分なりに満足のいく結果が出せたと思う。」


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